河童渡来の地・八代(かっぱとらいのちやつしろ)八代市
所在地
八代市
利用案内
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- トイレ:
解説
民族大移動海を越えてやってきた河童たち
中国から来た河童(カッパ)
河童にまつわる昔話は北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々にのこっています。また、「河童の川流れ」や「陸に上がった河童」などのことわざもあり、広く親しまれている河童ですが、これが中国から八代にやって来て、やがて全国に広まったのだという話をご存じでしょうか。延享3(1746)年、江戸の菊岡沾凉という人が記した「本朝俗諺志」という書物にこのような話が出ています。
「中国の黄河にいた河童が一族郎党引き連れ八代にやって来て球磨川に住み着くようになった。その後、一族は繁栄してその数九千匹になったので、その頭領を九千坊と呼ぶようになった。その河童どものいたずらが激しく人々をこまらせた。加藤清正はこれを怒り九州中の猿に命令して、これを攻めさせた。これには河童も降参して、久留米の有馬公の許しを得て筑後川に移り住み水天宮の使いをするようになった。」
この話は後に「河童曼陀羅」など河童を題材にした小説で知られる火野葦平によって全国に広められました。
河童渡来の碑
前川に架かる前川橋周辺(本町三丁目)は徳渕津と呼ばれる港があった場所で、中世以来、八代の海の玄関として大変栄えたところです。この前川橋のたもとに河童渡来の碑があります。二つの石を組み合わせたりっぱな碑ですが、この二つの石をガワッパ石と呼びます。なぜそう呼ぶかというと次のような言い伝えがあるからです。
最初に河童がやってきた所がここ徳渕津で、ここに住み着いたあと八代で生活を始めた河童はいたずらを繰り返し、人々の怒りをかいます。とうとうつかまってしまった河童は、2つの石がすり減ってしまうまで悪さをしないことを約束し、その代わり年に一度祭りをして欲しいとお願いし許されます。この二つの石は後にガワッパ石と呼ばれ、橋石として使われていたそうです。また、その時以来始められた河童を祀る祭りを「オレオレデーライタ川祭り」といいます。「オレオレデーライタ」の意味については諸説ありますが、「呉の国からたくさん来られた」という意味だという人もあります。
悟真寺と河童
妙見さん(八代神社)の中宮のあった場所に悟真寺というお寺があります。元中7(1390)年、良成親王(よしなりしんのう)の命により菊池武朝が征西将軍懐良親王(かねながしんのう)の菩提寺として建立したと伝えられるお寺です。寺内には懐良親王から征西将軍を継いだ良成親王が筑後矢部から遺骨を運び造営したと伝えられる懐良親王の墓所があります。
このお寺にも河童にまつわる伝説とお祭りがあります。このお寺の開山大原孚芳和尚がある夜、便所で用をたしているといやな感じの手が伸びてきて和尚の尻をなぜます。和尚は不思議なこともあるものだと思い、静かに祈祷しながらこの手をいきなり折り取ってしまいました。みるとまさしく河童の手だったそうです。明くる晩から毎晩、片腕を失った美女が和尚の所へやってきて片腕を返してくれと和尚に泣いて頼みます。あまりに懸命に頼むので和尚は「中宮川(悟真寺の前を流れる川)の鐘が淵とめぐり渕の間では、子供が泳いだり、紙漉の人たちが仕事に使うが決してこれらの人の命は取らない」と約束させ、「約束を守れば毎年5月5日におまえの好物を川に流してお祭りをしてやろう。」といい、片腕を返してやりました。以来鐘が淵とめぐり渕の間では水難事故がないといわれています。
さて、河童と約束したといわれる川祭りは旧暦5月5日から6月第1日曜日と日は変わりましたが今も続けられています。昼前お寺に集まった子供たちはお祓いを受けた後、一番大将と呼ばれる子供が「中宮開山護真寺門」と唱え、お寺の対岸の鐘が淵まで初泳ぎをし、御幣をたてます。これに合わせて外の子供たちは竹に吊したナスや菓子を一斉に川へ投げ入れます。子供たちの手により今へ伝承されています。
参考文献
『夜豆志呂 21・22』 八代史談会編集・発行 1971
江上敏勝 『ふるさと百話 総集編』八代青年会議所 1983
『新・不知火海学』 熊本日日新聞社 1991
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