超入門! お城セミナー 第48回【歴史】「穴太衆(あのうしゅう)」ってよく聞くけど何をした人たちなの?
2019/01/17
初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回は、穴太衆について。石垣の説明板や解説書でよく目にする名前ですが、いったい何者だったのでしょうか。穴太衆のルーツと発展を紐解きます。
穴太衆は、延暦寺の門前町である穴太(現在の大津市坂本付近か)が発祥と考えられている。延暦寺山麓には、現在も穴太衆が手がけたといわれる石垣が残る
石積みのプロフェッショナル・穴太衆
石垣が見事な城を訪ねた時やお城ファンの会話のなかで、「あのうしゅう」という単語を聞いたことがありませんか?「穴太衆」と書くのですが、これは、近世城郭の築城で重要な役割を果たした、とある技術集団のことを指しています。今回は、この「穴太衆」についてのお話です。
穴太衆とは、近江国(滋賀県)琵琶湖西岸の穴太(あのう・あのお)という所に居住した石工(いしく)集団のことです。石工とは、石材を扱う工人、つまり石の職人のことです。高く堅牢な石垣を積む穴太衆の技術は、安土城(滋賀県)以降、城の普請で引っ張りだこになり、「石工といえば穴太」が定着して、近江出身でなくても石工のことを穴太衆・穴太方などと呼ぶようになりました。当初は固有名詞だったものが、石工全般のことを指す普通名詞になっていったのです。焼きもののことを「せともの(瀬戸物)」と呼ぶようになったのと同じような経緯ですね。
穴太衆の名が全国に広まるきっかけとなった安土城。しかし、穴太衆が安土城すべての石垣を手がけたかどうかは疑問視されている
「穴太積(あのうづみ)」という言葉も聞いたことがありませんか?これは、穴太衆が得意としたのが、自然石をほとんど加工せずに積んだ「野面積」だったことから、野面積のことを穴太積と呼ぶ人がいるためです。でも実際には、穴太衆だって打込接や切込接など、野面積以外の石垣も積んでいますし、穴太衆以外の石工集団が積んだ野面積もあるでしょう。ですから、「野面積=穴太積」と呼び習わすのは注意が必要で、「穴太積」や「穴太衆積」は「穴太衆が積んだ野面積」のことを指す、と認識しておくとよいでしょう。
「穴太積=野面積の別名」と認識されがちだが、野面積すべてが穴太衆の仕事とは限らないので注意が必要。写真の竹田城石垣も、かつてはすべてが穴太衆の手によるものと思われていたが、積み方が異なる箇所もあり、すべてが「穴太積」とは言い切れないようだ
寺院の石工で培った技術が全国に広まる
では、穴太衆はいつの時代から活躍していたのでしょうか?実は工人に関する記録はほとんどなく、また現在まで本格的な研究が行われていません。このため、わずかな史料や伝承、また技術面の検証をして推測するしかありません。
天智天皇の都・大津京(滋賀県大津市)の建設と運営には、多くの渡来系氏族が尽力したといわれていますが、古代から交通の要衝として栄えた大津から比叡山麓・比良山麓の琵琶湖西岸一帯には、少なくとも古墳時代頃には、技術や知識を持った渡来系氏族が集住していたようです。「穴太古墳群」という群集墳の、大陸由来とみられる横穴式石室の石積みは、穴太衆の野面積に石の配置がそっくりだそうです。石工の仕事のルーツは、石室の石を積んだり、墳丘に石を葺くといったものだったとみられています。
その技術が日本の風土に合わせて高められた要因は、比叡山延暦寺の開創です。比叡山の琵琶湖側の麓には、最澄が天台宗の守護神とした日吉大社があり、その門前町である穴太の里(現在の滋賀県大津市坂本一帯?)に居住する石工は、登山道の土留め、井戸・水田の石積、堂塔伽藍建立地の造成、基礎石垣構築、五輪塔の切出・加工などに従事して、技術を高めていったと推測されています。
穴太衆が技術を磨いた延暦寺にも、彼らの手によるものとされる石垣が残っているので、石垣めぐりをしてみるのも楽しいだろう
坂本の町に残る穴太積の石垣たち。1つとして同じものはなく、町に独特の美観を与えている
そして、全国的に穴太衆の名が知られるようになったきっかけが、安土城の築城です。世間があっと驚いた石垣の城の誕生には、やはり地元・近江の石工集団である穴太衆が中心的な役割を果たしたようです。ただ、スピードも要した安土築城には、全国のあらゆる技術者が集められたといい、安土城のすべての石垣を穴太衆が直接手掛けたというわけではないようです。とはいえこの後、近世城郭の石垣構築のために全国からオファーが殺到したことは確かでしょう。
石垣の城として有名な津山城。この城の石垣普請の責任者・戸波平衛門(となみへいえもん)も穴太出身の職人だといわれている
こうして穴太衆は各地の大名に招かれ、全国に穴太衆が手掛けた石垣をもつ城がたくさん誕生しました。穴太衆が関わった城は、一説には近世城郭の約8割といいます。しかし冒頭で説明したように、いつしか近江坂本の出身者でなくとも、石工全般のことを穴太衆と呼ぶようになったこと、また史料が少ないことから、正確なことはわかっていません。
間違いなく穴太衆が積んだ「穴太積」の石垣は、彼らの本拠地だった門前町・坂本で今も見ることができます。この町には、いわばお坊さんの隠居所である「里坊」が50か所以上も建てられました。その石垣が穴太衆の仕事で、このため町全体が時空を超えた異空間のように感じられます。ぜひ一度訪ねてみて下さい。日吉大社や延暦寺も、石垣見学をメインに訪ねてみるのも一興です。
さて、築城ラッシュが過ぎると石工の仕事が減ってしまったからか、穴太の技術継承もままならなくなったようです。坂本の粟田家は唯一今も「穴太衆」を名乗り、継承した技術をもって安土城、竹田城、岩国城(山口県)、高知城(高知県)といった城の石垣修復などで活躍しています。また、熊本地震で被災した熊本城石垣の修復プロジェクトにも参加しています。近年、粟田家が積む「穴太衆積」の技術力と美しさが再認識されて現代建築に取り入れられることも増え、海外からも注目されているとか。また、コンクリートブロックに勝る強度が実験で立証され、新名神高速道路の擁壁の一部にも採用されています。
粟田家が2014年に修復を手がけた竹田城天守台
この技術を途絶えさせないために、最近では全国数か所で石工職人になりたい若者を集めた講習会も開かれているとか。ぜひとも、穴太衆の技術をずっとずっと継承してもらって、天災や戦災を乗り越えてせっかく現在まで残った城の石垣たちの面倒を、いついつまでも看てもらいたいものです。
執筆・写真/かみゆ歴史編集部
ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。かみゆ歴史編集部として著書・制作物多数。
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