天石門別八倉比賣大神御本記
あれ、ちょっとぐーたらしてたら誰もいなくなっちゃったかな。まあ、もともと閑散としているブログなんですが。気をとりなおして。
天石門別八倉比賣神社に行ってきました。と言えば、いまさらなんだよー金返せ(もらってないよー)といわれそうですね。
まずは八倉比賣神社の略記をちょっと
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御祭神 大日孁女命(別名天照大神)
御神格 正一位、延喜式に記録された式内名神大社である。
仁明天皇の承和八年(八四一)八月に正五位下を授けられ
清和天皇貞観十三 年(八七一)二月二十六日に従四位上を
次第に神階を昇り、後鳥羽天皇の元暦 二年(一一八五)
三月三日正一位となる。
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る。
中略
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の 先導伊魔離神、葬儀委員長大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記さ れ、八百萬神のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
(重大な間違いを修正させていただきます。
此夜八百萬乃神々集爾集天嘘楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
この部分の「嘘楽」(かぐら)としておりましたが、「杉の小山の記」中の記載では
「口虎」(口編に虎)で「えらき」となっておりました。
http://goutara.blogspot.com/2010/05/blog-post_23.html
「えらぎ」「えらぐ」は「咲楽」とも書かれ、踊って楽しむ旨の言葉です。
古事記にも天照大神が天岩戸にお隠れになったときの段で天宇受売が岩戸
の前で踊ったときに、天照大神に
「益汝命而貴神坐。故、歡喜咲楽」と答えています。
「杉の小山の記」では「エラキ アソヒ」とふりがなが表示されています。
神社の看板にある由緒では「天照大神の葬儀執行の詳細な記録で」とあります。
中略
当社は、正一位杉尾大明神、天石門別八倉比賣神社等と史書に見えるが、本殿には 出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され、さきの神符と合せて、氏子、神官が代々八倉比賣神宮と尊崇してきたことに間違いない。
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で、案内板と同じような事を紹介しても面白くないので「天石門別八倉比賣大神御本記」に
ついてちょっとばかし書いてみようかなと思います。
でも、御本記の事ってあんまり出てないんですよね。
「高天原は阿波だった 山中康男 著」にも抜粋の感じで少しだけ出てましたけど。
全文を入力しようと思って、まずは「道は阿波より始まる」の付録の御本記から見てました。で、現代語訳をしようとしてあまりにも道が険しいので、さらに参考書を探しておりましたら2つ見つけました。
一つは著作権とかで引っかかるといけないので書名は出しませんが、もう一つはこれ。
「杉の小山の記」でございます。
天保二年(1831年)に記された多分唯一無二の「天石門別八倉比賣大神御本記」解説本です。珍本中の珍本と言えるでしょう。
「道は阿波より始まる」も当本を参考にしたのではないかと思われるふしがあります。
著者は出雲宿禰俊信(いずものすくねとしざね)、第七十六代出雲国造千家俊秀の弟。
「千家俊信」で検索をかけるとWikiで引っかかってきます。
本居宣長の高弟だそうです。つまりは国学者。
多分、
>出雲宿祢千家某の謹書になる浮彫金箔張りの「八倉比賣神宮」の遍額が秘蔵され
とある千家某とはこの人の事なんでしょう。
そしてページをめくれば
おお、「阿波國文庫(あわのくにぶんこ)」の蔵書印が。
「阿波國文庫」についてはあまりにも面白いので改めて書きます。
なぜでしょうか。
それはさておき、「道は阿波より始まる」と「杉の小山の記」ともう一つを見比べて
入力していきました。
ちょっと残念だったのが「道は阿波より始まる」には誤植?がいくらかあるようです。
「于時(ときに)」と書くべき所が「干時(ひでりのとき?)」となっていたり
「赭(あかつち)」が「猪(いのしし)」であったりし、また文脈もつながらないところ
が見受けられたので、この本を基とするのはあきらめ後の二冊をベースにしました。
ただ、丸写しではないです。これもまた文脈として疑問が出てきた所を最小限のつもりで
変更してあります。
つまり、後に示す御本記はどこにも載っていない「ぐーたら」解釈の御本記です。
物好きな人がコピーしていくのは構いませんが、そこんとこだけはご注意ください。
また(そんな人はいないと思うけど)どっかで使うときは必ず連絡してください。
ただ、自分なりには充分考証したつもりです。(自分なりにね♡)
まずは書き下ろしです。
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天石門別八倉比賣大神御本記
古天地初發之時 於高天原成神名号天之御中主神止
次國雅如浮脂多陀用弊琉之時状如抽葦牙物化為神号國常立尊止
而後在神伊邪那岐神 次妹伊邪那美神 此二神國土海原及山川諸乃霊神産生之後 伊邪那岐神洗左御目時所成神名号日孁大神是則八倉乃日孁大神也
最初高天原爾志氏武備志賜比志後 天石門別乃神爾勅天自今以後汝等吾爾代天武備乎奉負
亦曰此羽々矢此御弓於波葦原中國仁持降天可善地爾奉蔵永爾莫用矣
吾亦天降天其地可佳止宣氏天羽々矢乃天乃麻迦胡弓止於賜只
故二神高天原與利此弓矢於持下利賜布示時二神天乃中空爾立志氏此矢乃止所以奉蔵止盟給天発所乃矢則止流地 号矢達之丘(今謂矢陀羅尾)故二神此地爾矢於覚来利天周久覚給志加波其地於号矢乃野 其矢求出低永奉蔵地乎波号矢乃御倉
其弓於奉蔵之地乎波弓乃御倉止謂只
而後二神此地爾留坐天(松熊二前之神是也)御矢倉乃御弓於守利給㕝在年
而後比賣大神天八重雲於伊津乃路別爾千別天天降給只最初椙乃小川乃清只流乎照臨賜天此川乃水深志止謂登毛太早止宣喜故其所乎謂早渕乃邑止
于時大地主神(土宮是也)木股神(御井神是也)参逢天此河乃魚乎漁天奉饗太神禰言鰭乃狭物止謂止毛可食物也止故号其河鮎喰川
于時大地主及木股神爾勅言久吾可住在処矣汝等宣奉導大地主答曰久是與利西乃方朝日乃直刺山夕日乃日照留気延嶺阿利請其地爾可行幸止啓天奉引導
于時在神名於者伊魔離神止白天此野爾生採五百箇野薦八十玉籖雑々乃幣奉流(其採野薦地者謂五十串野其奉饗地者謂美阿閇野謂髪狭野止)是與利西乃方杉乃小山乃麓爾到利給者石門別神迎来天敬禮啓須
大神宣久汝等吾勅言乃如爾志氏天吾乎待志哉答曰久然前乃如神宣則此處御矢乎蔵地也止仍天太神甚加褒辞賜而此地爾一宿経而(此故爾謂矢倉乃郷止亦謂屋度利乃社止)猶山坂乎攀登天杉乃小山乎経天気延乃山爾到利給布于時広浜乃神参相天時節乃御衣奉留其地乎謂御衣足止
直爾気延乃嶺乃下津磐根爾宮柱廣敷立高天乃原爾峻峙榑風天天上乃如儀仁志氏天鎮座須(天石門押坐故天石門別云八倉郷爾坐姫御神故ニ八倉比売ト云)此夜八百萬乃神々集爾集天エラキ楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
其嘘楽之手草及雑々乃物乎所蔵者加久志乃谷止云
即大神詠曰
雲乃居留八倉乃郷能喜延山
下津岩根爾宮井曽女都毛
此後大泉乃神爾勅志天天真名井乃水於波玉乃碗爾汲湛天写左志女朝夕乃御食炊水止須
亦小泉神田口乃御田乎奉利弖御饌乃御田止須気延乃山亦乃名者神山大日孁貴坐故爾尊而云神山止
而後経二千百五年而到小治田御宇元年龝八月太神毛原美曽持爾託曰久吾宮地遙爾高峻志此故爾神主祝部巫乃百乃蒼生爾到萬天参詣拝趨爾倦労奈牟
杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也彼嶺爾欲遷座止吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵是其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
神主祝及百蒼生其神宣炳チコナル乎恐美畏美則杉乃小山爾宮柱太知立高天原爾千木高知天乃御蔭日乃御蔭止永仁隠坐弖國家乃大基乎守護御坐云云迂坐乃月者長月日者中三日此故爾此日乎以御霊現乃日止奉啓矣
奉授神位
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あー、目がくらくらする。
これじゃ、ただ書いただけなんで、これまた「ぐーたら」流に現代語訳したのを
記しておきます。
これも念押ししておきますが、あくまで「ぐーたら」の訳です。
他のどんな書籍にもありませんのでご注意を。
天石門別八倉比賣大神御本記
古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申します。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。
その後にも、神が生まれられた。
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。
この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。
これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。
また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)
われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。
そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。
その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)
そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。
その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。
その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。
最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。
その所を早渕の村という。
ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。
大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。
大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。
時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。
これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。
大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。
そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえて
この地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。
その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。
(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。
その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。
その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。
大神が(歌を)詠むには
雲の居る八倉の郷の喜延山
下津岩根に宮井そめとも
この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。
また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかして後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。
このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。
杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。
かの嶺に遷(うつ)りましょう。大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。
その時大神はそうであろうとおっしゃられた。
そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って
杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。
奉授神位
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さてさて、いかがでしょうか。
訳の巧拙はあっちへおいといて、「御本記」やたらと面白いでしょう!
さらに面白いのが「杉の小山の記」の解説。
例えば
此言吾御前乃谷乃水乎逆仁山乃頂爾漑流氐御田作以造宮乃料食止勅一夜爾而谷水逆洄而山頭爾至田則成熟其穂八束爾莫々然而喜穀(其谷乎左迦志麿谷云 其田乎志留志田云)
の部分。「ぐーたら」訳では、
そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。
一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。
田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
この部分の解説として
さかしま谷は杉の小山の南の麓、宮谷の郷にあり。しるし田も同じ所の小泉の下流にて
すなわち田の名も「こいつみ」といふて、不浄の物を肥にせず。
これはすなわち、しるし田の証、今に残れり。
うわあ、宮谷ってこのあたりじゃないですか。
それで「杉の小山の記」には絵図も載ってます。これがすごい!!
ぜひクリックして拡大図を見てください。
これもぜひ拡大して上の絵図と見比べてください。
いやほんとに航空写真と見まごうばかりの絵図じゃないですか。字が見にくいかも
しれませんがGoogleEarthに主立った地名を入れてみました。
これは凄すぎるでしょう。天保の時代にどうやったらこんな鳥瞰図が書けるんでしょうか。
そして「御本記」の内容。
一番気になったのが
「二千百五年を経て小治田の御世」の部分、原文では
「而後経二千百五年而到小治田御宇」とあり、小治田の御世に遷座されたってことは
当初造営されたのはそれより2105年前?おおっ?
また、「杉の小山の記」の解説部分は本が一冊書けるほどの内容です。
実際には一冊書けないので面白そうな所だけ紹介したいなと思ったりしております。
今回の最後に、
「入力してて死ぬかと思ったぞー」
との「ぐーたら」氏の心の叫びを記しておきます。
天石門別八倉比賣大神御本記(2)
前回の記事をご覧になってない方は、まず天石門別八倉比賣大神御本記からどうぞ。前回はとにかく文字ばっかりで、書いてる方も読んでる方も嫌になったと思いますので
詳しい解説を入れる前に「天石門別八倉比賣大神御本記」に出てくる地名で主な所の
画像を持ってる分だけ載せちゃいますので、ここらを知ってる人も知らない人も、ここら
がこんな所だってイメージを持ってもらえたらという事です。
まずは前回も載せたGoogleEarthの画像に少し追加しましたのを。
また、クリックして拡大表示してみてください。
画像では下、方角では東の方から見てみると。
「伊魔離神社」
「杉の小山の記」では國津神となってました。
道理でいくら調べても載ってないはずです。
「箭執神社」
御本記では矢の御倉となってる社です。
「ツカアナ」(矢野古墳)
説明不要でしょう。
「広浜神社」
「矢野古墳」のすぐそばです。おもわず見落としてしまうような
場所です。
「松熊神社」
御本記では弓の御倉となってます。
「ゆの丸」
「サカサ谷」の方面から見上げてます。
正面からちょっと左寄りのあたりです。
「本殿」(印璽の丘)
なぜか本殿の写真が見当たりません。
わざわざ撮っておく気がなかったんでしょうね。
「サカサ谷」「シルシ田」
この辺り一帯が「サカサ谷」らしいです。いつも散歩してるんだけどな。
で、一番奥まった辺りからここらまでが「シルシ田」のようです。
「矢達の丘」
うーん、竹林で覆われてます。ここのタケノコをいただいた事があるんですが。
「大泉神社」「御饌乃御田(みけのみた)」
五角形の井戸です。いわゆる「天の真名井」ですね。
正面の石垣の上が「御饌乃御田(みけのみた)」です。
これもあんまりいい写真がなかったんです。
「かくしの谷」「キタシ峯」
正面の谷が「かくしの谷」とおもわれます。
で、その右側が嘘楽を行った「キタシ峯」だと思うんですが。
最後にこの画像の下の方にある「一の鳥居」を
「一の鳥居」
上の画像でも解ると思いますが、本殿の東方向真っ正面です。
この写真で言えば扁額の真下に本殿が見えます。
いやあ、いかに地元の写真は真剣に撮ってないってことがありありと
解っちゃいますね。
いつでも撮れると思ってたらこの始末です。
なのですが、最初に重大な間違いを修正させていただきます。
此夜八百萬乃神々集爾集天嘘楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
この部分の「嘘楽」(かぐら)としておりましたが、「杉の小山の記」中の記載では
「口虎」(口編に虎)で「えらき」となっておりました。
該当ページを掲示します。傍線が該当部分です。
http://goutara.blogspot.com/2010/05/blog-post_23.html
天石門別八倉比賣大神御本記 (3)
前回の記事をご覧になってない方は、まず天石門別八倉比賣大神御本記天石門別八倉比賣大神御本記(2)
をご覧ください。
なのですが、最初に重大な間違いを修正させていただきます。
此夜八百萬乃神々集爾集天嘘楽賜其神集志所者喜多志嶺止謂
この部分の「嘘楽」(かぐら)としておりましたが、「杉の小山の記」中の記載では
「口虎」(口編に虎)で「えらき」となっておりました。
該当ページを掲示します。傍線が該当部分です。
言い訳ですが「道は阿波より始まる」及び神社の由緒書きにも「嘘楽」とありましたので
考えもせず記載してしまいました。
最も重要な部分を検証もせず、そのまま記載してしまいお恥ずかしい次第です。
そしてもっと重要な事はこの一文字で意味が逆転してしまうかもしれない事です。
「杉の小山の記」の解説部分を記載いたします。
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「ゑらぎ」とは観喜咲の三字を恵良岐とよみ、咲栄楽を「ゑらぎ」といえり。
続日本記三十巻の詔に、黒紀、白記乃御酒倍恵良岐云云。
雄略(記)に歡喜盈懐ともあり。きたし峯は奥谷の土地。
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「えらぎ」「えらぐ」は「咲楽」とも書かれ、踊って楽しむ旨の言葉です。
古事記にも天照大神が天岩戸にお隠れになったときの段で天宇受売が岩戸
の前で踊ったときに、天照大神に
「益汝命而貴神坐。故、歡喜咲楽」と答えています。
「杉の小山の記」では「エラキ アソヒ」とふりがなが表示されています。
神社の看板にある由緒では「天照大神の葬儀執行の詳細な記録で」とあります。
「道は阿波より始まる」も同様です。
前段に
「永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)」
との記載もあり、役目を終えて高天原にお帰りになるおめでたいことが、いわゆる人間界での
葬祭であるという解釈も当然成り立つでしょう。
が、ちょっと違和感を覚えてしまうのです。
天岩戸での宴の「エラキ」を引き合いに出して葬祭の模様とするのかな?と。
まあ、この件については結論は出ないかもしれませんが、もうちょっと考えてみます。
それで、この一文字については古事記の例もあるようなので「エラキ」とさせていただきます。
前々回の読み下し文は「エラキ」の文字がどうやっても出てこないのでカタカナ表記に修正いたします。
現代語訳の部分は意訳ですが「宴(うたげ)」といたします。
異論はあると思いますが、ご了承ください。
謹んで訂正いたします。
で、今回で「杉の小山の記」の注釈部分を載せていったん終わりにしようと思ってましたが、こんなの
が出てきてしまったので、もう一回くらい書いちゃいます。
なんで「懺悔の部屋(2)」にしなかったのか?
それは歴史の闇の中に沈んでいるのです(←バカですね)
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