藤原宮は阿波?、新益京は幻の都?
みなさんは、平城京遷都前の、「藤原宮」と「新益京」は同じものだと思っていませんか? それが定説ですが。
実は、日本書紀に「新益京」に遷都されたという記述は全く無いのです。 藤原宮(阿波)と新益宮(奈良)が区別して記載されており、地鎮祭も別々に行われています。
今、藤原京(奈良)と比定されているところは、新益宮(奈良)遺跡でしょう。
日本書紀から遷都に関連する文を抽出すると、
690年 持統天皇4年 ・壬申。高市皇子觀藤原宮地。
691年 持統天皇5年 ・甲子。遣使者鎭祭新益京。(奈良)
692年 持統天皇6年 ・戊寅。天皇觀新益京路。(奈良)
692年 持統天皇6年 ・丁亥。遣淨廣肆難波王等鎭祭藤原宮地。
692年 持統天皇6年 ・天皇觀藤原宮地。
693年 持統天皇7年 ・八月戊午朔。幸藤原宮地。
694年 持統天皇8年 ・春正月乙巳。幸藤原宮。即日還宮。
694年 持統天皇8年 ・十二月庚戌朔乙卯。遷居藤原宮。(★持統天皇、鴨島の藤原宮に遷都する。)
710年 和銅3年 ・元明天皇が平城京に遷都。
711年 和銅4年 ・『扶桑略記』に、大官等寺並びに藤原京が和銅4年(711年)に焼亡したという記事がある。(★鴨島の藤原宮が消失。)
そんな馬鹿な? と思われる方も多いかと思います。
ただ、この前図書館で「藤原宮-半世紀にわたる調査と研究」(1984年)という本をみつけて見てみると、今比定されている奈良の藤原宮については当時から疑問符がついていたようです。今も藤原京として認める確かな証拠は無いと思います。たぶん、新益宮として藤原不比等により奈良に建設された遺構が見つかっただけではないでしょうか。
藤原宮の根拠とされたのは、『万葉集』一の「藤原宮御井の歌」の内容に符合することとのことですが、これこそ、阿波鴨島町を舞台にしたことの証拠になります。
持統天皇の鴨島の藤原宮とはどんなところ?
万葉集の「藤原宮の御井の歌」にうたわれる場所は徳島県の旧麻植郡鴨島町と考えられています。
この地は、「麁服(あらたえ)」を調進する阿波忌部の本拠地です。
藤氏神社(藤原氏ゆかり)
藤井寺(四国八十八ヶ所霊場 第11番札所)
西宮古墳(7世紀初頭頃の忌部山型古墳。この周辺で東京国立博物館所蔵の蕨手刀が見つかっています。)
河辺寺跡(白鳳期の藤原宮式6646形式の瓦が出土)
西麻植八幡神社(阿波忌部・藍商人ゆかり)
敷島神社(旧式内社を合祀)
飯尾天神社(菅原道真を合祀)
国一八幡宮(昔は慶雲の宮と呼ばれていた)
八大龍王社(近くに、今でも湧水、龍王水が出ており、近所の人がよく汲みに来ています。)
などがあります。
奈良藤原宮跡出土の木簡「上捄国阿波評松里」の阿波はどこ?
Wikipediaによると、
昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上挟国阿波評松里」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。この木簡により7世紀末には郡ではなく評と表記されていたことが判明し、郡評論争に決着が付けられた[8]。この際、「上挟国阿波」の表記については(=上総国安房)と解釈されていた。
この阿波は、「安房」のことと解釈されているようですが、徳島の阿波のことではないでしょうか?
「上総」と解釈するのは無理があるのではないかと思います。
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