2023年12月31日日曜日

わが残照 : 阿波郷土史研究 書誌情報 : 著者 城福勇 著 出版者 城福秀子 出版年月日 1986.09



御本記は邪馬台国阿波説の中のアマテラス=卑弥呼説を主に強化するが、あくまで阿波説の多くの傍証の一つである。
だから一般にこの真偽は重視されていない。ただし御本記を擁護するなら口伝をある時期に書き起こしたとしたら表記、仮名遣いは新しくなるに決まっているということだ。

《次に『本記』はいつごろ偽作されたか。それはだいたい 『阿波国神社御改帳』完成の寛保三年(一七四三) ごろから、安永二年(一七七〇)の『阿波国二十二社順拝記』成立ごろまでであり、たぶん宝暦 (一七五一~六三)、 明和 (一七六四~七一)のころと考えてよい。 》『わが残照』城福勇1986年79頁より 

城福勇は江戸時代に書かれたとしているが、重要な点は御本記が印璽*と辰砂**に触れている点だ。

《大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。》
ぐーたら秋山ブログより

特に辰砂は明らかに若杉山遺跡の発見以前なのだから、偽書であるとしても辰砂の阿波における重要性、穿った見方をすれば若杉山遺跡の発見(これが阿波邪馬台国説の最大根拠である)を予見していたと言える。

志賀島の金印は1784(天明4)年2月23日に発見された(御本記推定成立年代より後)。これも真偽が議論される。
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若杉山遺跡は、1950年代には存在は知られていたが、1984年(昭和59年)からの徳島県博物館による発掘調査でその実態が明らかとなった。

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大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。

ぐーたら秋山ブログより

ぐーたら秋山ブログ

杉乃小山者不高不低不遠不近直善地也
彼嶺爾欲遷座止吾前爾従天持降流所乃瑞乃赤珠乃印璽於波杉乃小山乃嶺爾深久埋弖天乃赭乎以覆蔵是

其赭者諸邪鬼妖怪及諸病乎厭爾奇仁妙奈流験止教喩賜只
赭印璽止号弖奉秘崇是也其印璽所埋之地乎謂印璽乃嶺(又謂御石之峯)于時神主祝等啓申久大神乃如託宣可奉遷坐雖然無効験者諸人乃取信如何止其時大神宣久宣哉


杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。
かの嶺に遷(うつ)りましょう。

大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。

その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。
赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。
その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。

ぐーたら秋山ブログより



わが残照 : 阿波郷土史研究

書誌情報:著者城福勇 著出版者城福秀子出版年月日1986.9


https://dl.ndl.go.jp/pid/9576324/1/40


79頁

永井精古野口年長らの勝れた努力により、
現在の天石門別八倉比売神社、矢野村杉尾大明神と同一神であったこの神社は式内社天石門
別八倉比売神社の後身とはいえないこと。
(現在の天石門別八倉比売神社はもとより、 式内社天石門別八倉比売神社の祭神は天照大御神と
は考え難いこと
『本記』は偽書であり、信じるに足りないこと。
の三つが明らかとなった。 (24)の天照大御神祭神説は『本記』の説くところで、他には根拠となるものが何もない。 天石門
別八倉比売神社は、社号からいって祭神は天石門別八倉比売神である。 それを仮に『本記』のように天石門別神と八倉比
神の併せて二柱の神を祭ると考えても、天石門別神はともかく、八倉比売神という神名は、わが 『古事記』『日本書紀』
以下の古典にない。また天石門別八倉比売神という一神の名も、同様に全く見えない。 してみるとこの神社の祭神の性質
職能は知る由もないので、詳細は不明というほかはなかろう。
次に『本記』はいつごろ偽作されたか。それはだいたい 『阿波国神社御改帳』完成の寛保三年(一七四三) ごろから、
安永二年(一七七〇)の『阿波国二十二社順拝記』成立ごろまでであり、たぶん宝暦 (一七五一~六三)、 明和 (一七六
四~七一)のころと考えてよい。 偽作者が誰であるか明らかでないが、当時の「正一位杉尾大明神」=天石門別八倉比売
神社の神官富崎播磨守か、 その嗣子日向守が関与したことは確かだろう。 明和六年の『矢野村棟付帳』 (一宮神社蔵)によ
れば、同年の播磨守の年齢は六十五、日向守は三十三であった。 『本記』偽作の目的は、自社が他の杉尾神を祭る神社をお
さえて有利な立場に立ち、ひいては阿波神社界における自社の地位を高めようとしたのであろう。 宜長も『玉勝間』 巻七
において、
おのが仕奉る神を尊き神になさまほしくする事
はより
中昔よりして、神主祝部のともがら、己が仕奉る社の神を、 あるが中にも尊き神にせまほしく思ひ
ては、古き伝へのある御名をば、隠して、あるいは国常立尊をまつり、天照大神をまつり、
神部天皇をまつりなどいひて、例の神秘のむねありげに、似つかはしく作りなして偽るたぐひ、
世に多し。
といった。 彼の時代にも、同様なことが行われていたのである。 天石門別八倉比売神社もその例外ではなく、「神秘のむね
ありげに、似つかはしく」 『本記』を偽作して、天照大御神という最高の神格を祭神に仕立てあげた。そしてこの書の偽作
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