2023年12月26日火曜日

勝瑞城 - Wikipedia

勝瑞城 - Wikipedia

勝瑞城

勝瑞城は鎌倉時代から安土時代まで、淡路国讃岐国、阿波国の政治経済文化の中心地として、天下の勝瑞として名をなし、日本の中世史上重要な城跡である。旧吉野川の南岸の自然堤防上に位置し、東側には今切川、南側には湿地帯に接している。現在は吉野川の本支流に囲まれた吉野川平野の低湿地帯中央部に位置するが、当時は湿地帯が多く、川幅も広く攻めにくい地形であったと思われる。海岸線も現在より内陸部にあり水上交通も便利で、紀伊水道を隔ててはいるが、京畿への往来も容易であった。当地域は暴れ川「四国三郎」の分支流の多い場所で、平地の要塞というよりも、守護の居館、政庁としての性格の強い城で、城の構えは広大であった。室町時代の守護所の様態をよく伝える貴重な遺構である。

勝瑞城は、三好氏の菩提寺である見性寺の境内地にあり、城跡は東西約80m、南北約60mの方形で、周囲は幅14mの水濠が巡り、一部土塁が現存し、細川氏の守護所、三好氏の居館跡であったと思われていた。しかし、近年に行われた発掘調査によると、中富川の戦いの時に急造された詰めの城、最後のとして築かれた可能性が指摘されている。

0 件のコメント:

コメントを投稿