2023年12月28日木曜日

日本列島を見出した古代人の流れ – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究 那覇、ノロ

日本列島を見出した古代人の流れ – 日本とユダヤのハーモニー&古代史の研究

日本列島を見出した古代人の流れ

琉球諸島から始まる国生みのアプローチ

アジア大陸を東方に移動する民

昨今のDNA研究によると、古代、日本列島に住み着いた人々の多くは、まず台湾や琉球界隈に居住し、そこから海を渡って北上してきた可能性が高いのではないかと指摘されています。北海道の北方、極寒のアジア大陸より移住してきた民も少なからず存在したことには違いはなく、また朝鮮半島から海を渡ってきた渡来者もすくなくなかったはずです。しかしながら日本列島に移住してくる渡来者の主流は南方から始まり、日本列島を北へ向かって移動したという提言です。

古代、大陸より海を渡って日本列島に移住するということは、何かしらの目的意識がなければ到底、実行することができない程、困難かつ危険が伴う旅路でした。それでも海原を乗り越えて日本列島を訪れる民は後を絶たず、いつしか列島各地に集落が築かれていきました。古代の旅人は何を思い、何を夢見て、列島に住み着いたのでしょうか。

人類発祥の地はアフリカと言われ、そこから世界各地へと向けて、人間は移り住んでいきます。特に古代の旅人は自然と日の昇る方向へ移動する傾向があったと想定されることもあり、東に向かって旅するルートが徐々に発展したと考えられます。例えば中国の儒教では「天帝は北辰に座して南面す」という思想がありました。北極星を背にして南に向いて座ることにより、太陽は左手の東から昇ることになり、日の昇る東は沈む西よりも尊いと考えられていたのです。このような日の出る方角を尊ぶ思想や、太陽を崇める信仰は、古代から存在しました。よって、いつの日においても、日が昇る東方は大事にされていたのです。

広大かつ、豊かな自然環境に恵まれていたアジア大陸を移動した古代の旅人は、自らの拠点となる土地を選別する条件として、まず、豊かな水源を求めたことでしょう。それ故、川や湖の存在は極めて重要であり、そのほとりに集落を築くことが好まれたのです。また、太陽を中心に天体を観察しながらカレンダーを刻むという観点から、季節の変化も重要視されました。その結果、夏至、冬至、そして春分、秋分の日柄や、それに伴う太陽の位置の変化などが注目されたのです。春夏秋冬のような季節の変化は、豊かな自然環境と人体に優しい生活空間を実現しやすくするだけでなく、太陽をベースにしたカレンダーを刻む上でも分かりやすいことから重宝されたに違いありません。

こうして古代の旅人は長い年月をかけて、居住するにふさわしい土地を大地に探し求めた結果、南北3000km以上に渡って広がる日本列島が見出され、移住先の目的地として徐々に注目を浴びるようになったことと思われます。日本列島の大半は温暖な四季に恵まれた地域であり、豊かな水源だけでなく、海の幸、山の幸など、住み良い環境が存在したことから、集落の拠点とするに絶好の場所として古代人の目に映ったことでしょう。

そしてある時点から特定の民族集団が大陸より頻繁に日本列島を訪れ始めたと推測されます。その渡来人の集団は高度な文明を背景に、さまざまな大陸の技術を日本列島に紹介することになります。こうして新しい民の流入と共に、日本固有の文化の礎が築きあげられていくことになります。

世界への船旅を可能にした古代の優れた航海術

古代社会において、大陸経由の民が日本列島に渡来し、集落や重要拠点を見出した背景には、世界的な視野で地勢を見渡すことができる航海術を持つ民が存在していたと考えられます。

一見、古代では不可能と思えるような高度な航海技術であっても、日本で阿久遺跡が造られた縄文時代前期にあたる前30世紀頃、地中海周辺ではエジプトが初期王朝時代を迎え、それから200年もたたぬうちに古王国時代が始まり、ピラミッドの建造が始まったことを振り返れば、多くの可能性を秘めた時代であったことに気が付きます。古代の文化レベルは想像を絶する程高いものであったということです。

前26世紀頃にはギザの3大ピラミッドが建造され、エジプト文化の優れた土木技術を世界に知らしめることとなりました。今日でもピラミッドの背景は多くの謎に包まれたままですが、確かなことは、当時の天文学や土木技術に代表される古代文明は極めて高度な技術を保持していたということです。その後、西アジアにおいてはメソポタミア文化が発展し、シュメール文化を中心とする極めて高い天文学の技術と航海術を持つ民族が一世を風靡していたことが知られています。そして紀元前10世紀前後の時代では、西アジアからタルシシュ船が世界の海原を航海し、その船団は貴金属や衣類、象牙などさまざまな物を船で運び、世界の貿易に一役をかっていたのです。

このように、アジアを中心とする古代文明においては、遠い昔から航海術を駆使して海原を渡る民族が存在していました。そして全世界をくまなく行き来する過程において、アジア大陸の東の端にある日本列島も早くから見出されたことでしょう。そして時代の流れと共に、西アジアで国家を失った大勢の民が民族移動を開始し、その中には日本列島まで到達した人々が存在したと考えられるのです。

イスラエルの民が目指した東の島々

紀元前722年、北イスラエル王国が崩壊し、その直後、南ユダ王国も滅亡の危機に直面していた頃、エルサレムの町が攻略され、大切な神宝が略奪されることを防ぐため、それらの神宝を携えて故郷イスラエルの地を密かに離れて東方へと旅した人達がいました。神から「東の海の島々で神を崇めよ」という啓示を受けた預言者イザヤに導かれたグループです。

八重山列島を含む琉球諸島は、大陸から台湾経由で航海してくる民にとって「東の島々」の玄関の位置付けとなり、その中心的な存在が沖縄本島でした。琉球諸島の中でもひときわ大きく、温暖な気候と豊かな農産物に恵まれ、平野部が広がる沖縄本島は、住み心地の良さという視点からは、正に楽園として目に映ったことでしょう。そして次第に島の南側に存在する平野部を中心に古代集落が築かれ始め、その拠点はヘブライ語で「休息」を意味する「ナハ」と呼ばれるようになったのです。

イスラエルの南ユダ王国を脱出したイザヤの一行は、護衛しなければならない大切な神宝を携えていることもあり、タルシシュ船のような船団を準備してアジア大陸を海岸沿いに航海し、その東の果てから日本列島を目指して航海したと考えられます。イザヤ書に記されているとおり、イザヤは「東の島々」に約束の新天地があることを理解していました。そしてアジア大陸の南岸沿い東方へと向かい、長旅を続けてきた後、台湾、与那国島から先に浮かぶ島々を目にした時、目的とする「東の島々」の一端に到達したことを喜んだに違いありません。

アジア大陸から台湾へと渡り、そこからさらに海を渡り、琉球諸島において最初に到達した島は、いつしか与那国島と呼ばれるようになりました。与那国島は台湾の東に存在し、「東の島々」が連なっているということを証する最初の島です。もしかすると、海から陸地に吐き出されて命拾いした旧約聖書ヨナ書の記述にちなんで、与那国島と命名されたのかもしれません。そして一連の島々は、いつしか八重山列島とも呼ばれるようになります。八重山の「ヤエ」はヘブライ語で神を意味することから、八重山とは「神の山」の意となります。よって八重山諸島とは、「神の山が連なる島々」という意味に解釈できます。イザヤが目指した「東の島々とは」、神が約束された新天地であるからこそ、それらの島々は、「神の山諸島」「神山の島々」と呼ばれたのでしょう。

「休息」を意味する沖縄の「ナハ」

八重山列島を含む琉球諸島は、大陸から台湾経由で航海してくる民にとって、「東の島々」の玄関の位置付けとなりました。そしていつしか、その先に浮かぶ今日の沖縄本島が、その中心的な存在となったようです。琉球諸島の中でもひときわ大きく、温暖な気候と豊かな農産物に恵まれ、平野部が広がる沖縄本島は、住み心地の良さという視点からは、正に楽園として目に映ったことでしょう。そして次第に島の南側に存在する平野部を中心に古代集落が築かれ始め、その拠点はヘブライ語で「休息」を意味する נח (nach、ナッ)、「ナハ」と呼ばれるようになったと推測されます。

しかしながら、多くの渡来者にとって沖縄は、あくまで一時の安息の場でしかありませんでした。なぜならば、イスラエルの使命は新天地にて神の都と聖所を造営することであり、その場所は緯度、地形、周辺の環境等、総合的な判断から、沖縄本島周辺の琉球ではないことが分かっていたからです。遊牧民族であるイスラエル人にとって、沖縄はあまりに温暖すぎるため、従来のライフスタイルに合わないだけでなく、羊などの家畜を飼育するにも適せず、また、海に囲まれてはいるものの、湖や川という水源に乏しかったことが悔やまれたことでしょう。つまり故郷の都、エルサレムの地と比較すると余りにも緯度が低く、赤道に近い南国の島である沖縄の生活環境が、問題視されたと考えられます。

それ故、イスラエルからの渡来者は都を再建するためにふさわしい土地を見出す為、琉球諸島の先にも続く「東の島々」を巡り、地勢を検証する必要性に迫られたことでしょう。そして神の命と導きに従うことを重んじた民は、琉球の優しい生活環境に甘んじることなく、未知の島々を探索する任務を背負って、列島を北方に向けて再び旅立つことになります。

琉球に出現した女性祭司、「ノロ」

木造の船体しか存在しなかった古代、黒潮の流れにのって北上し、未知の島々に向かって長い船旅を続けるということは極めて危険な冒険でした。更に列島に沿って北方へ向かう潮の流れが大変速いことから、一度旅立つと二度と戻ることができないことも覚悟する必要がありました。それ故、船員は海の旅に慣れた男性を中心に選別され、列島の島々を巡り渡った後、新たなる拠点となる島を見出し、そこに集落を形成することを目指したのです。

使命感に燃えた男性の一行が、琉球界隈より未知の島々に向けて北方に旅立つということは、多くの女性や子供、老人が琉球、沖縄本島に残されることを意味していました。こうして沖縄はイスラエル移民にとって、「東の島々」の玄関となる一大拠点として位置付けられるも、そこに残された女性らに島の管理が委ねられことになったのです。民を司る男性リーダーが不在となった結果、西アジアから到来したイスラエルの民にとって不可欠な祭祀活動については、前例のないことながらも、できるかぎり女性リーダーがそれらの行事を司るという異色の文化が古代から形成されたのです。こうして男性祭司が不在の沖縄宗教文化は、ノロと呼ばれる神と通じることのできる女性祭司を中心に育まれていくことになります。

八重山では「ツカサ」とも呼ばれる女性祭司のノロの語源は定かではありませんが、ヘブライ語に起因している可能性があります。ヘブライ語には先生を意味する מורה(moreh、モレ)という言葉があり、その複数形が、מורות(morot、モロ)という言葉になります。民を導く先生方として「モロ」と呼ばれた女性リーダーらは、いつしか祭祀の役割を担うようになり、時代がたつと共に「モロ」が訛って「ノロ」となり、女性祭司の呼び名として定着したのではないでしょうか。

命をかけて沖縄を離れた者たちの多くは、行く先々で使命を全うし、家族の元に戻ってくることはありませんでした。そして彼らの帰りをひたすら待ち望む民は、「ノロ」に導かれる女性を中心としたグループだったのです。神を信じ、夫や子供、親族の帰りをひたすら待ちわびる女性達の思いは、沖縄の久高島で12年ごとに催されてきたイザイホーと呼ばれる祭り等からも、垣間見ることができます。

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