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当社に伝わる古文書『八倉比賣大神御本記(やくらひめおおかみごほんき)』には、「道案内の先導伊魔離(いまりのかみ)、葬儀委員長大地主神(おおくにぬしのかみ)、木股神(きまたがみ)、松熊(まつくま)二神、神衣を縫った広浜神(ひろはまのかみ)が記され、八百萬神(やおよろずのかみ)のカグラは、「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。」との記載がある。これは大日霊女命(おおひるめのみこと、別名:天照大神)の葬儀執行の模様が記されたものだといわれている。
「邪馬台国阿波説」と唱える人々は、当社の主祭神である大日霊命=天照大神と卑弥呼を同一と考え、これを根拠に奥の院にある古墳が天照大神すなわち卑弥呼の墓であると比定している。近くの宮谷古墳から見つかった三角縁神獣鏡も、その傍証の一つとして挙げられている。ちなみに「邪馬台国阿波説」で比定されている卑弥呼の居城地は、徳島県神山町神領字高根。鮎喰川の上流、標高700mの山上にある悲願寺(ひがんじ)あたりとされている。
『御本記』については偽書とする説もあるが、その真偽はさておいても、八倉比売古墳群の築造年代は4世紀後半より遡ることはないと見られている。卑弥呼没年の247年、あるいは248年から、少なくとも100年以上の隔たりがある(徳島市民双書・19『徳島の遺跡散歩』)。また、奥の院の祭壇については、石に苔がついておらず、崩れも少ないことから、江戸期の幕末をさかのぼるものではないとの見方もある(『日本の神々 2』)。
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当社の主祭神・大日霊命(天照大神)と、天石門別神(あまのいわとわけのかみ)および八倉比売神(やくらひめのかみ)との関係はよくわかっていない。
天石門別神は、天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話に登場する。櫛石窓神(くしいわまどのかみ)、豊石窓神(とよいわまどのかみ)の別名をもち、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の子にあたる。また「八倉」については、一般に「八」は「八重」 や「八千代」など数の多いこと意味し、「倉」は物を保管する建物のことで、「多くの倉」を表している。
大同2年(807)の『古語拾遺』によれば、神武天皇元年に神武天皇の命を受けた天富命(あめのとみのみこと)と阿波忌部(いんべ)氏一族が肥沃な土地を求めて阿波国へ上陸し、そこを開拓したとあることから、気延山麓一帯も阿波忌部氏の勢力下にあったとみられている。したがって、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏の祖霊にあたる天石門別神を奉斎し、気延山麓一帯の水田から収穫された収穫物を保管貯蔵する、多くの倉の守り神という意味であろうと推測される(『日本の神々 2』)。
「天石門別」を冠する神社は全国にいくつもあり、本サイトでも岡山県美作市の「天石門別神社」を紹介している。ここに直径・高さともに1.5mほどのまんじゅう型をした不思議な石積み遺構がある。形状は異なるが、正体不明の遺構という点では、どこか似ているように思われる。ご照覧あれ。
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