勅使饗応役、岡部長泰と忠臣蔵サイドストーリー
「初代岸和田藩藩主、私が愛した岡部宣勝」書ききれなかった事象について、触れておこう。
少し前回の記事岡部宣勝の祖母 洞仙院は家康の異母弟、松平康元の娘。家康の姪にあたる。正室は武将であり大名、桑山元晴の娘であった。徳川との関係深さは"紀州徳川のお目付け"に任命されたあたりで証明できる。
その息子が二代藩主である岡部行隆(在職1661~1686)。石高を5万三千石とし、売田地払い戻し政策などで農民の没落を防いだそうだ。
この親子はそろって、寛永年間から朝鮮通信使接待役をつとめた。その後岸和田藩では六代藩主長住の代まで朝鮮通信使接待役、つまり饗応役を申しつけられた。この饗応役には莫大な資金(普請)が必要であったことを付け加えておこう。その三代目、すなわち岸和田藩三代目藩主が岡部長泰だ。
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2代藩主・岡部行隆の長男として江戸にて生まれる。初名は宣就。貞享3年(1686年)8月25日、父の隠居により跡を継いだ。藩財政は豊かで、祖父岡部宣勝や父の藩政のもとで岸和田藩は全盛期を迎えていたが、長泰は奢侈を戒めて倹約を主とした法令を定めている。また文武を奨励し、特に儒学を好んで林鳳岡に儒学を学び、自らも講師として藩士などに儒学を講じている。和歌をたしなみ、武芸を好むという智勇に優れた人物でもあった。民政においても善政を布いたことから、「誉ある将」と賞賛されている。
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さて、ここから忠臣蔵の話だ。松の廊下の刀傷事件、いわゆる「赤穂事件」のサイドストーリーが講談などで、まことしやかに伝わるわけだ。忠臣蔵自体、数多く派生した番外編があるので不思議ではない。見てきたように語られるわけだが…。
高家筆頭の吉良上野介が勅使(ここでは天皇から江戸城にやってくる方々、年に2回が定例)饗応役の総監督であり、就任した赤穂藩、浅野内匠頭が吉良にどの程度配慮(わいろ)すべきかに苦心し、朝鮮通信使接待役、饗応役を代々続けている美濃守(岡部長泰)に相談する。「どのようなものを貢ぎますか?」。
美濃守いわく「ウチの藩は何にもしとらんよ。扇子一本差し上げただけ」と。そこで浅野内匠頭は、ほう、そんなもんですか先輩…と納得した。その挙句、浅野は吉良からいじめられ松の廊下の刀傷事件に至ったと。吉良が手を出せないほどの岡部家と徳川家の密接なつながり、認識なかったのだろうか?知らんけど。
なお、この物語にはさらにスピンオフ映画が存在する。
「刃傷未遂」(1957年)だ。現在は入手できないので見ていない。刃傷事件の約1年前を描いた作品で、岡部長泰(長谷川一夫)は吉良から無理難題を吹っかけられながらも、逆にこれをあしらい恥をかかせるというストーリーらしい。
なお、その入れ知恵をするのが「やくざの類」に進んだ長泰の弟(実在したの?)で勝新太郎が演じている。昭和32年ということだから、そのころには岡部長泰と忠臣蔵とのかかわりは、かなり認知度があったとみるべきだろう。
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