卑弥呼の改葬前と後の墓(邪馬台国阿波説)
<金印を墳墓に納めたことが古文書に>
全国には卑弥呼の墓とされるものがいくつもあるが、比定するにあたり、重要な三つの条件がある。一つ目に墳墓の径が百歩余り、ということ、二つ目に墳墓周辺から中国(魏)製の三角縁神獣鏡が出土していること、三つ目は当該墳墓周辺や卑弥呼の居住地域に金印がかつてあったこと。全国に卑弥呼の墓と呼ばれるものは多いが、これらの条件を全て満たす地はなかなかない。
一つ目の条件はあまりにも有名だから補足する必要もないと思うが、魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す、大いに冢(塚)を作る。径百歩余」とある。つまり、直径140~150mほどの墳墓ということ。
二つ目の条件については、魏志倭人伝に記述されている、卑弥呼が景初3年(239)、魏へ使者を送ったところ、魏から「銅鏡百枚」を与えられた、という、その銅鏡が三角縁神獣鏡なのである。
三つ目については、上記の遣いを送り、貢ぎ物を献上したことについて、魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王に任じ、金印を授けた、となっている。
この三つの条件、全てを満たす地が徳島市にある。式内大社、天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやぐらひめじんじゃ)周辺である。
神社背後には御神体となっている八倉比売神社一号墳(上図)があるのだが、古文献「天石門別八倉比売大神御本記」によると、祭神である大日孁命(おおひるめのみこと)を埋葬しているとのこと。
大日孁命は天照大神の別名である。つまり、多くの邪馬台国説同様、天照大神=卑弥呼とした上で、八倉比売神社一号墳を卑弥呼の墓と見做しているのである。
考古学関係者は、一号墳築造推定時期(4世紀代)と卑弥呼の生きた年代とが合わない旨、よく言うが、この古墳は御本記によると元々、背後に聳える気延山(212.3m)の「東の峯」にあった。小治田御宇元年(593)、現在地に改葬しているのである。
その東の峯にあった墳墓について御本記には「神陵の径百八歩」と記されているのである。更に大日孁命の葬儀の様子も記述されているのだが、驚くことに墳墓に金印を納めたことも記されているのである。但し、この金印の詳細については分からない。
ところで卑弥呼が授かった金印は公的なものなのだが、古代中国では皇帝から金印その他の印を授かった場合、その者が亡くなった時は印を皇帝に返却するのが通例だった。
但し、特に遠方在住者はこの限りではなかった。例えば都から遠く離れた雲南省在住者の場合、返却せず、当該者の墓に納めている。まさに大日孁命の場合と同じである。
そもそも、金印を墳墓に納めるケース等、日本に於いては極めて稀なことである。尚、金印は卑弥呼から次の時代の男王やその次の台与へ引き継がれた、という論者もいる。
三角縁神獣鏡については、一号墳は神陵ということもあり、発掘は行われていないので有無は不明だが、近くの宮谷古墳側から3枚出土している。平成元年の出土時、朝日新聞(全国版か徳島版かは不詳)では「卑弥呼の鏡が出土」と報じられた。
それは青銅の質が良く、鋳上がりもきれいなことから、中国製である舶載鏡と見做されたからである。神獣鏡は何も卑弥呼の墓から出土する必要はない。卑弥呼の生活圏にあれば問題ないのではないかと思われる。
以前紹介した、天岩戸伝説地や天照大神が休憩していた岩屋、卑弥呼の住居跡等、徳島県内には天照大神(卑弥呼)や関連人物の伝承地、比定地が非常に多い。だからこそ、八倉比売神社一号墳=卑弥呼の墓説も真実味を帯びているのである。
その一号墳側へは現在、車道が通じているため、墳丘にも2分あれば登ることができる。気延山最短コース登山口(山頂との高度差は百十数メートル)の駐車スペースから南東に上がる狭い道路が、神社まで繋がっている。
一号墳は徳島市教育委員会の「八倉比売神社古墳群測量調査概要」によると径約35mの円墳で、円墳としては県内第3位の規模ということだが、元々は前方後円墳で、藩政期、前方部を崩して社殿を新築している。墳丘の隅には、藩政期に造られた五角形の石積み祭壇があり、その上に祠が祀られている。
祭壇は高さ60cm、一辺約2.5m。この奇妙な形から、雑誌「ムー」でも複数回取り上げられた。陰陽道やユダヤ民族との繋がりを説く者もいる。
このすぐ西には一辺約20mの方墳、八倉比売神社二号墳がある。更に気延山登山道を登っていくと、次々と尾根に気延山古墳群が現れる。どれも大きく、標柱がなければただのピークに思える。
山頂東の200mピークが東の峯で、堀切のような箇所に「東の峯展望台」(実際には展望台はない)の石柱が建っている。ここは人工的に尾根を掘り切ったように思える。元の卑弥呼の墓の築造時によるものか。
石柱が示す道は方向感覚がやや可笑しくなりそうだが、墳丘跡から墳の際を走っており、平石の石積みが露出している箇所もある。
墳丘の端には石造の祠が祀られている。御本記にここが元の神陵跡(上の写真と下図)である旨の記述があるから祀ったものと思われる。ここに朽ちた木製の展望台道標があることから、かつては展望が良かったのだろう。
気延山山頂にも祠と、役行者や弘法大師等の石像がある。彼らはこの山が神域であるから、修行したのだろう。
句碑もあり、そこには源義経の名も記されているが、屋島への進軍途次、この山で休止した伝承がある。
その時、弁慶が平石を麓へ向かって投げたということだが、それが麓の田へ突き刺さった。後世、その石を成形して刻字したのが、「内谷の板碑」(上の航空写真と下の写真)だと言われている。
気延山山頂も展望はないが、すぐ北西の航空障害塔からは辛うじて平野部や遠方の山並みを何とか望むことができる。
帰路、標高140mの五差路から南東に下ると、井戸を信仰対象にした大泉神社に行けるが、この真名井という井戸も五角形である。ただ、特に謂われ等はない。
大泉神社のすぐ下は前述の気延山登山口に通じる道路。この山は回遊コースもあるので、ネット等で調べられたい。下山後は麓の徳島市立考古資料館や内谷の板碑へ寄られたい。
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