2023年12月25日月曜日

日本書紀 成立の真実 - 書き換えの主導者は誰か | 森 博達 2011


https://www.amazon.co.jp/日本書紀-成立の真実-書き換えの主導者は誰か-森-博達/dp/4120042820/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=カタカナ&crid=2QZVFUOHADJUJ&keywords=日本書紀成立の&qid=1703475795&sprefix=日本書紀成立の%2Caps%2C165&sr=8-1

上位レビュー、対象国: 日本

昆論
2021年12月11日に日本でレビュー済み
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『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』で提示した日本書紀の各巻毎が中国人が書いた漢文として正しい巻と、日本人の書いた漢文の誤用の多い「倭習」のする巻があるという区分論を前提に、そのさらなる補完と、考察が行われている。音韻とか文法が苦手な私にも非常に興味深く、読み出すと止まらず、一日で読み終えてしまった。

中国人が書いた漢文として正しい巻の中にも稀に「倭習」のする文があるという。その一部は朝鮮関係で朝鮮漢文の原文を載せたものとしている。他については中国人が一度書いた後、日本人が追記、改変した痕跡が見られるという。

雄略記などは天皇の業績を誇示するために、中国の史書の合わせて潤色したものだが、崇峻天皇暗殺や、蘇我物部の抗争、乙巳の変から大化の改新に至る部分についてはまさに当時の政治事情に合わせた改変になる。天智記に至っては草稿のまま完成されず杜撰な改変だという。

聖徳太子については、大山誠一氏の道慈の創作とする説を批判しているだけで、日本書紀の改変痕跡から見えてくるところは、聖徳太子の業績にはかなり脚色が入っているというところは変わらない。当時の蘇我氏の実態は政治的に塗りつぶされていると言えるだろう。また、東洋の中華秩序の中では、中国の皇帝にしか許されなかった天文観測が、推古朝から日本書紀に記述され始めていることに注目している視点も興味深い。百済僧観勒が天文、暦の書を伝えた推古9年は神武元年が干支21順前に指定された基準年とされる年だ。推古記は「倭習」のする巻に属する。しかし、その前の漢文として正しい巻の用明、崇峻記には推古記に残っていない引用が残っており、推古記はまるまる書き換えられた痕跡もある。推古朝はわかっているようで謎の多い時代だ。

「倭習」のする巻にも正しい漢文の文章があり、「神代記」の第五段「四神出生章」の第二の一書、「綏靖即位前記」がそうで、原資料が存在し、そのまま流用されたものであろうとしている。欠史八代で唯一旧辞が存在する綏靖天皇にそのような原資料が存在することは興味深い。
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あかちょうちん
2020年12月18日に日本でレビュー済み
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 森博達さんの著書を私は初めて読みました。『日本書紀』が倭習の多寡によってα群とβ群に分けられるという画期的な論を森さんが唱えられ、それが学会で広く受け入れられていることは知っていました。今回、本書『日本書紀成立の真実 書き換えの指導者は誰か』を読んで、その緻密な実証研究に深く感じ入り、素晴らしいと思いました。
 本の冒頭で著者は「学問とは、事実に基づき正解を求めることだと、私は思います」と述べています。そして漢文で書かれている『日本書紀』から、漢字の持っている形・音・義の3要素を切り口にして分析していきます。示される倭習の実例や、万葉仮名と中国語音韻学の関係、書記への古代韓国漢字文化の影響などの列挙事例に圧倒されました。
 肝心の「書き換えの指導者は誰か」ですが、これは予想通りの人物でした。そうなのですが、この本の素晴らしいところは、本来倭習の少ないはずのα群の一部にある倭習から、日本人による書き換えを論じている点です。そこの部分は執筆面での杜撰さが多いことから、急ぎ上梓を行った事情を推察しています。
 どこの部分で書き換えが多いということは本書で理解できました。そこで、贅沢な注文、無理な要望であることは百も承知ですが、書き換えられる前は、何がどう書かれていたのかを解明して頂けると有り難いと思いました。
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すてち
2017年8月30日に日本でレビュー済み
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前著『日本書紀の謎を解く』に衝撃を受けてこちらも読むことにしました。
区分論に沿って他の研究者の方々も様々なことを発見しているようで、天文学との関連や人称詞の使い方とか着目する点が興味深かったです。
この本の前に『神々の体系』という本を読んでいて、方法は違うものの主導者は結論として同じでしたが、丁寧な書き方で古代史も面白く感じました。他には梅原猛氏の『聖徳太子』を読んでいますが、氏が憲法十七条を詳しく解説して面白いと思う反面、この本で「聖徳太子が書いたのではない」となると、あ〜梅原氏の深読みなだけなんだと少し残念にも思います。

注目箇所と個人的に思うところのひとつは193ページの注から始まる批判に対する反論です。200ページまで続きます。大山氏の「聖徳太子創作説」に対する森氏の批判に大山氏は全く答えてないそうです。「創作説は妄想」と森氏が断言する根拠(それは33ページ〜)も興味深いものでしたが、大山氏ってこれだけで創作と言って本まで書いちゃってたの?とあきれました。反論は主に『日本書紀の謎は解けたか』の著者井上氏の批評に対してのものです。森氏は「全篇、基礎知識の欠如を露呈し、事実誤認に満ちている」とバッサリ(194ページ)。森氏が「発見した事実を、あるいは無視し、あるいは曲解までして私(森氏)を批判する」(200ページ)井上氏ってちょっとコワイです。

あとがきでは韓国へ行って韓国語を学んだ話が書いてありました。徹底的に書記を研究するためそこまでするパワーと知的好奇心に感心します。ある日のスケジュールでは夕食会→セミナー→ワークショップ(終了時深夜2時)→酒宴→モテルの教授の部屋で酒盛り(朝5時まで)→8時半から朝食会+議論だったそうで「畏るべし、韓国パワー」と結んでいました。
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take5
2020年9月1日に日本でレビュー済み
1章~3章は前著『日本書紀の謎を解く』以降に雑誌または講演原稿として発表されたもの(一部補注による改訂あり。前著のヒットによる編集者などからの依頼原稿という感じで前著の繰り返しも多い(特に1、2章)ですが、α群とβ群の書紀区分論を補強する追加の研究もあり。3章はβ群の変体漢文(倭習)が古代朝鮮の変体漢文(俗漢文)や吏読(りと/りとう。本書では何故か「りどく」)と共通することの研究)、4、5章は書き下ろしです(4章では、書紀区分論を補強するような他の研究者の研究が紹介され、5章では書紀編纂の主導者を推定してます)。

私は、特に3、4、5章が面白く、その中でも5章で、巻25(孝徳紀)と巻27(天智紀)(共に渡来中国人が述作したα群ですが、日本人が後で加筆または潤色したらしいです)の記述が、かなり杜撰なものであるという指摘に大変驚きました(例えば、原文が「而詔曰、云云」で読みは「詔(みことのり)して曰(い)はく、云々(うんぬん)のたまう」で、「云云」は後で調べるか、考えるかして埋めるつもりだったのかもしれないですが、そのまま撰上(つまり発表)されてます。これでは天皇が詔したことは分かりますが、なんと詔したかは分からず、ほとんど意味をなしません)。また『後漢書』からの丸写しを一部変更した箇所で誤って変更してるために漢文として意味不明になってる箇所や、30巻全体を通して見直してないために不統一になってる箇所がかなりあるようです。ただ、これらの杜撰さの理由の推測も述べられていて、十分あり得る話だと思います。

ともあれ、α群をまず述作したとされる2人の渡来中国人は完成前に共に亡くなったようで(天武十年の「帝紀および上古諸事記定の詔」からすれば40年近くかかってますからね。)、その穴を埋める(つまり、原資料などから各天皇の歴史を漢文で述作する)のは、唐や新羅に何年も留学してた日本人の僧や学者さんたちでも(渡来系氏族の人たちが多かったらしいです)、やはり相当難しかったようですね(今なら、中国語の参考書はいくらでもありますが(しかも、中国語にも日本語にも通じた先生が書いている)、当時は中国語の漢字の辞書しかなく、日本語がほとんど分からない中国人(しかもその後「漢音」になる唐代北方音での発音)、または片言の日本語が話せたかもしれない半島出身の先生から直接習うしかなかったんですからね)。
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噛まずに飲み込む
2020年8月30日に日本でレビュー済み
書名が気に入らないですが、この本と、日本書紀(岩波文庫5冊)、全現代語訳日本書紀(講談社学術文庫2冊)をあれこれ行ったり来たりして読むと、全くの門外漢でも、とにかく、日本書紀が面白く読めます。 さすがに日本書紀(岩波文庫5冊)はよく出来てるなぁと、逆に思ったりします。 日本書紀(岩波文庫5冊)に出てくる漢字に見慣れない文字が多く、書き下し文のふりがな読みに頼って、意味が通じないと全現代語訳日本書紀(講談社学術文庫2冊)を読んで、日本書紀(岩波文庫5冊)の注記や補注に戻り、ついでに、日本書紀 成立の真実(中央公論新社)の適当な場所を拾い読みするという、まあめちゃめちゃな素人読みですが、目的がない読書だけに、日本書紀がとても面白く読めます。 
それはそれとして、8世紀に正史?として日本書紀を記述させて公認?した人や機関は、100年以上も前の個人間のどうみても私的情に基づく会話を講談や小説であるかのように平然と文書化したのか、どうみても皇統の恥辱としか読めない事蹟を平然と文書化したのか、ミステリーのように感じるのですが、、、 残念ながら、日本書紀 成立の真実(中央公論新社)には、そうした視点の記述はなかったです。  校正レベルの杜撰さということではなく、この日本書紀って、一体、何なのだろうと、思いながら、結構、楽しんでいます。
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多忙な暇人
2012年2月22日に日本でレビュー済み
本書を読む前に 日本書紀の謎を解く―述作者は誰か (中公新書) (前著)を
読んだ方が良いと思います。
本書は前著の後に「東アジアの古代文化」などで発表した論文を補筆したもので
論文の寄せ集めであって基礎から説明する内容ではないので、前著を読んで
いないと分かりにくい部分があります。
私には面白かったのですが、日本書紀を音韻や語用の点から探究することに的を
絞った論考なので、興味のない方にはお勧めできません。

著者の主張する日本書紀の区分論(α群・β群)は、今では定説であると思います。
中国人が書いた部分、日本人が書いた部分(加筆した部分)、朝鮮資料による部分
という区分けもはっきりしたと思います。また基本部分が書かれた後に、加筆・潤色
した部分やその元になった文献も分かってきました。

但し、古代音韻学の研究者でもこれを素直に受け入れない方もいるようです。
この区分論を知らず、日本で使用された漢字を選別せずに、その中国音をそのまま
倭語と対比して研究を続けてきた方には、自身の数十年の研究が水泡に帰することと
なる区分論を受け入れることは困難という事情があるようです。
しかし、論理のナタは容赦なく振るわれます。ここに学問の怖さを感じます。

本書は前著の肉付けにあたります。これにより、日本書紀がどのように書かれたのか
という骨格がはっきりしてきました。
しかし、「その先をもっと知りたい。これでは欲求不満だ。」というのが読後感です。
定説となった区分論の成果は古代史学ではほとんど取り入れられていません。
むしろ無視されているようにも見えます。このことは著者が嘆くとおりです。
それは区分論が原資料の存在を裏付ける部分については、戦後の古代史学の
趨勢に合わないところがあるからかもしれません。
ならば、著者自身が自分で自分の成果を刈り取るほかないと思います。
古代史の各論点について、例えば原資料の存在が裏付けられることによる既存の
学説の評価などにも踏み込んでいくのも、書記研究の一環と言えるのではないか
と思います。
30人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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