太龍寺
大龍寺とは異なります。 |
太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所の第二十一番札所、阿波秩父観音霊場の第10番札所。
概況
太竜寺山弥山(標高600.1 m)[注釈 2]の山頂近くに位置し、本堂は標高505 m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は西の高野と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。
歴史
空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に…勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600 mほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。
天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。
戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟[注釈 3]を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔[注釈 4]を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ[注釈 5] が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。
2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15 mが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した[2]。また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している。
境内
- 山門(仁王門):金剛力士像は鎌倉時代の作品で、徳島県では最大にして最古のものである。
- 鐘楼門:本堂へ通じる石段の途中にある。
- 本堂:本尊は天井に達する大きな仏像で半丈六仏。本尊の開帳 毎年1月12日の11時より法要があり、そのあと正午頃から15時頃まで本堂の中に入って拝観できる。厨子の扉は朝一番から開いているので外からの拝観は可能。
- 大師堂:旧暦3月21日開帳、明治11年(1878年)再建。
- 持仏堂:高知の画家竹村松嶺による龍の絵が大廊下の天井に描かれている。
- 六角経蔵
- 護摩堂堂:本尊は興教大師作とつたわる不動明王。
- 弁天堂(祠)
- 多宝塔:法界虚空蔵、金剛虚空蔵 宝光虚空蔵、蓮華虚空蔵、業用虚空蔵の五尊からなる五大虚空蔵を安置。
- 求聞持堂:虚空蔵求聞持法を修行するための道場。天下三ヶ所随一[3]。
- 中興堂:長範僧正(第4世・平安後期)と亮山僧正(第22世・江戸前期)を祀っている。
- 鎮守社:五社明神
- 相輪橖(そうりんとう):文化13年。
山門から長い参道を進むと右側に六角経蔵、護摩堂、持仏堂(本坊)、納経所があり、この先の石段を上って行く。石段の途中に鐘楼門が設けられている。上り詰めて左に進むと奥に本堂が建ち、その左後ろに求聞持堂がある。本堂とは逆の右に進むと橋を渡った先に大師堂拝殿がある。履物を脱いで拝殿回廊を回り込んで拝殿裏に行くと大師堂奥殿がある。多宝塔は本堂と大師堂の間の丘の上に立つ。 なお、ロープウェイ利用の場合は、山頂駅舎出口の前の石段を上り詰めると本堂の正面にでる。
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弁天堂
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求聞持堂
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中興堂
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鎮守社
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相輪橖
文化財
- 国の史跡
- 阿波遍路道 太龍寺道(後半):杉井集落の登り口から太龍寺までの4.3 kmのうち太龍寺側で若杉から山門手前の四叉路までの約1.027 km[注釈 6]、平成22年(2010年)8月5日指定。[4][5][6]
- 阿波遍路道 かも道:一宿寺から太龍寺までの全長4.4 kmのうち太龍寺側四叉路までの1.34 km、平成27年10月7日指定。[4][5]
- 阿波遍路道 太龍寺境内 6 ha。平成29年2月9日指定。[4][5]
- 阿波遍路道 いわや道:太龍寺から南舎心ヶ嶽方面を経て龍の窟(今は無い)へ向かう遍路道のうち、平等寺道の分岐点までの2.675 km。
- 太龍寺から南舎心ヶ嶽方面の567m。平成22年8月5日指定。[4][5][6]
- 1.の延長部分で平等寺道の分岐点までの2.068 km。平成25年3月27日指定。[4][5][7]
- 阿波遍路道 平等寺道(前半):いわや道との分岐点から平等寺方向への0.66 km[注釈 7]、平成25年3月27日指定。[4][5][7]
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太龍寺道
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かも道
- 四叉路[注釈 8]
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いわや道
国の登録有形文化財
- 本堂:嘉永5年(1852年)建立[8] (以下9件、平成25年6月21日登録)
- 大師堂:明治10年(1877年)建立[9]
- 御影堂:明治11年(1878年)建立[10]
- 護摩堂:明治34年(1901年)建立[11]
- 多宝塔:文久元年(1861年)建立[12]
- 六角経蔵:安政3年(1856年)建立[13]
- 本坊:明治28年(1895年)建立[14]
- 仁王門:文化3年(1806年)建立[15]
- 鐘楼門:明治36年(1903年)建立[16]
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本堂
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大師堂(拝殿)
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御影堂(奥殿)
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護摩堂
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多宝塔
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六角経蔵
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六角経蔵の内部
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本坊
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仁王門
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鐘楼門
県の史跡
- 太龍寺の丁石:昭和42年(1967年)12月19日指定。所在地は一宿寺の境内。[17]
交通案内
- 鉄道
- バス
- 道路
- 一般道:徳島県道28号阿南小松島線 黒河 (駐車場まで2.8 km、駐車場から徒歩1.1 km)、徳島県道19号阿南鷲敷日和佐線 道の駅鷲の里(太龍寺ロープウェイ山麓駅まで0.1 km)
- 遍路道:20番 -(2.5 km) - 水井橋西 -(2.5 km) - 登山口 -(1.7 km) - 21番
奥の院
- 南舎心ヶ嶽
- 空海(弘法大師)が19歳頃にこの場所で100日間の虚空蔵求聞持法を試みたとされ、断崖の岩場に高野山に向って弘法大師像が鎮座している。ロープウェイ山上駅脇から八十八ヶ所の石像を一つずつお参りしながら上って行くと88番の向こうが少し広くなっており、補陀落彦命の祠・不動明王の祠・神武天皇の祠・天照皇大神の祠が並び、その先にYAMA SAKIMORIのモニュメントがあり、手前に大師像の背中が見える。この大師像は大師入山1,200年を記念して1993年(平成5年)にブロンズ製で造られたもので、元は九尺の不動堂があったとされる[18]。 (南舎心ヶ嶽)
- 北舎心ヶ嶽
- 不動明王の眷属である八大童子が祀られた祠[注釈 9]がある。仁王門から本坊への参道途中から脇道を約100 m行くと大岩に梯子が架かっていて、その上に祠がある。 (北舎心ヶ嶽)
- 黒滝寺
- 太龍ヶ嶽で修行中の空海が神童によるお告げを受けて、黒滝山頂に棲む大龍を淵に封じ込めたという伝説のある寺で、山岳仏教発祥の地と伝えられている。(新四国曼荼羅霊場第88番札所)。
- 所在地:徳島県那賀郡那賀町阿津江字黒滝山5 (黒滝寺)
前後の札所
周辺
- 蛭子神社
- 一説にはこちらの神様が空海を太龍寺が出来る前に当山に案内されたと伝わっている。太龍寺ロープーウエイ麓駅から赤い橋(田野橋)で那賀川を渡ってすぐの社叢に神社がある。
- 所在地:徳島県那賀郡那賀町和食154 (蛭子神社)
- 氷柱観音
- 太龍寺ロープーウエイ麓駅の近く県道19号に入口があり、すぐ上の斜面にあり、上って行くと本堂があり、さらに上の赤い堂の向かって右に、竪穴がある。その岩盤にツララ状の紋様がある。
- 所在地:徳島県那賀郡那賀町和食郷 (氷柱観音)
- あせび観音庵
- 阿波遍路道 いわや道から続く平等寺道で麓に下りて来ると観音堂の左に至る。
- 所在地:徳島県阿南市阿瀬比町西内 (あせび観音庵)
脚注
注釈
- 舎心ヶ嶽、南舎心ヶ嶽から
- 太竜寺山は双耳峰でもう一方の補陀落山(618 m)の方が高い
- 当寺から、いわや道を約3 km平等寺方向へ行ったところにあった洞窟で、空海が修行をしたと云われ、澄禅の日記(1653年巡拝)にも記されていて、戦後間もないころセメント工場に手放して失っている。[1]
- 貞享元年(1684年)に当寺に建立された三重塔を興願寺(四国中央市)に移築し、その後の平成16年には愛媛県指定有形文化財になっている。
- 那賀郡鷲敷町(現・那賀町)側から太龍寺ロープウェイで結ばれて一層那賀町との関係が深くなったが、太龍寺の電話番号は以前から那賀町側の丹生谷MA(旧丹生谷電報電話局)の電話番号であった。さらに以前の非自動電話時代は「鷲敷21番」という、札所番号にちなんだ電話番号だった。現在の電話番号の下2桁も21である。
- 那賀川を水井橋で渡り杉井集落の遍路道の始まるところにある看板による。
- それに続く山中からあと約2 kmで阿瀬比町の民家集落の中にあるあせび観音堂に下りて来るがその区間は無指定
- 手前かも道、右太龍寺道、左車道、正面は寺への参道
- 『四国遍礼名所図会』の一巻の3月21日に「此舎心 八大童子 女人禁制」とある。
出典
- 五来重『霊場巡礼』 3 (四国遍路の寺 下)、角川書店、1996年4月15日、135頁。 NCID BB00934660。none
- ^ 「県内に大きな爪痕 台風6号、各地で道路・建物損壊」『徳島新聞』、2011年7月20日。2023年6月14日閲覧。オリジナルの2011年6月27日時点におけるアーカイブ。
- ^ 『四国遍礼名所図会』1800年出版より
- ^ a b c d e f 阿波遍路道 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ a b c d e f 阿波遍路道 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ a b "「阿波遍路道」の国指定史跡指定について" (PDF). 徳島県. 2023年8月6日閲覧。
- ^ a b "国史跡「阿波遍路道 鶴林寺道 太龍寺いわや道」の追加指定について". 徳島県 (2013年7月10日). 2023年8月6日閲覧。
- ^ 太龍寺本堂 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺大師堂 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺御影堂 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺護摩堂 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺多宝塔 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺六角経蔵 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺本坊 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺仁王門 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ 太龍寺鐘楼門 - 文化遺産オンライン(文化庁)
- ^ "国・県指定文化財一覧" (PDF). 徳島県. p. 2 1. 2023年6月14日閲覧。
- ^ 川崎一洋『四国「弘法大師の霊跡」巡り』セルバ出版、2012年12月18日、70頁。ISBN 9784863670792。
参考文献[編集]
- 四国八十八ヶ所霊場会 編『先達教典』四国八十八ヶ所霊場会、2006年。
- 宮崎建樹『四国遍路ひとり歩き同行二人』 地図編(第8版)、へんろみち保存協力会、2007年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 第21番札所 舎心山 常住院 太龍寺(四国八十八ヶ所霊場会公式)
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