2023年1月2日月曜日

【出雲神族の口伝】神武は7人いた【天孫族】系譜の奪い合い【出雲文字と紋章】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note

【出雲神族の口伝】神武は7人いた【天孫族】系譜の奪い合い【出雲文字と紋章】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜|古本屋えりえな|note

【出雲神族の口伝】神武は7人いた【天孫族】系譜の奪い合い【出雲文字と紋章】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

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※この文章はYouTubeで無料で視聴できます。

こんにちは、今回は出雲神族に伝わる口伝についてお話しさせて頂きます。よろしくお願いいたします。

口伝といえば73代竹内宿禰・竹内睦泰氏が公開した口伝が有名ですが、実は出雲神族にも、代々かたりべがいることはご存知でしょうか。

今回の内容は、出雲神族の大国主命、直系の子孫である富當雄(まさお)氏が代々と受け継がれた口伝についてご紹介させていただきます。

この内容は全て歴史学者の吉田大洋さんの取材で明らかになったものです。

以前の動画で、古事記の神話部分はシュメール語で読むことができるとご紹介しましたが、このシュメール語訳の内容と富當雄氏の口伝はほぼ一致します。

大切な口伝ですので、ニュアンスを変えないように富當雄氏が語った言葉をそのまま読み上げさせて頂きます。

【出雲神族の渡来】

この世界が、一夜にして氷の山になった。大祖先であるクナトノ大神は、その難を避けるため一族を引き連れて移動を始めた。東の彼方から氷の山を越え、海沿いに歩いた。そうして何代もかかってようやくたどり着いたのが出雲の地であった。今から4000年も前のことである。

クナトノ大神は色々な知識を持ち、前からこの土地に住んでいた人々に鉄の取り方や布の織り方、農耕の方法などを教えた。糸は麻、綿、はたの木から作り、それをクリやシイの実で染めた。出雲人に戦いの歴史はなかった。人々は生活をよくしてあげることで、自然についてきた。クナトノ大神は王に推された。

ここまでが口伝です。

王に推されたというクナトノ大神という神はイザナギ命とイザナミ命の長男です。この長男を初代として出雲の口伝では57代、57人のクナトノ大神がいたと云います。

別名を幸(さい)の神、塞(さえ)の神、道祖神、道陸神(どうろくじん)といい、熊野大社、出雲井神社、道祖神社、幸(さきわい)神社などで祀られています。聖武天皇から桓武天皇までの各天皇はクナトノ大神の力を恐れ、平安京、長岡京、信楽京(しがらき)などではサイの大通りを作り、都の四隅に神社を建てて鎮魂の供養をしたと云います。

【習俗と祭祀】

首長は「カミ」と呼ばれた。毎年10月に各国(各地)のカミが出雲に集まって、その年の収穫物の分配について話し合った。多い国は少ない国に分け与えた。この時、我々は祖国をしのんで竜蛇りゅうじゃ(セグロウミヘビ)を祀るのが習わしであった。我々は祖国を高天原と呼ぶが、これは遠い海の彼方だと伝えている。王が死にそうになると後継者は会ってはならないものとされていた。死体は穢れたものとして忌み嫌い、これを見たり触れたりすると相続権が奪われた。墓も屋敷内に造ってはならないとされてきた。

王が他界すると家人はツタで篭を編み、これに死体を入れて山の頂点の高いヒノキに吊るした。3年が過ぎるとカゴから下ろし、白骨を洗って山の大きな岩の近くに埋めた。山は我々の祖先の霊が眠るところである。高貴な人の婦人や子供が死ぬと、石棺に入れ、再生を願って宍道湖に沈めた。我々は東西南北がわかり、数字があった。ヒーフーミーヨー、と数えた。「初めに言葉ありき」と言われるように言葉を大切にした。

勾玉は祖先の幸魂(さちみたま)、和魂(にぎみたま)、奇魂(くしみたま)、荒魂(あらみたま)を表し、王家のみがつけることを許された。

ここまでが口伝です。

毎年10月に各国のカミが出雲に集まるというのが、現在の神無月・神在月に繋がります。

出雲神族は祖先の魂の具現化である勾玉を「宝石(たから)」と呼びました。これを付けることのできる王家のことを「財筋(たからすじ)」と称し、昭和53年の時点で出雲に残る「タカラ筋」はわずかに12軒だけでした。

勾玉はシュメール語で(mag dimで)美しい玉という意味です。

【スサノオの侵略】

スサノオが砂鉄を奪うために朝鮮から馬を連れてスサの港へやってきた。ヒイ川の古志人(こしびと)が暴れ、テナヅチ、アシナヅチが助けを求めたのでスサノオがこれを制圧した。スサノオは次第に増長し、出雲を我がもの顔で歩いた。スサノオはテナヅチの娘と結婚した。

ここまでが口伝です。

古事記では越の国からヤマタノオロチが娘を奪いにくるシナリオですが、口伝ではヤマタノオロチは登場せず、出雲のヒナ川に住みついていた古志人(が暴れたと云います。テナヅチ、アシナヅチが助けを求めたことと、テナヅチの娘と結婚したという部分は共通しています。

【ホヒ族の裏切り】

天孫族が九州から船で攻めてきた。その前にやってきて、王の娘と結婚していたホヒが手引きしたのである。

稲佐浜で戦ったが一敗地にまみれた。

※一敗地にまみれる=再び立ち上がれないほどに徹底的に打ち負かされること。

オオクニヌシはコトシロヌシに「これ以上、出雲人が殺されるのを見るのはしのびない。国(王位)を天孫族に譲ろうと思うがどうだろうか」と相談した。

「私は反対ですが、お父さんがそう仰るのなら従いましょう」コトシロヌシはこう答えると、天孫族への呪いの言葉を残し、敵将の前で海に飛び込み自殺した。

オオクニヌシはウサギ峠のほら穴に閉じ込められて殺された。

ミナカタノトミノ命はゲリラ戦を展開しながら越に後退し、のちに信濃を平定して第二出雲王朝を築いた。

ここまでが口伝です。

コトシロヌシが天孫族への呪いの言葉を残し、海に飛び込み自殺をする、

この時の様子を再現するのが美保神社の青紫垣(あおふしがき)の神事です。この神事はコトシロヌシの死の前夜祭から始まります。毎年4月6日美保神社の境内に松明がたかれ拝殿では鈴を持った未通女(おとめ)がもの悲しい太鼓と笛の音に合わせて、巫女舞を舞います。翌日の7日、コトシロヌシ役の2人の頭屋神主が2組の神事用の船に乗り移ります。

船には板を渡した上に天幕を張りめぐらし、その天幕の四隅の柱に榊の青い枝葉を束にして結びつけます、この天幕の中でコトシロヌシの死の儀式が行われます。

富氏曰く「青紫垣の神事は天孫族への恨みを決して忘れないぞという、出雲人の無念さを表すものなのだ、屈辱の神事でもある。観光客に見せるようなものではない、現在の御祭神はコトシロヌシとミホツ姫ということになっているが、本来の御祭神はミホススミノ命である。呪いを残して死んだコトシロヌシは天孫族から非常に恐れられていた。」と云います。

オオクニヌシの死については記紀の漢文調訳でははっきりしないところですが、シュメール語訳でもやはりオオクニヌシは殺されています。

オオクニヌシは別名がオオナムチ、ウツクシタマ、アシハラシコオ、ヤチホコ、オオモノヌシなど、数多くの名前を持っていました。オオクニヌシは代名詞で17代にわたって何人もいました。古代の出雲においてオオクニヌシは重要な存在ではなく、その祭典や祭儀などもありませんでした。

ゲリラ戦を展開したミナカタノトミノ命ですが、母方である高志のヌナカワ姫の勢力をバックに信州へ入り、第二出雲王朝を築きます。

「神名大鑑」に載っている信濃の神社、約100社のうち30%強がミナカタを祀っています。

こうして出雲を占領したホヒ一族はさらに大和へ侵攻し、ここの出雲神族をも攻め落しました。ここでの戦いは出雲の地より激しいものだったと云います。

大和や紀伊は出雲の分国であり、出雲王朝は北九州から新潟にいたる地域を領有していました。

ミナカタを祀る諏訪大社の上社は、拝殿と幣殿だけで本殿を持ちません。後方にある神体山が本殿に相当していますが、この形態はオオモノヌシを祀る大神神社(おおみわ)と全く同じです。記紀でのミナカタはタケミカヅチに追われて諏訪湖に至り、そこで降伏したことになっています。しかし出雲の口伝にはタケミカヅチは登場しません、なぜかというとミナカタと同じ時代にタケミカヅチという人物は存在していなかったからです。

ではなぜ記紀においてタケミカヅチがミナカタを降伏させたことになっているのでしょうか。タケミカヅチを氏神としているのは藤原氏です。この問題に関して富氏はこのように云います「藤原氏は帰化人だと我が家の伝承にある。彼らは氏素姓を高めるためにどうしても天津神の系譜が欲しかったのだろう。そこで最初はアメノコヤネノ命を祖神だとし次にタケミカヅチを担ぎ出したのだ」

といいます。

一般に中臣氏(藤原氏)の祖神はアメノコヤネノ命とされています。ところが不思議なことに奈良の春日大社では第一殿にタケミカヅチ、第二殿にフツヌシ、第三殿にアメノコヤネノ命、第四殿にヒメ神を祀っています。アメノコヤネノ命は第一殿ではなく第三殿に祀られており違和感がありますが神魂神社(かもす)の秋上氏はさらに「天ノホヒの祖神はアメノコヤネノ命」だと言います。さらに鹿島神宮の宮司、東実氏は「いつの頃か東国へやってきた中臣氏が、鹿島系の神と婚姻関係を結び、やがて鹿島神宮の宮司となり、この神を崇めるようになったのだろう」と言います。

つまり、鹿島の神と藤原氏は本来関係がなく、藤原氏はアメノコヤネノ命を祖神にしたものの、後世さらにタケミカヅチにも手を伸ばしたということが、富氏の口伝と神魂神社と鹿島神宮の宮司さんの共通している主張です。

【神武の侵略】

天孫族の侵略を手引きしたホヒ族とは、次第にうまくいくようになったが、今度は神武が九州から攻めてきた。勢力を回復していた我々は穴門(長門国)(※穴門は関門海峡の古名)で迎え撃った。

神武は防府(※現在の山口県)、河内、熊野などで6人死んだ。7人目の神武は強かった、その上我々が「カラの子」と呼んでいた朝鮮からの渡来人ヤタガラスが神武の味方についた。

彼らは和解すると見せかけては、次々と出雲人を殺していった。誠に陰険であり、残酷であった。王のトミノナガスネ彦は傷つきヤマトを神武に譲って出雲へしりぞいた。王は出雲で亡くなった。神武は橿原で即位し、ヤマトの王となった。

出雲人は、ヤマト・出雲・北陸・関東・東北などに分散させられた。神武から数代の王は出雲王家の娘を妻に迎えた。我々の反乱を防ぐためでもあった。縄文時代も終わりの頃のことである。

ここまでが口伝です。

富氏は神武東征を縄文時代の晩期だと言います。神武の大和入り後、弥生式文化が盛んになります。神武系の本拠地は富氏が伝える通り、九州の日向であったと思われます。

【ヒボコ族の渡来】

ヒボコ族が朝鮮から渡来し、出雲に入ろうとしたが、これを撃退した。彼らは但馬に逃げ、首長のヒボコは豪族の娘と結婚した。やがて彼らは若狭、近江を経て、ヤマトにいき、やはり朝鮮からやってきた人々(倭漢氏)と結んで安定した。

ヒボコ族は鉄が欲しいため、今度は吉備を目指した。出雲人は播磨国の八千軍(やちぐさ)に防衛線をしいたが、突破された。伊予や淡路の百済人がヒボコ族に加勢したからである。彼らは吉備王国を築き久米川から鉄を取り、陶器も焼いた。もう弥生時代に入っていた。

力をつけたヒボコ族は天孫族と手を結び、物部を将として吉備から攻めてきた。彼らは逃げ惑う女や子供までも殺した。出雲人が絶滅するのではないか、と思われるほどであった。天孫族はクナト大社(熊野大社)に安置する宝、勾玉を奪っていった。我々は祭祀を停止した。人々は働かず各地で反乱が起こった。

困り果てた天孫族はヒボコ族を動かし「祭祀を復活して欲しい」と頼みに来た。我々が言うことを聞かないのでホヒ族が代行することになった。しかし国々は乱れに乱れ、天孫族の間でも内乱が起きた。天孫族は伊勢にも攻め込み王のイセツ彦はミナカタノトミノ命が勢力を張った信濃へと逃れた。

ヒボコ族から天孫族の王の后が出た。名をオキナガタラシ姫といった。彼らはこれを無上の誇りとした。ヒボコ族の王は天孫族から「天」の称号をもらった。

数百年が過ぎ、天孫族の間ではまた内乱が起きた。王や皇子もいなくなった。朝鮮から渡来した人々は困り果て、我々の首長に天皇となるよう懇願した。

ここまでが口伝です。

天孫族の内乱が続くと、各地の渡来系の豪族はそれぞれに野心を抱き、自分たちの王を立てようとあちこちで衝突が起こりました。大伴金村や物部麁鹿火(あらかひ)はなんとか各地の豪族をまとめようとしましたが上手く行きませんでした。立て直しに苦戦した2人は仲哀天皇の五世孫の倭彦王(やまとひこのおう)を担ぎ出そうとしましたが、迎えの兵が見えた瞬間逃げ出され、倭彦王(はそのまま行方不明になりました。

次に彼らが考え出したのが、渡来人に対しては中立派に近い出雲の王家でした。新羅系のヒボコ族、倭漢氏系の葛城一族、それに百済系や高句麗系の人々にとっても出雲神族の王が天皇となるのなら、さしたる抵抗をしないだろうと読んだのです。大伴氏や物部氏から数回にわたって打診がありましたが、出雲神族は動きませんでした。「なぜ、我々が渡来人のために天皇となり国を治めねばならないのか」というのが第一の理由でした。

この後も百済系の河内馬飼首やヒボコ族などが出雲神族に天皇を出して欲しいと頼み、ついに出雲神族が立ち上がります。

この時天皇に選ばれたのが古志方面の首長をしていたオホト、継体天皇です。

507年の即位式には出雲神族の三輪一族と加茂一族が大きな力を発揮しました。継体天皇は即位後、河内から山背を転々として19年後に大和入りしています。これは大和での戦乱が治るのを待っていたからです。

継体天皇から宣化天皇までの3代、出雲神族の天皇が続きます。

【出雲大社の創始】

杵築大社(出雲大社)は716年に建てられたもので、それまでは熊野にあった。祭神のオオクニヌシは出雲人の祖神ではなく、重要な存在でもなかった。ホヒ族がオオクニヌシの祟りを恐れ、封じ込めただけである。その上、後世になると自分たちの祖神のように言っている。全くおかしな話だ。杵築大社は平安末期に一時、鰐渕寺(がくえんじ)によって領有された。この時、本地垂迹説からオオクニヌシが大国様に、コトシロヌシがえびす様になった。

ここまでが口伝です。

これらの口伝は富家の「財筋」の中で一番優秀な青年を選んで本家に養子として迎え、語り継いだと云います。

富當雄氏も16歳の時に生まれ育った家を離れて、本家の富饒若(にぎわか)氏の養子になりました。

同年の冬、富氏は養父に命じられて身体を清めた後、古代服の正装に着替えて出雲井神社まで裸足で歩いたと言います。そして社殿へ入り養父から出雲王朝4千年の歴史を聞かされます。口誦伝承されてきた祖先の生き様は神と人とが対話する形式で語られ、質問は許さません。これを10年間にわたって連続反復し、一語も洩らさず丸暗記をします。

この口伝は次の伝承者に伝えるまで命にかけて死守し、たとえ兄弟や妻であっても他言無用です。

さらにこの伝承者に選ばれた者は獣肉を口に出来なくなります。また、自分の後継ぎ以外は肉親であろうと敵だと思わなければなりません。いつの世でも親類縁者が最も危険な敵となるからです。

富氏によると出雲神族は神代文字を用いていました。パピルス状のものに縦書きにされていたそうですが、大正15年に国立博物館(旧帝室博物館)に貸し出したところ行方不明になりました。筆写した物はたくさん出回っていますが現物は現在も不明のままです。

富氏は自身の民族について「我々は竜蛇族である、出雲人はみんなそれを自覚しているが口に出して言わないだけだ」と言います。

オオクニヌシはスサノオの子孫とされていますが、スサノオは牛をトーテムとする牛族(ウル人)で、オオクニヌシは竜蛇をトーテムとする竜蛇族、蛇族(シュメール人の黒黄色人)であり、両者は民族が違います。

古代のオリエントは竜蛇族が牛族に追い出される形で各地に散らばりました。富氏の口伝でも「出雲人に戦いの歴史はなかった。」とあるので、戦わずに住み着いていた土地を離れたことが推測できます。

蛇族の代表家紋は「亀甲紋」「州浜紋」「巴紋」でバビロニアや古代インドの竜神にもこの紋章が確認できます。「亀甲紋」は海神のシンボルマークでもあり、出雲神族もやはりこれらの紋章を持っています。

地球の北半球諸国において、動物の「牛」の原音にはウル(uru)が多く、メソポタミア南部のシュメールの都市ウルクのウルも牛に由来した地名です。ウルはトーテムから部族名となり、さらに王朝、都市の命名由来となりました。

これらの牛と蛇のトーテムは古代の日本にも神話、神名、石碑、地名などに残っていますので、別の動画でまとめたいと思います。

今回は大国主命直系の子孫である富當雄氏が公開した口伝について、ご紹介させていただきました。さらに詳しく知りたい方は下記の参考書籍も読んでみてください。最後まで読んで頂きありがとうございました。

参考書籍

吉田大洋著書「謎の出雲帝国」「家紋の源流」

片木啓著書「原初の文明語シュメール語の文明と語彙」
「謎の古代民族シュメール人系統不明の由来と言葉・日本語との類似」

東実著書「鹿島神宮」

山口佳紀・神野志隆光著書「新編日本古典文学全集古事記」

芳村正秉著書「記紀神名表」

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