秦さんはどこにいる その18(久我山の秦氏)
今回は玉川上水に沿って見ていきます。玉川上水です。
玉川上水は、江戸に飲料水を供給するため江戸時代に掘削されたものです。その内容に関してはもう一度Wikipediaより引用します。
『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両が拠出された。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある。
玉川上水沿いに歩き出してすぐ、お墓が見つかりました。多分秦さんのものだろうと思いチェックしたところ…。
予想通り秦さんのもので、「秦氏」と彫られています。
「秦氏の謎を解く」の「秦氏」がそのまま彫られているのですから、酔石亭主にとっては感動ものです。また別の墓石には施主として秦野と彫られています。
墓石。
「久我山の秦氏」も今回が最終回となります。終わる前に残る宿題を解かねばなりません。酔石亭主は、久我山の秦氏は1500年代前半に秦野より当地に移住したと考えています。一方、秦野の秦氏は徐福伝承を持っていました。であれば久我山の秦氏も同じ伝承を持っているべきです。なのに、彼らは徐福伝承を持っていません。これはなぜなのでしょう?
まず、久我山の秦氏が秦氏としての特徴を備えているかどうかを見ていきます。(久我山在住の秦さんは、秦野荘の波多野氏が平安末期に移住したと考えて居られました。その場合、彼らは秦氏の特徴を備えていないことになるので、まずこの点を明らかにしたいのです)
秦氏は、呪術に優れる、徐福伝承を持つ、財務官僚である、土木技術に優れる、養蚕、鉱山開発などの事業を得意とする、など様々な側面を持っています。
一方久我山の秦氏は地主的な存在で、呪術、財務、養蚕、鉱山開発など手掛けていないことは明らかです。もちろんこの地に徐福伝承などありません。彼らに残るのは土木技術のみです。久我山の秦氏が困難な土木工事を実施していたとしたら、それが秦氏である証明となるでしょう。
ここで最初に考えた玉川上水の問題が浮上してきます。玉川上水は江戸時代に玉川兄弟が工事を担当し、造られました。しかし、上北沢桜並木会議ホームページには以下の記載があります。
なお、玉川上水の内、井の頭-高井戸間は、江戸時代以前に、井の頭の水を利用する為に、鈴木・秦(久我山)両豪族が掘削していたと言われる(北沢用水は高井戸から分水)。
何と、玉川上水の前身を秦氏が掘削していたことになります。久我山から井の頭にかけては井の頭道が走り、道に沿って秦氏の居住区が広がっていることからしても、この説には信憑性がありそうに思えます。
さらに鈴木家側から見ると、鈴木家の娘が二代にわたり秦氏へ嫁いでいるという話があります。また、鈴木家の娘がいなくなって大騒ぎになり、一ヶ月後娘の声で「井の頭の池の主にお嫁に行ったので探さないで欲しい」と声がした。庭を見ると草木が倒され一筋の道ができていたので、辿って行くと井の頭の池に続き、そこで消えていた。と言う伝承もあり、他にも似たような話が幾つかあります。
世田谷区桜上水1-1にはかつて鈴木左内家の屋敷神であった左内弁財天が祀られています。その解説板の内容は以下の通り。
この弁財天にまつわるものとして、様々な説話が伝えられています。そのひとつに次のような話があります。鈴木左内家の娘は周囲がうらやむほどの美しい娘でした。ある日この娘が井の頭の池に遊びに出かけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初めました。竜神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするようになりました。その若者が自分の正体は竜神であることを娘に告げたところ、娘は初めは驚いたものの、その若者に嫁ぐことを決心しました。娘は、家に帰った後、病にかかりました。父母は心配しましたが、日ごとに容体が悪化するので、ついに諦めて娘を井の頭池に連れていきました。娘は泣きながら祈ったあと、池に身を投げました。すると水面に巨大な蛇が現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るようになったといいます。
北沢総合支所土木課世田谷区教育委員会
伝承の基本構造は「古事記」の三輪山伝説にほぼ似通っています。井の頭池の若者(=竜神)が秦氏です。この伝承には鈴木家と秦氏の力関係がよく表れていると思われます。鈴木家は秦氏の求めに従い、泣く泣く娘を差し出したのでしょう。
鈴木家の伝承には秦氏の呪術性が垣間見えますし、何より玉川上水の前身となる工事を実施した点が土木技術系秦氏の特徴を十分に表現していると思います。井の頭池から神田川はこの地域で最も低い場所にあり、高台に位置する玉川上水に水を流す工事は多大な困難が伴います。にもかかわらず、工事を完遂できたのは、胎内掘り(トンネル工事)などの技術を秦氏が持っていたからだと推測されます。
結論的には、久我山の秦氏は秦野にいた波多野氏の流れではなく、秦氏本流かそれに近い土木技術系のメンバーが1500年代の前半に入植したものと考えられます。
以上から久我山の秦氏は、秦氏としての特徴を備えていることになります。
次の問題は「その15」でも指摘したように、彼らが徐福伝承を持っていないことです。この問題をどうクリアするか、まず、秦野における秦氏のありようを見ていきましょう。
秦野市の大日堂には秦川勝の石碑があります。これに関しては「相模国の秦氏」で取り上げていますが、内容の一部を再度掲載します。石碑には以下のような文面が刻まれています。
応神天皇十五甲辰年自唐土秦苗裔
守護来而安當山彼又住故名称里於
秦後孫秦川勝再加力云云
大体の意味は、応神天皇十五甲辰年に秦の遠い子孫が唐土から渡来し、当山を安んじて守護し、ここに住んだのでこの里の名を秦と称した。後の子孫秦川勝。
この文を読んでどのような印象を持たれたでしょうか?応神天皇は実際には4世紀後半の人物と思われ、その時期に秦氏の遠い祖先が渡来したと書かれているのです。徐福の渡来を紀元前220年ごろとすれば、何と600年も渡来時期に差があります。
600年前を現在の私たちから見ると、室町時代のことになります。つまり、徐福の渡来と秦氏の祖先の渡来時期は大きくかけ離れていたのです。にもかかわらず、秦野には徐福伝承を持つ秦氏がいる。一方で応神天皇期に渡来した伝承を持つ秦氏がいる。
これをどう理解すればいいのでしょう?酔石亭主は事実をありのまま理解すればいいと考えます。具体的には以下のようであったのでしょう。
秦野には、徐福伝説を持ち運んだ徐福系秦氏と、秦川勝の子孫である葛野秦氏の二系統が存在していた。藤沢に向かったのは徐福系秦氏であり、久我山に向かったのが葛野秦氏と考えれば矛盾はない。葛野秦氏は京都において大井堰の工事を遂行した。よって、玉川上水の前身の工事を担った久我山の秦氏は葛野秦氏の流れを汲むメンバーと推定される。
このように考えれば、矛盾は解消します。秦野における秦氏は、富士山麓に居住した徐福系秦氏が大月、旧藤野町小渕を経由して丹沢のヤビツ峠を越えて秦野に入りました。時代は800年の富士山大噴火の後です。
一方秦野には、秦氏が海上ルートで渡来し、大磯に上陸し秦野に入ったとする伝説もあります。具体的には唐子(からこ)さんが中国から渡来し、大磯の浜に上陸して秦野に至ったというものです。
それを証明するかのように、金目川河口(現在の花水川)には唐ヶ原と言う地名も残されています。唐子さん伝説はその後、徐福が海上ルートで大磯に渡来し、上陸して秦野に入ったと言う内容に転化します。
この海上ルートで渡来したのが徐福系秦氏ではなく葛野秦氏であったとすれば、二系統の秦氏が秦野にいることも納得できるはずです。
ただ秦氏の海上ルートでの渡来は、高麗若光の大磯上陸が反映されているとも考えられます。
最も筋が通るのは、京都葛野に本拠を置いていた葛野秦氏が陸路秦野に来たと言う考え方です。時代は800年より相当以前になります。それは、久我山の秦氏が玉川上水の前身工事に従事した点だけでなく、別の面からも証明されます。
「相模国の秦氏 その4」2010年12月4日にて、「記録に残る最も古い相模国の国守は秦氏の秦井出乙麻呂で天平15年(AD743年)より国守の職に就いたとされています」と書きました。秦井出乙麻呂は秦井出氏の系統と考えられる人物です。そして秦井出氏は、以下の系図から葛野秦氏の流れを汲んでいると確認できます。
秦酒公(葛野秦氏の祖。秦氏の中では有名人物)─意美─知々古(摂津、秦井手忌寸)
また「続日本紀」神護景雲三年(769年)には「摂津国豊嶋郡人正七位 井手小足等十五人に姓・秦井手忌寸を賜ふ」との記事もあります。以上から、800年以前に葛野秦氏が秦野荘のある相模国に入植していたと確認できます。
これらの点を総合すれば、秦野には徐福系秦氏と葛野秦氏の二系統が居住していたと理解できますね。そして久我山の秦氏は、秦野にいた葛野秦氏が移住したものだったのです。よって彼らは徐福伝承とは無縁でした。また移住時期が1500年代前半と新しいため、秦氏がこれだけ密集しているにもかかわらず秦氏地名は存在していません。
以上で、久我山の秦氏が徐福伝承を持っていない謎は解明できました。久我山の秦氏はこれにて終了です。次回は埼玉県と千葉県の秦氏を検討予定ですが、別の記事が溜っていますので少し後回しとします。
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