2023年10月11日水曜日

『古代の大地震と遷都の謎』の内緒話 | 万葉集 大伴坂上郎女の詠んだ歌 故郷(ふるさと)の 明日香(あすか)はあれどあをによし 奈良の明日香を見らくし良しも

『古代の大地震と遷都の謎』の内緒話 | 古代日本のヒモヅケ文明

飛鳥の宮

徳島県小松島市大林町は、その昔、

『アスカ』と呼ばれていたという伝承がある。

1815年頃に成立した、

徳島藩の地誌「阿波志」には、

飛鳥祠大林村に在り、又、日吉祠…」と記載されている。

大林町の日吉神社は、元々は『飛鳥神社』だったのだそうな。

万葉集

大伴坂上郎女の詠んだ歌

故郷(ふるさと)の

明日香(あすか)はあれどあをによし

奈良の明日香を見らくし良しも

意味(一般的な解釈の一例)

「故郷の飛鳥にある元の元興寺も良いけど、

 奈良の新しい元興寺を見るのは

 とてもすてきですわね~」

歌詞には「寺」という言葉は一言も入っていない。

素直に読めば、

故郷の飛鳥と新しい飛鳥を区別しているようにしか思えない。

「故郷の飛鳥」。

この地こそが、徳島県小松島市大林町周辺だったのである。

https://ameblo.jp/noginohi107/entry-12808928784.html

『古代の大地震と遷都の謎』の内緒話

↑のつづき。

さて、前回は

古代の近江は淡海⇒阿波海のことだった…

だから、近江大津宮も阿波にあった…

と、いうお話。

それならば、

「それ以前の皇都は全部阿波にあったってこと⁉️」

「そんなワケあるかい!」

と、いう声が聞こえてきそうである。

ここで、遷都の歴史を確認してみる。

643年「飛鳥板蓋宮」

645年「難波長柄豊崎宮」

655年「飛鳥宮」

662年「朝倉宮」

667年「近江大津宮」

672年「飛鳥浄御原宮」

694年「藤原京」

710年「平城京」

~~~~~~~~~~~~~~

712年「古事記編纂」

713年「各国風土記編纂」

720年「日本書紀編纂」

~~~~~~~~~~~~~~

740年「山背恭仁京」

744年「紫香楽宮」

744年「難波京」

745年「平城京」

784年「長岡京」

794年「平安京」

1180年「福原京」

1180年「平安京」

1868年「東京」

※正確には、東京の場合は

「遷都(せんと)」ではなく「奠都(てんと)」。

京都(平安京)との東西両京なのである。

※遷都=都を移すこと(旧都を廃する)

※奠都=都を定めること(旧都もそのまま)

東の京都だから『東京都』ってことですね。

そして、実は平城京や藤原京以前の皇都の場所に関して、

定説はあるものの、確定しうる証拠が見つかっていないのだそうな。。

つまり、本当の場所は解明されていない。

ちなみに、

大規模な平城京跡を見て、

「平城京は突然現れた」と表現される場合がある。

数多く行われてきた遷都だが、

平城京以前の皇都は、

近畿地方には無かった可能性がある。

仮にそれが真実だとして…

飛鳥京以前の皇都の場所は何処だったのか。。

その答えは、『阿波徳島』。

※近江大津宮も阿波にあったのである。

もし仮にそうだったとしたら、

なぜ、それまで阿波にあった皇都を、

わざわざ海を隔てた近畿地方に遷す必要があったか。

その大きな理由のひとつが…

『大地震』である。


さてさて、今回のメインテーマではないので、

詳しくは後日書くことにして、

飛鳥の宮

徳島県小松島市大林町は、その昔、

『アスカ』と呼ばれていたという伝承がある。

1815年頃に成立した、

徳島藩の地誌「阿波志」には、

飛鳥祠大林村に在り、又、日吉祠…」と記載されている。

大林町の日吉神社は、元々は『飛鳥神社』だったのだそうな。

万葉集

大伴坂上郎女の詠んだ歌

故郷(ふるさと)の

明日香(あすか)はあれどあをによし

奈良の明日香を見らくし良しも

意味(一般的な解釈の一例)

「故郷の飛鳥にある元の元興寺も良いけど、

 奈良の新しい元興寺を見るのは

 とてもすてきですわね~」

歌詞には「寺」という言葉は一言も入っていない。

素直に読めば、

故郷の飛鳥と新しい飛鳥を区別しているようにしか思えない。

「故郷の飛鳥」。

この地こそが、徳島県小松島市大林町周辺だったのである。

大津の宮

↓をご参照あれ。

難波の宮


徳島県と隣接する、香川県さぬき市には、

昔、『難波の里』と呼ばれる地域があった。

さぬき市津田町の石清水神社の社暦にも、

~~~~~~~~~~~

古くは難波津(ナニワツ)と呼ばれ、

海外では朝鮮半島と国内では幾内(大和朝廷)などと交易のあった津田浦の氏神社…

~~~~~~~~~~~

と、紹介されている。

古代難波に関しては、敬愛するコラクさんのブログ で至極論理的に解説されております↓


ほかにもまだまだあるが、一旦ここらへんでとどめておこう。


とにかく、飛鳥京以前の皇都の場所は四国にあった可能性がある(ワタシはもはや信じている)。


●倭(阿波)⇒大倭(大和、奈良)へ遷都した理由


さて、

「じゃあなんで四国から奈良に遷都したのよ」

という理由について、、

西暦684年に起きた

『白鳳大地震』❗



その震源地はコチラ↓

天武十三年(684年)十月十四日


十四日、夜十時ごろに大地震があった。

国中の男も女も叫び合い逃げ惑った。


山は崩れ、川は溢れた。

諸国の郡の官舎や家屋や社寺等が破壊され、

被害は多大であった。

伊予の道後温泉も埋もれて湯が出なくなった。

土佐の国では田畑五十余万が埋まって海となった。




大地震に大津波。

白鳳大地震は、有史以来、記録の残る南海トラフ巨大地震としては最古の大地震だった。

ここで震源地の図をもう一回見ていただきたい。

震源地から見るに、

明らかに四国付近の被害が大きい。

そして、日本書紀に残る被害報告では、

『伊予』『土佐』と地名が出てくる。

お気づきだろうか。

同じ四国の『讃岐』や『阿波』が出てこない。

四国の吉野川は「暴れ川」として有名だ。

こんな機会に大暴れしないわけがない。

ここが正史のカラクリであり、

後世の私達の思い込みなのである。

「なぜ、阿波が出てこないのか…」

それは、シンプルに

 そこにいたから。

わざわざ、自分達のいる場所(皇都)を

名乗る必要はないのである。

そこにいるのが「当たり前」なのだから。

あえて、先ほどの文章に付け加えるとこうなる。

~~~~~~~~~~~~

私達の住む阿波の山は崩れ、川は溢れた。

諸国の郡の官舎や家屋や社寺等が破壊され、

私達の住む阿波の被害は多大であった。

伊予の道後温泉も埋もれて湯が出なくなった。

土佐の国では田畑五十余万が埋まって海となった。

~~~~~~~~~~~👍️

以上を踏まえて、

白鳳大地震の年代を遷都の年代に

差し込んでみると、こうなる。

643年「飛鳥板蓋宮」

645年「難波長柄豊崎宮」

655年「飛鳥宮」

662年「朝倉宮」

667年「近江大津宮」

672年「飛鳥浄御原宮」

684年「白鳳大地震」

694年「藤原京」

710年「平城京」

~~~~~~~~~~~~~~

712年「古事記編纂」

713年「各国風土記編纂」

720年「日本書紀編纂」

~~~~~~~~~~~~~~

阿波から奈良に(倭から大倭に)

遷都した理由がお分かり頂けたことでしょう。


さてさてさて、

「それでは『藤原京』のことはどう説明するんだ❗」

と、言われそうですが、実は、

「藤原京は二つ存在したのである」。

つづく。

ではまた❗

参考資料↓



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