●飛鳥の宮
徳島県小松島市大林町は、その昔、
『アスカ』と呼ばれていたという伝承がある。
1815年頃に成立した、
徳島藩の地誌「阿波志」には、
「飛鳥祠、大林村に在り、又、日吉祠…」と記載されている。
大林町の日吉神社は、元々は『飛鳥神社』だったのだそうな。
万葉集
大伴坂上郎女の詠んだ歌
故郷(ふるさと)の
明日香(あすか)はあれどあをによし
奈良の明日香を見らくし良しも
意味(一般的な解釈の一例)
「故郷の飛鳥にある元の元興寺も良いけど、
奈良の新しい元興寺を見るのは
とてもすてきですわね~」
歌詞には「寺」という言葉は一言も入っていない。
素直に読めば、
故郷の飛鳥と新しい飛鳥を区別しているようにしか思えない。
「故郷の飛鳥」。
この地こそが、徳島県小松島市大林町周辺だったのである。
https://ameblo.jp/noginohi107/entry-12808928784.html『古代の大地震と遷都の謎』の内緒話
↑のつづき。
さて、前回は
古代の近江は淡海⇒阿波海のことだった…
だから、近江大津宮も阿波にあった…
と、いうお話。
それならば、
「それ以前の皇都は全部阿波にあったってこと⁉️」
「そんなワケあるかい!」
と、いう声が聞こえてきそうである。
ここで、遷都の歴史を確認してみる。
643年「飛鳥板蓋宮」
645年「難波長柄豊崎宮」
655年「飛鳥宮」
662年「朝倉宮」
667年「近江大津宮」
672年「飛鳥浄御原宮」
694年「藤原京」
710年「平城京」
~~~~~~~~~~~~~~
712年「古事記編纂」
713年「各国風土記編纂」
720年「日本書紀編纂」
~~~~~~~~~~~~~~
740年「山背恭仁京」
744年「紫香楽宮」
744年「難波京」
745年「平城京」
784年「長岡京」
794年「平安京」
1180年「福原京」
1180年「平安京」
1868年「東京」
※正確には、東京の場合は
「遷都(せんと)」ではなく「奠都(てんと)」。
京都(平安京)との東西両京なのである。
※遷都=都を移すこと(旧都を廃する)
※奠都=都を定めること(旧都もそのまま)
東の京都だから『東京都』ってことですね。
そして、実は平城京や藤原京以前の皇都の場所に関して、
定説はあるものの、確定しうる証拠が見つかっていないのだそうな。。
つまり、本当の場所は解明されていない。
ちなみに、
大規模な平城京跡を見て、
「平城京は突然現れた」と表現される場合がある。
数多く行われてきた遷都だが、
平城京以前の皇都は、
近畿地方には無かった可能性がある。
仮にそれが真実だとして…
飛鳥京以前の皇都の場所は何処だったのか。。
その答えは、『阿波徳島』。
※近江大津宮も阿波にあったのである。
もし仮にそうだったとしたら、
なぜ、それまで阿波にあった皇都を、
わざわざ海を隔てた近畿地方に遷す必要があったか。
その大きな理由のひとつが…
『大地震』である。
さてさて、今回のメインテーマではないので、
詳しくは後日書くことにして、
●飛鳥の宮
徳島県小松島市大林町は、その昔、
『アスカ』と呼ばれていたという伝承がある。
1815年頃に成立した、
徳島藩の地誌「阿波志」には、
「飛鳥祠、大林村に在り、又、日吉祠…」と記載されている。
大林町の日吉神社は、元々は『飛鳥神社』だったのだそうな。
万葉集
大伴坂上郎女の詠んだ歌
故郷(ふるさと)の
明日香(あすか)はあれどあをによし
奈良の明日香を見らくし良しも
意味(一般的な解釈の一例)
「故郷の飛鳥にある元の元興寺も良いけど、
奈良の新しい元興寺を見るのは
とてもすてきですわね~」
歌詞には「寺」という言葉は一言も入っていない。
素直に読めば、
故郷の飛鳥と新しい飛鳥を区別しているようにしか思えない。
「故郷の飛鳥」。
この地こそが、徳島県小松島市大林町周辺だったのである。
●大津の宮
↓をご参照あれ。
●難波の宮
徳島県と隣接する、香川県さぬき市には、
昔、『難波の里』と呼ばれる地域があった。
さぬき市津田町の石清水神社の社暦にも、
~~~~~~~~~~~
古くは難波津(ナニワツ)と呼ばれ、
海外では朝鮮半島と国内では幾内(大和朝廷)などと交易のあった津田浦の氏神社…
~~~~~~~~~~~
と、紹介されている。
ほかにもまだまだあるが、一旦ここらへんでとどめておこう。
とにかく、飛鳥京以前の皇都の場所は四国にあった可能性がある(ワタシはもはや信じている)。
●倭(阿波)⇒大倭(大和、奈良)へ遷都した理由
さて、
「じゃあなんで四国から奈良に遷都したのよ」
という理由について、、
西暦684年に起きた
『白鳳大地震』❗
その震源地はコチラ↓
天武十三年(684年)十月十四日
十四日、夜十時ごろに大地震があった。
国中の男も女も叫び合い逃げ惑った。
山は崩れ、川は溢れた。
諸国の郡の官舎や家屋や社寺等が破壊され、
被害は多大であった。
伊予の道後温泉も埋もれて湯が出なくなった。
土佐の国では田畑五十余万が埋まって海となった。
大地震に大津波。
白鳳大地震は、有史以来、記録の残る南海トラフ巨大地震としては最古の大地震だった。
ここで震源地の図をもう一回見ていただきたい。
震源地から見るに、
明らかに四国付近の被害が大きい。
そして、日本書紀に残る被害報告では、
『伊予』『土佐』と地名が出てくる。
お気づきだろうか。
同じ四国の『讃岐』や『阿波』が出てこない。
四国の吉野川は「暴れ川」として有名だ。
こんな機会に大暴れしないわけがない。
ここが正史のカラクリであり、
後世の私達の思い込みなのである。
「なぜ、阿波が出てこないのか…」
それは、シンプルに
そこにいたから。
わざわざ、自分達のいる場所(皇都)を
名乗る必要はないのである。
そこにいるのが「当たり前」なのだから。
あえて、先ほどの文章に付け加えるとこうなる。
~~~~~~~~~~~~
私達の住む阿波の山は崩れ、川は溢れた。
諸国の郡の官舎や家屋や社寺等が破壊され、
私達の住む阿波の被害は多大であった。
伊予の道後温泉も埋もれて湯が出なくなった。
土佐の国では田畑五十余万が埋まって海となった。
~~~~~~~~~~~👍️
以上を踏まえて、
白鳳大地震の年代を遷都の年代に
差し込んでみると、こうなる。
643年「飛鳥板蓋宮」
645年「難波長柄豊崎宮」
655年「飛鳥宮」
662年「朝倉宮」
667年「近江大津宮」
672年「飛鳥浄御原宮」
684年「白鳳大地震」
694年「藤原京」
710年「平城京」
~~~~~~~~~~~~~~
712年「古事記編纂」
713年「各国風土記編纂」
720年「日本書紀編纂」
~~~~~~~~~~~~~~
阿波から奈良に(倭から大倭に)
遷都した理由がお分かり頂けたことでしょう。
さてさてさて、
「それでは『藤原京』のことはどう説明するんだ❗」
と、言われそうですが、実は、
「藤原京は二つ存在したのである」。
つづく。
ではまた❗
参考資料↓
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