2023年3月4日土曜日

カスタマーレビュー: 失われた徐福のユダヤ人「物部氏」の謎 (ムー・スーパーミステリー・ブックス)


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2014年9月26日に日本でレビュー済み 
非常に濃い内容で私にとってはオトク感がありました。飛鳥氏の著作は説得力があります。学者にならなかったのも、タブーに切り込みながらも多岐に渡る分野と関連して調べたかったからだろうと思う。

現在でも斉一論を基盤としているアカデミズムは意外と視野が狭いですから。確かに初めて読む人の為に過去の内容が掲載されており、飛鳥氏の著作を何作も読んだ人からすればイヤだと思う人もいるでしょう。

徐福に関する本は他にも多くありますが、古代ユダヤ教徒と関係するという説を唱える人は意外と少ない。ユーラシア大陸は地続きであり、欧州を始め地理上ではアフリカとも繋がっています。

中東から延びる道は欧州だけへ向かうのではなく、中央アジアやシナやシベリア、そしてインドやアフリカにも多くの道があった。秦の時代よりも前に古代ユダヤ教はユーラシア大陸各地に伝搬されていたことでしょう。その中にシナや日本など東アジアも含まれます。

だから、徐福に関してはシナ地域を主体とした範囲で研究するのはナンセンスと言えます。ユダヤ系の原始キリスト教徒は朝鮮半島を経由して日本に来たとされる秦氏だけではなく、シナ大陸から直に来たのが徐福の集団だという。

徐福とは紀元前3世紀にシナ大陸の広範囲を支配した秦の始皇帝の命令で 不老不死の秘薬を求めて蓬莱山を目指した。最初は失敗したが2度目の探索の際には始皇帝から約3千人もの集団を伴って船出し、ついには秦に戻る事が無かった伝説の集団です。

普通、シナから東の海に浮かぶ島々は日本列島であるが、実際に日本各地には徐福伝説が言い伝えられている地域が存在しています。しかし、学術的には徐福が実在した人物だったかどうかの確証はマダ明らかにされていない。

しかし、日本各地の徐福伝説の中には古代の伝承を元に鎌倉時代以降にデフォルメされた話もあるようだが、最近の研究では弥生時代にシナの江南地方から渡来した集団が徐福と伴の者たちではないかという説もある。

研究者の中には徐福が吉野ヶ里を築いたののではないかという説もある。しかし、これらは現在の学問上での研究であって、日本の国家の成り立ちを知っている八咫烏などからすれば、その謎が紐解かれる。

徐福が率いてきた集団はのちに古代の豪族である物部氏となったという。一般的にみても、物部氏は神道を発展させてきた豪族であるが、特に飛鳥時代には仏教を推進していた蘇我氏と対立していた事は有名です。

ただ、奈良時代よりも以前の日本において由緒のある神社の大半は物部氏が創建に関与していたとされる。特に丹後の籠神社は元伊勢と呼ばれ、現在の伊勢神宮の内宮と外宮が祀られていた神社です。

その意味で元伊勢である籠神社は本家の元伊勢といえます。現代人の我々の考えでは、神道は多神教と考えられがちだが古代の神道は一神教だったという。しかも、籠神社の社紋はカゴメ紋で、ユダヤのシンボルである六芒星のダビデ紋と同じでした。つまり、古代ユダヤ教の流れを汲んでいるのです。

よって、徐福が率いてきた集団の中に古代ユダヤ教徒が多く含まれていた可能性が高いのです。秦の始皇帝はシナ大陸の中原を始めとして広範囲を支配していく際、秦の支配が及ぶ地域には貨幣の単位や規格を統一させ、現代にも受け継がれている郡と県といった地方行政を行って統治させ、法律の画一化によって中央集権制度を字作った。

秦の統治形態は、それ以前の王朝では行われなった画期的な政治を行ったことでした。実は西アジアでは秦と全く同様な政治統治形態を行っていた国があった、それはアケメネス朝ペルシャでした。この事から始皇帝はペルシャの影響を大きく受けていた可能性が高い。

事実、兵馬俑からはペルシャ人の遺体も発見されているので、当時はペルシャと大きな交流や貿易が行われていたと思われます。このアケメネス朝ペルシャは、古代ユダ南朝王国の住民を強制連行「バビロン捕囚」を行い、バビロニア王国を滅ぼした国なのです。

つまり、アケメネス朝ペルシャには多くの古代ユダヤ教徒が居たと思われ、そのアケメネス朝ペルシャが崩壊した後、ペルシャ人や古代ユダヤ教徒と共に東へ流浪し、やがて秦の建国に関与するまでの地位に昇ったのだろう。

始皇帝が徐福に全幅の信頼を寄せたのも、秦の政治中枢に出入りでき、西の情報を始皇帝に教えていた古代ユダヤ教徒だったのかもしれない。

徐福に率いられた古代ユダヤ教徒たちは日本で勢力を拡大し物部氏となり、古代の日本で「ユダヤ教をルーツとした神道」を浸透させようとしていたのではないか。秦氏は原始キリスト教徒であるが、これは当時は思想が酷似していたと思われる。

原始キリスト教そのものが古代ユダヤ教の流れを汲む思想だったからです。一般的な学問では秦氏は古代朝鮮系だと考えられているが、朝鮮半島から渡来した人たちを古代朝鮮人と断定してしまうのは、いささか早計で安易ではないだろうか。

朝鮮を経由して日本に来たシナ系や中東系や中央アジア系の人たちも存在していたはずなのです。学問では「徐福と秦氏は関係ない」と考えられていますが、徐福を物部氏とすると辻褄が合ってくるのです。

狭い日本に入れば、思想が近い同士である物部氏が秦氏が混じったりしただろう。祭祀を行うレビたちは賀茂氏となったという。そして、賀茂氏の中にも秦氏系と物部氏系が共に存在したようなのです。

古代ユダヤ教徒の流れを汲む物部氏は仏教を推進する蘇我氏に敗れましたが、秦氏は残って大化の改新の後は原始キリスト教徒の流れを汲む秦氏が再び権力の中枢に昇ります。日本の神道も、時代ごとの様々な権力者たちによって話を付け加えられていた事が良く理解できます。

そもそも、現在では互いに憎しみ合って戦争しているキリスト教とイスラム教ですが、元を辿ればユダヤ教から派生した宗派です。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も発生したのは西アジアなのです。その証拠としてエルサレムは各宗教の聖地となっており、古代から取り合いが行われていた因縁の深い土地なのです。
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