倭国大乱は鮮卑族の襲来から始まった…!?〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます。
こんにちは、今回は倭国大乱についてお話させて頂きます。宜しくお願い致します。
倭国大乱とは、記紀を含む日本の史書には記載がないため、私たち日本人は倭国を大和朝廷の前身であるかのように歴史を語りながらも、この大乱については一体何のことだかわかりません。
半島や大陸側の史書では頻りに「倭国大乱」や「倭の争乱」などと記されていることから、この時の倭の争乱は日本列島の出来事ではなく、舞台は朝鮮半島だということがわかります。
この大乱が始まった時期は、「漢末」や「桓霊の間」「霊帝光和中」などとして漠然としていますが、「桓霊の間」というのは桓帝即位の西暦146年から霊帝退位の189年までの間で「霊帝光和中」というのは178年から183年の間なので、倭国大乱が始まった年は178年から183年のいずれかになります。
そしてこの大乱が終結する年は、女王卑弥呼が共立され倭の乱れが収まったとあるので、卑弥呼即位の年と同年になるはずです。
では霊帝光和中の5年間に倭国では一体なにが起きていたのでしょうか。
倭人伝だけでは検討も付きませんが周辺諸国の伝記を見ていくと大乱の原因として考え得る要因が1つ浮かび上がります。
[後漢書烏桓鮮卑伝]には次のようにあります。
原文
《光和元年冬 又寇酒泉緣邊莫不被毒 種眾日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食》
《光和元年の冬、種衆日に多く、田畜射猟、食を給するに足らず。檀石槐(だんせきかい)すなわち自ら徇行し、烏侯秦水(うこうしんすい)を見るに、広きこと従数百里、水は停まりて流れず、その中に魚あるも、よく之を得ざるなり。聞くならく倭人は善く網捕(もうほ)するを、ここに於いて東、倭人国を撃ち、千余家(せんよけ)を得る。徙(うつ)して秦水之上に置き、捕魚をして以て糧食を助けしむ》
とあります。
※ 檀石槐=呉音だと「だんしゃくえ」
東漢の霊帝光和元年、というのは西暦178年のことで、この年の冬は農耕・牧畜・狩猟だけでは食糧を供給することができなくなったとあります。
鮮卑の族長である檀石槐という人物は自ら徇行して烏侯秦水を調べてみると、この河川には魚が存在していたとあります。
しかし鮮卑族というのは遊牧民であるため漁(すなど)る技術は持っていません。
聞いたところ倭人は善く魚網をして魚を得ているらしいので、東にある倭人国を撃ち千戸ほどの倭人集落を得て、彼らを秦水の上に住まわせます。そして漁労に従事させて鮮卑族の食糧難を助けたとあります。
【倭国の所在地】
ここで、この時代の倭国の領土について確認しておきます。倭国は時代によって領有地が異なるので注意が必要です。
鮮卑が倭人国を襲来したのは西暦178年でした。
鮮卑族の領有地は西暦170~180年代は遼東北部から遼西方面に移り、東は遼河流域一体地区を占め、西は新疆ウイグル自治区周辺にまで達していました。
鮮卑族は東にある倭国を撃った、とあるので当時の倭国は遼東方面または千山々脈以東の地区、或いは鴨緑江(おうりょくこう)下流域周辺となります。
この範囲の内、鮮卑の騎馬集団が陸路侵攻し得る土地に、当時の倭国は存在していたことがわかります。
「倭国大乱」や「倭の争乱」などと称される起因が鮮卑族の侵攻によって始まったとすれば、古代の社会において千戸もの人々が連れ去られ漁労に従事させられたというのは大事変であり、場合によっては滅亡に係わる国家危機であったと考えられます。
この鮮卑による侵攻略奪が発端となり、倭国は国家統制に支障をきたし内紛に発展していったのではないでしょうか。
《光和元年の冬》は西暦178年の冬であり、この年は「漢末」や「桓霊の間」「霊帝光和中」の全てに当てはまります。
そして女王即位と同時に乱は収まったと記されていることから、即位年と倭国大乱の終止年は同年であると考えられます。
女王の即位年は献帝の初平元年乃至は二年頃と推定されているので、この時代の遼東方面の覇者を調べると公孫度という人物が浮かび上がります。
公孫度は養父である公孫域の後を継ぎ、遼東方面の鮮卑族、高句麗、烏丸(うがん)を征して、韓や倭の内政干渉を活発化させています。
この頃[魏志夫餘伝][隋書百済伝]によると公孫氏の宗女が扶余王仇台に嫁いだことが書かれていたので対婚関係をもって同盟を結んでいたことがわかります。
公孫氏が遼東に半独立政権を樹立させた年から遡ること約12年前、鮮卑族は食糧難のため倭人を襲撃拉致し、倭の国内は大混乱が続いていました。公孫氏と扶余は倭の収拾策として、公孫氏と扶余の勢力内から女王を共立させたと考えられます。
[晋書四夷伝倭人条]には
原文
《其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢》
《乃ち女子を立て王とした名は卑弥呼宣帝が平らぐ公孫氏也》とありました。
卑弥呼は宣帝が平らぐ公孫氏なり又は倭国は宣帝が平らぐ公孫氏なりとあります。
※卑弥呼が共立される以前の倭国に公孫氏はいない
どちらが主語だったにせよ結局のところ女子を立て王にした倭国は公孫氏なりという内容になり、公孫氏が関与しています。
ひとたび卑弥呼が女王として即位するや、争乱が続いていた倭が収拾し得たということは、卑弥呼の背後には公孫氏一門の勢力が控えていたからではないでしょうか。
魏の景初二年、西暦238年、司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)が公孫淵(えん)を東梁水(とうりょうすい)のほとりで討ち、遼東平定と華北の統一を成し遂げるまで、その方面の覇者が公孫氏だったということは忘れてはなりません。
[魏志倭人伝]には
原文
《景初二年六月 倭女王遣大夫難升米等詣郡 求詣天子朝獻 太守劉夏遣吏将送詣京都 其年十二月詔書報倭女王曰》
景初二年六月に倭の女王は大夫、難升米(なしめ)等を郡に遣わして、天子に詣り朝献することを求めています。
※ 難升米の読み方は諸説あります
景初二年六月といえば、魏の明帝(めいてい) 曹叡(そうえい)が詔を奉じて、宿将司馬懿仲達が遼東平定に乗り出したのも同じく景初二年六月です。
そして帯方郡太守の劉夏(りゅうか)という人物が難升米等を京都である洛陽まで引率して、その年の十二月、倭の女王に詔書が報いられます。
[魏志倭人伝]では倭の女王は238年6月に天子に朝献することを求めていましたが[晋書]によれば6月はまだ公孫淵が討たれる前であり、魏が公孫淵を討ったのはその3ヶ月後の9月です。
ではなぜ倭の女王が6月に朝献を求めたのか、その理由として考えられるのが公孫氏一族の助命嘆願です。
この時の献上品である生口男性4名と女性6名、班布(はんぷ)二匹二丈に加え嘆願書を持って朝献に来ていたのではないでしょうか。
[魏志倭人伝]には天子が倭の女王に対して送った公文書に"我甚哀汝"我は甚(はなは)だ哀れむ汝、とあり、これは極めて異例とも受け取れる言葉です。
歴代の王朝史を調べると朝貢してくる国に対しては、忠順、忠義、忠節、忠烈などと表現していますが、倭の女王に対する詔書には忠孝や哀れむ、という異例の言葉をかけていることから、倭の女王が公孫氏であり、助命の嘆願は聞き入れられず公孫恭を除いた一族は皆殺されてしまったことに対して"哀れ"としたのではないでしょうか。
[魏志倭人伝]倭の女王への詔書
原文
《制詔親魏倭王卑彌呼 帶方太守劉夏遣使 送汝大夫難升米 次使都市牛利奉汝所獻 男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到 汝所在踰遠 乃遣使貢獻是汝之忠孝 我甚哀汝 今以汝為親魏倭王 假金印紫綬 装封付帶方太守假綬 汝其綏撫種人 勉為孝順》
【気候変動による小氷期到来】
では倭国大乱の起因となった鮮卑族の襲来はなぜ起きてしまったのでしょうか。
[晋書]では田畜射猟だけでは食糧が足りなくなった、とありました。
食料不足の原因としては鮮卑族の勢力拡大に伴って人口が増えたことが原因だと云われていますが、その他にも2.3世紀の東アジアで起きていた気候変動も要因の一つではないかと考えられます。
山口大学の山本武夫氏は「気候の語る日本の歴史」という書籍の中で2.3世紀の東アジアは小氷期に入っていたことを、[三国史記]の気象データと海水準変動やフェアブリッジ曲線を比較して科学的に検証していた人物です。
騎馬民族の東西の動きや、倭人系諸族の南下は小氷期と無関係ではなく、古代の気候・気象条件を踏まえた山本氏の生産力論は、極めて現実的であり2.3世紀の草原地帯、朝鮮半島、倭国の状況を的確に説明しています。
小氷期の気候状況下では人類はより生きやすい場所へ移動し、生活・文化は気候によって大きな影響を受けます。
気候変動による社会不安、内乱から政治・社会体制の変革が起こり、その動揺は近隣諸国にも波及します。
小氷期と鮮卑族の襲来、倭国大乱、邪馬臺国の成立は全て繋がっているのではないでしょうか。
【まとめ】
今回は倭国大乱について考えていきました。この大乱は178年冬から始まり卑弥呼の即位で終結し、その原因は鮮卑族の襲来であり、さらにその襲来の原因は東アジア一帯が小氷期に入ったことによる気候変動だったのではないか、というお話でした。
他にも情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひコメント欄で教えて下さい。
古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて是非皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍も読んでみて下さい。最後までご覧頂きありがとうございました♡
📖参考書籍📖
山形明郷著書「卑弥呼は公孫氏」
山本武夫著書「気候の語る日本の歴史」
佐治芳彦著書「邪馬臺国の謎」
鹿島曻著書「桓檀古記」「邪馬壱国興亡史」「倭人興亡史Ⅰ・Ⅱ」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
房玄齢等著書「晋書」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
藤間生大著書「日本古代國家」
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