2020年5月27日水曜日

プルードンと国際政治(プルードンと憲法第九条を改題)

《一三   もしふたりの人間がいっしょになって力を合わせるなら、ふたりはともに、めいめいがひとりであるよりも、ずっと多くの権利をもつようになる。そして、こういうふうに親交を結ぶ人々の数が多ければ多いほど、彼らはすべていっしょに、ますます多くの権利をもつようになる。》

スピノザ政治論(国家論)#1:13


改訂版:
freeassociations: プルードンと国際政治(プルードンと憲法第九条を改題)改訂版

「中京商学論叢」
Pierre-Joseph-Marie PROUDHON. 
Si les traité de 1815 ont cessé d'exister? - actes du futur congrès 1863
P.-J. プルードン著「もし1815年の諸条約が存在しなくなれば?〜〜来るべき会議の諸行為」(1) 〜(4) 翻訳 後藤修三
1964年、第11巻第1号通巻29、同(1)
1964年、第11巻第2号通巻30、同(2)
1965年、第12巻第2号通巻34、同(3)
1966年、第13巻第2号通巻39、同(4)

Pierre-Joseph-Marie PROUDHON. La fédération et l'unité en Italie. E. Dentu, Paris 1862
「イタリアにおける連邦と統一」(1)〜(3) 翻訳 後藤修三
1966年、第13巻第3号通巻40、同(1)
1966年、第13巻第4号通巻41、同(2)
1967年、第14巻第2号通巻43、同(3)

参考:
Proudhon Courbet 1863,1865
https://freeassociations2020.blogspot.com/2020/05/proudhon-courbet-1863.html
proudhon/marx1847
幸徳秋水によるプルードン紹介 1904

的場『未来のプルードン』2020★が評価出来るのはマルクスとプルードンを必要以上に対立的に捉えていない点だ。これは柄谷行人が『世界共和国へ』『世界史の構造』で敷いたラインではある。
ただ本書ラスト(227頁)はプルードンが国家を超えた枠組みを想定しえていないという誤解を与える。しかし的場も少し触れているようにプルードンの晩年(ベルギー亡命時)は国際政治に関する著作が多い。
プルードンの相互主義という理念の可能性を的場は評価するがプルードンの国際政治論は明示的で具体的である。単に水平的なだけではない。

プルードンの原理である相互主義(主に遺作で展開)は、国際政治においては条約ということになる。
自然権を維持するという意味で、ルソー、ホッブズよりスピノザに近い。
(スピノザにも相互主義的視点がある。)
国際政治における条約はケインズのバンコール案に繋がる。プルードンの交換銀行は国内の職人向けだが口座開設においてバンコールと同じ原理である。

本書はプルードンのコメント、マルクスとの往復書簡新訳を付属させた『哲学の貧困』の新訳作業★★から生まれた企画だろう。
集合労働力に言及している点なども評価出来る(150頁)。
ただここから本来ならマルクス資本論の読み直しが必然的に始まるはずだがそれは今後の課題らしい(36頁)。
結合労働力はマルクス資本論では二次的となってしまうが…
(素朴な集合力理論に立ち返るべきだろう。そこには消費者側の団結も含まれる)
的場は留学した時プルードンが盛んに言及されていたことを以前書いていたが、
本書の枕にそのエピソードが必要だった。
最新研究に触れているが日本での研究にはあまり詳しく言及していない。
入門書という位置づけだろう。
(マルクス宛の手紙の旧訳2種には触れずに部分的に自己の新訳を使っている)

書名はライバルへのレッテル張りだが実際のところ著者自身の自己紹介である…

追記:
的場未来のプルードンはワルラスに言及していて画期的

以下参考までに

ワルラス、マルクスとプルードン(プルードン生誕200年に際して) 
https://yojiseki.exblog.jp/7807289/

ワルラス、マルクスとプルードン(プルードン生誕200年に際して)

ワルラスもマルクスもプルードン批判(というよりも詳細な吟味)からスタートしている。
読めばわかるがワルラスの均衡という概念もマルクスの価値形態という概念もプルードンからの剽窃であり、その価格論的展開にすぎない。彼らはプルードンの思想を具体化したというよりは、ある一面のみを取り出して「純粋化」したのである。
そのかわり彼らにはプルードンにはあった価値論が疎かになっている。
(ワルラスには労働価値論が足りないし、逆にマルクスには資本/国民/国家の三位一体といった総合的視野が欠ける。)
今の不況はそうした価値論が不足していたことが原因であろう。

プルードンの言説が具体的でないと感じるならば、以下の交換銀行定款をご覧下さい。
http://nam-students.blogspot.com/2008/12/blog-post_12.html

追記:
『プルードン研究』にも所収された佐藤茂行氏の「レオン・ワルラスのプルードン批判について」は以下でpdf公開されています。
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/31237
「レオンが一般均衡論の体系を構成するに際して、否定的な対象であったにせよ [ 否定的対象であるが故に]プルードンの経済的均衡の体系をその念頭においていたことは想像に難くない。」(pdf版p36、『プルードン研究』木鐸社p331-332)

ここで論じられたレオン・ワルラスのプルードン批判の書『経済学と正義』の邦訳はまだないようです。 


NAMs出版プロジェクト: 『哲学の貧困』(マルクス)へのプルードンの書き込み(簡易版):再送
 http://nam-students.blogspot.jp/2011/08/blog-post.html?m=0
プルードンがユアの名を出した書き込みが訳出されていない
最新研究で第三者の書き込みとされたのか?多分ミスだ。
厳密には二箇所欠落している。

118頁5行目…対立するものである。」の後に以下の書き込みがあるはず。
「大いに結構。私の意見はその反対だ。労働者の堕落は、スミスが分割とよぶものにおけるよりも、あなた[マルクス]が自動体系とよぶものにおける方が、より以上すすむのである。私についていえば、私は、分割と機械によって、これら二つの程度を示したのである。細分化され、ばらばらにされた分業は、人間を分散させる。機械は、人間を隷属させる。これは、ドクトゥール・ユアとまったく同じことである、と私は、のべたのである。」

★★
https://www.amazon.co.jp/dp/486182804X/

新訳 哲学の貧困 (日本語) 単行本 – 2020/3/31

地球環境の悪化、拡大し続ける貧富の格差、働くことの意味、

資本主義を超えるヒントをくれる、いま、世界で急速に再注目されるマルクス初の単著。

マルクスが経済へと目を向け、思想の転機となったマルクス“最初”の単著。さらにこの新訳は、『哲学の貧困』に対するプルードンの批判コメント、関連する文献を訳し、近年世界で最も注目されるマルクス終生の宿敵プルードンを知るための絶好の書でもある。
マルクス「VS」プルードンではなく、マルクス「と」プルードンという視点から、新しいマルクスの読みを提示する決定版新訳。


プルードンのマルクス哲学の貧困への書き込み(ブザンソン図書館にある手沢本を参照している~ネットでも読める?)が全て訳出されているのが画期的だが、後ろの訳注に紛れ込んでいるので読み難い。
プルードン再評価につなげるなら本文頁に組み込むべきだった。
貧困の哲学以外の21冊ほどのプルードン著作の解説がありがたい(特にクーデター論解説はプルードンの民衆への冷徹な観察眼を指摘していて秀逸)。多分既に邦訳されているのは6冊ほどだろう。ただし没後刊行のクールベ論解説がないのが残念。


もし1815年の諸条約が存在しなくなれば?--来るべき会議の諸行為-3-. (1965) プルードン P et al. cited 0 times 中京商学論叢.



以下はプルードンと憲法第九条を再掲

プルードンと憲法第九条

プルードンは晩年ベルギーに亡命してからはヨーロッパの国際政治について主に論じている。その論文「1815年の諸条約が存在しなくなれば?」(1863年発表)は、1815年のウィーン条約の有効性を17世紀の30年戦争を終結させたウェストファリア条約と結びつけ、擁護しているものである(論文タイトルは「1815年の諸条約が存在しなくなった」というナポレオン三世の演説に反論したもの)。
ポーランド、イタリアの統一に反対しているため誤解を与えるかもしれないが*、これは新たな戦争を防ぐためである。
実際連合の理念以外に戦争を防ぐものはないのだ。
その意味でプルードンが執筆当時に50年近く前の条約を蘇生させた試みは、今日の憲法第九条の擁護に似ている。

上記論文の結語近くの部分にはこうある。

「ウェストファリア条約は古代の戦争法および国際法を廃止しなかった。それは、それに実り豊かな調和的な制限すなわち均衡の思想をもたらしさえすればよかった。
 同様に、ウィーン諸条約はウェストファリア条約を決して廃止しなかった。それらは、それによって課せられた原則に諸人民と諸国家にとって最も重要な思想、すなわち憲法の相互的保証の思想をつけ加えることによって、その連続となったのである。
 諸国家間の平等の法則、各国家内部における平等の法則、これがマンステールとウィーンにおける討議から生まれた2重の思考である。


 実際、これら2つから論理的に演繹される第3の思想が必要である。そして、それは、これらを完成し承認する物であり、国境区分の手直しという危険な道をとらずに、主権と統治の内部的分配によって、諸国家間の不平等から生ずる遺憾な結果を弱め、そしてさらに諸国民の自由を確保するものである。」

これらはまた、双務的契約を推奨する中で最大限自然法を重視する姿勢において、スピノザにも似ているかも知れない。

*注:
プルードンは前年の1962年に『連合の原理』(1863)を予告するように「イタリアにおける連邦と統一」後半部でこう書いている。

「ひとはいう、ローマはイタリア人たちのものだ、と。わたくしは答える、ちょうどナポリがナポリ人たちのものでありパリがパリ人たちのものであるようにローマはローマ人たちのものだ、イタリア人というのは、フランス人たちと同様に、1つの抽象(une abstraction)であって、真実なのはフランスという名をもつ政治的一大集団(une grande agglome'ration politique)が現時点に存在しているということである、しかしそうかといってこの事実はアルプスのむこう側にその集団の対応物(統一イタリア)を作り出すための理由では全然ない、まったく反対である、と。」

参照:
P.-J. プルードン著「もし1815年の諸条約が存在しなくなれば?〜〜来るべき会議の諸行為」(1) 〜(4) 翻訳 後藤修三
「中京商学論叢」
1964年、第11巻第1号通巻29、同(1)
1964年、第11巻第2号通巻30、同(2)
1965年、第12巻第2号通巻34、同(3)
1966年、第13巻第2号通巻39、同(4)

「イタリアにおける連邦と統一」(1)〜(3) 翻訳 後藤修三
1966年、第13巻第3号通巻40、同(1)
1966年、第13巻第4号通巻41、同(2)
1967年、第14巻第2号通巻43、同(3)
https://acrobat.adobe.com/link/review?uri=urn:aaid:scds:US:7506f89f-5a52-4fa1-a7cd-945af20bc5ef


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的場プルードンは集合労働力に言及しており評価出来る(150頁)
ただここからマルクス資本論の読み直しが必然的に開始する
結合労働力はマルクス資本論では二次的となってしまう
的場は留学した時プルードンが盛んに言及されていたことを以前書いていたが
本書の枕にそのエピソードが必要だった

未来のプルードン——資本主義もマルクス主義も超えて | 的場 昭弘 |本 | 通販 | Amazon

カール・マルクスの終生のライバル、ピエール・ジョゼフ・プルードン。

マルクスはプルードンの「所有」の概念に衝撃を受け、経済学に邁進した。
プルードンはさらに変化を遂げ、アソシアシオンという画期的な考え方に到達する。


https://www.amazon.co.jp/dp/486182804X/

新訳 哲学の貧困 (日本語) 単行本 – 2020/3/31


シルビオ・ゲゼル研究室 代表作「自然的経済秩序」1-0
http://www3.plala.or.jp/mig/gesell/nwo1-0-jp.html

「労働の雇主が現在の半分の金利で貨幣資本を供与されるならば、全資本家の金利収益もすぐにまた半分に落ちなければならない。たとえば、家を建てるための借入金の利子よりも既存の家の家賃収入のほうが高く、あるいは、肥沃な農地の賃料より森の開墾の利息のほうが安ければ、競争のために減少した金利(つまり剰余価値の減少)のレベルに必然的に家賃や賃料が下がるが、それは物的資本(家・農地)の価値を減ずる(つまり剰余価値を賃金の増大に向ける)最も確かな方法は明らかに、新たに資本を創造して行使することである。経済学の法則によると生産が増大すると労働者に提供される資本の量が増し、賃金を増やし金利を最終的に金利をゼロにする」(プルードン:所有物とは何か(パリ、フラマリヨン社、235ページ)より) 

金利や地代とも呼ばれるいわゆる剰余価値、つまり不労所得の除去は、あらゆる社会主義的な運動の当面の経済目標である。この目標の達成のために一般的に、生産の国有化などとともに共産主義が要求されるが、P.J.プルードンこそが私の知る限り、資本の本質の探求でこの問題の解決の可能性を示唆した唯一の社会主義者である。生産の国有化の要求は、生産手段の特性によって正当化されている。資本家による生産手段の所有が労働者との賃金交渉で、どのような状況でも資本家に優越権を与えることは、通常自明の理として主張され、それは剰余価値あるいは資本金利として表現される。現在資本家が優位な状況が、単に既存の家の隣に新しい家を、あるいは工場の隣に新しい工場を建築することで非所有者(労働者)に有利になることは、誰も思い浮かべられない。 

プルードンが社会主義者に50年以上前に明らかにした、不断の重労働で資本家をうまく攻撃でき放逐できるという方策は、今日当時よりも理解されていない。プルードンは完全に忘れ去られてこそいないものの、誰も彼をきちんと理解していない。そうでなければ、資本家はいなくなっていたことだろう。プルードンの方法論(交換銀行)が間違っていたので、彼の理論は全体が信用されなくなったというのが、決してプルードンがきちんと理解されなかった理由なのだろう。きちんと理解したことを実践せず、失敗のために尻込みしてしまったのだ。 

なぜマルクスの資本理論がプルードンの学説を追い出せ、社会主義を独裁制にできたのだろうか。どうしてマルクスと彼の理論が世界のあらゆる新聞で語られるのか。マルクス主義の絶望とそのための無害性だという人がいる。ちょうど資本家がキリスト教の教義を恐れないように、資本家は彼の理論を恐れない。むしろ、マルクスやキリストについておおっぴらに話すのは資本家のためになる。マルクスは資本家を決して破壊できないが、それは彼が資本の性質を誤解しているからだ。しかし、プルードンに注意しよう。彼は徹底的に無視するに限る。妨害や擾乱、または中断なしに労働者が働ければ、資本家は資本の供給過剰(商品の生産過剰と混乱しないように)ですぐに窒息するという彼の主張は正当なものなので、彼は危険人物である。直ちに実行できるため、資本家の攻撃のためのプルードンの提案は危険なものである。マルクスのプログラムは最新の機械と道具を備えた現代の訓練された労働者の莫大な生産能力について語っている。マルクスはこの莫大な生産能力で何も始められない。プルードンの手にかかるとこれは資本家に対する武器となる。そのためプルードンを忘れてもらえるように、マルクスを喧伝せよ、と。

5 件のコメント:

  1. 所有は集合力を削ぐ

    ただしプルードンは相続は認めた

    憲法9条は戦争を終わらせるために必要であり
    現実的だ

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  2. レオン・ワルラスのプルードン批判について
    その他のタイトル: Refutation of P.-J.Proudhon's economic doctrines by Léon Walras
    著者: 佐藤, 茂行1 著作を一覧する
    著者別名: Satō, Shigeyuki1
    発行日: 1972年 5月
    出版者: 北海道大学經濟學部
    誌名: 北海道大學 經濟學研究
    誌名別名: THE ECONOMIC STUDIES
    巻: 22
    号: 1
    開始ページ: 53
    終了ページ: 102

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  3. この文献へのリンクには次のURLを使用してください:http://hdl.handle.net/2115/31237

    タイトル: レオン・ワルラスのプルードン批判について
    その他のタイトル: Refutation of P.-J.Proudhon's economic doctrines by Léon Walras
    著者: 佐藤, 茂行1 著作を一覧する
    著者別名: Satō, Shigeyuki1
    発行日: 1972年 5月
    出版者: 北海道大学經濟學部
    誌名: 北海道大學 經濟學研究
    誌名別名: THE ECONOMIC STUDIES
    巻: 22
    号: 1
    開始ページ: 53
    終了ページ: 102
    資源タイプ: bulletin (article)
    URI: http://hdl.handle.net/2115/31237
    出現コレクション: 經濟學研究 = The economic studies > 第22巻第1号 Vol.22,No.1

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  4. ワルラス経済学と正義1860はプルードンの革命と教会とにおける正義について1858#5,6を論じている

    プノレードンは第6章「経済的平衡(Balanc巴seconomiques)jのなかで,つぎのようにのべている。「自然にあって,すべてのものは,たえざる変動のなかにあると同時に,すべてのものが重さと広さとをもった数の法則,均衡の法則(laloi d' equi1ibre)に従っている。社会を,およそ覆滅することなく,発

    された均衡の範式に,われわれが順応ずるということは,知的,道欝釣存在としての,われわれの権利であり,かつ義務である。均衡の責務をはたすこと,このことこそ,わたくしが正義または経済にお汁る相互性(reciprocitのと呼ぶところのものである。かくて,労働と生産物の平復あるいは相互生,取引の平衡,欝告の平衡,人口の平衡,あらゆるところにみられる平衡。経済社会は一つの広大な平衡の体系であり,その終結的な言葉は平等である。」11. p.93J f経済に適用されるところの正義は,つまるところ不滅の一つの平衡以外のものではなし、あるいは,より厳密な仕方で表現すれば,財の分配に関する正義は寿司書簡係のなかでの,すべての市民,すべての国家に諜せられた嚢務以外のなにものでもなし、。それ球経済のなかのいたるところであらわれる均衡の法部に繍応ずることであり,偶然的,意5導的たるを間わず,これを詑すのが設問の長室裂なのである。J[u正義J11I,p.92J 弘上のようにして,ブル…ドンの均衡の法揺は自然の法則であると持持に,市民なり悶家が詫わなければならない正義の法則でもある,ということになる。それにしても,こうした均衡はし、かなる鎚係について成立しまきものなのか,ブルードンは,それについてつぎのように説明する。「経済のすべての働きは,二つの対立的な項(t日rmes)によって燥関することに詮隠されたいの労働者と親方,売手と資手,稜権者と僚務者,手形読E適者と割引等々gこれこそ不可避な等式をひき出す不滅の,体系的な二元総(undualismめである。経済学は,その本震,その原理,その方法,その変動の法則。そのg的からして社会的均衡の科学なのであり,いうなれば財畿の平等の科学でるる3それは数学が大きさの掃のさ事式の科学であるのと同じくる。J[u正義~Jl, p.81l ブルードンによれば,I均衡」をその法則としてもっところの経済秩序は「用役の相主主性jによってえられるものであった。宮正義jn ,p.65Jでtこみたように,とこの議議には人格的権制の平等が考えられていた。したがって
    経済的均衡合もたらすものはこうした権利の宝子等なのであった。そしてこの権料の平等は,普選的な均衡法則の社会形態たる前況の二つの項の対立関係のもとで成立するものとして理解されていた。かくしてここから経済的誇衝は,けっきょく権料の宝子等つまり正義の経済への灘用を表現し,したがって経済的均禽〔平等関係または均等の成立〕はすなわち正義そのもの0,という考えが生み出される。「正義の経済への適用jと誌,こうしたことを櫛すものであった。ァツレ…ドンはこのことをデカルトの解析幾向学,つまり代数学の幾何学への適用になぞらえて誘拐する。([i正義j立,p.60]以上のことからブルードンの「経済科学jとは平等な機棋にもとづく経済秩序における均衡法則を明らかにするものということになり,これがかれのいう経済学への権務の離念の導入の意味なのであった。喜

    2.経済的均衡

    第6撃「経済的王子衡jでプfレ…ドン拭経済的均衡の成立条件を,すでにみたつぎのような対立関係のそれぞれについて解明するo1) 労働者と毅ガ,の売手と関手,め流通と鮒引,心費手と借手,的所有者と借受人,的地租と地代,7) 人口と生器資料。以下それぞれについての説明をみることにしよう。まず「鰐働者d二親方」についてoブノレ…ドンによれば「革命は,1789年にまざし、て,はじめて平等の捺怒とともに労働についての権利害と設定したjが,この労(闘の権利にもとづく用役の結五性は,つ変るところ「生産物と賃銀との向等(egalitめjる。cr正義Jln, p.75J I用役が杷互的であるためには親方(l母maitre)(わたくしはそれを企業令代表するものとL北、たいのだが〉は,労働者がかれに与えるものと商じだけのものを労憐者に返還(陀nde)ずることがなければならない。………とと0)これこそが総互性の法則のここでの厳密な解釈なのであり,これこそフランス慈命以米,労働を寄るものとみなされてきた原理なのであるo…

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  5. プルードンは第5章を,かれの経済学研究の回想からはじめる。パンの問題すなわち賓乏の体験から発した「条件と財産の不平等jの起源への探究心が,1838年,パリでの経済学研究へと,かれをかり立てたこと,そしてパリの図書館でのフィジオクラートの経済科学との出会いが語られる。フ。/レードンはそこで,18世紀後半,すでにキリスト教的伝統,宗教的暗示の範囲外で一つの科学が現出し基礎がためがなされていたことを発見する。そして,この科学が慣習,法律上の仮説,偏見などから独立して「生産,分配そして消費の自然法則(leslois naturelles)をその対象とLて規定Lていたこと」を見出して,rまったく,これこそが,わたくLの関心事だったのだ」と表白する。CU'正義~II, pp. 57-58J他方,プルードンは,これにひき続いて,従来の経済学のつぎのような欠陥を指摘する。このエコノミストの科学には権利の概念が少しも導入されなかった,だから以後の経済学の著述家たちは目前で推移する事実を詳記するととに自らを限定Lて,それらの事実が正義と一致するか否かの問題を少しも思し、見ょうとはしないのだ,と。こうしてプルードンは,人間的権利にもとづく「分配」の正義と,経済学的事実認識との分離を糾暫して「権利の概念」の,経済学への導入を主張するのである。C!r正義~II , pp. 58-59J

    このようなブルードンの主張は,r社会が,つねに発展しながら分業による利益をいかに保持するか,そして他方で社会が労働者階級の額廃を阻止しながら,いかに正義を満足させるかを知るJ[U'正義~II, p.59Jという問題意識にもとづいてなされているのであるが,ここには,かつてかれが「集合力」概念でとらえた分業の利益=生産力の増大と,分配の正義との調和(accord),つまり経済学と正義を結びつける必要性の根拠が明示されているといえよう。こうして経済学への権利の概念の導入とは,けっきょく経済的事実を正義の観点からとらえなおすことに他ならず"そしてそれは経済的事実を正義の顕現過程として理解しその結果としてえられる秩序を「経済的平衡」として摘くことであった。ブルードンはこうしたことを「正義の経済への適用(app1ication)Jと呼ぶ。そこで,つぎに,その正義の規定,経済への適用の
    内容,それによってえられる経済的秩序とそこでの法則の理解についてみてゆくことにしたい。

    プノレードンは正義の本質を「人格的平等j(l'egaHte personnelle)としてとらえる。そしてこのことから,I対等にして相互的な尊敬(Respectegal et reciproque)jすなわち「尊敬の相互性」を導き出す。ついで,この人格的平等=正義の本質が実際的には「財産(Fortunes)jの平等としてあらわされること,また「尊敬の相互性」が実際的には「所有,労働,教育,信用,交換,租税,批評,力,判断における杷互性」すなわち「用役(Service)の相互性」としてあらわされることがしめされる?なお,この尊敬の相互性と用役の相互性は,それぞれ「人格的権利の原理」と「現実的権利または経済的権利の原理」をあらわすものとされ,ここから正義の本質としての人格的平等は,権利の平等として把握される。[~正義~II, pp. 60-65Jこの人格的平等,権利の原理は,前述の革命の原理に相当する。フ。ルードンはそれらを1789年の人権宣言,1791年憲法等の条項によってあとづける。[~正義~II, pp. 63-65Jそしてこの原理はつぎにみるようなプノレードγの自然法的秩序観によって根拠づけられているのである。「……平等は世界の法であるのと同じく,人類の法である。この法を外にして人類に安定も平和も幸福も存在しなし、。というのは均衡が存在しなし、からである。…・革命は,……平等がすべての自然の法であるとし、う原理から出発して,人聞は本質からして〔他の〕人聞に対等であることを想定するj[["'正義~II, pp.69-70J こうして平等の人格=権利にもとづく経済秩序と,そこでの均衡の法則の解明こそが,現象記述的な「経済学」に対して,正義の復権を主張するプノレードンの「経済科学」の課題となる。そこで,つぎに,この均衡の法則についてみておくことにする。

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