2020年6月6日土曜日

幸徳秋水1904とプルードン

 
幸徳秋水のプルードン


以下は1904年日本人による最初期のプルードンへの言及
森鴎外による言及は大逆事件1910=M43以後
(食堂という短編)

幸徳秋水

プルードン氏(社會黨の偉人) - 社會主義關連文献

https://ryukaku.hatenablog.com/entry/2020/03/28/043312

プルードン氏(社會黨の偉人)

△是まで陳べ來つた人々の企畫は、宗敎的若くば國家的權威オーソリチーに依て、人類の生活を改善せんとしたのだが、プルードンに至つては、全く新なる方面に進んだ、前者は不等に重きを置きて、社會の組織制度の模型中に萬人を押込めんとした傾きがある、後者は個人の絕對の自由てふことを根底として、諸種の權威を排斥した、廣義に曰へば、いづれも社會主義者であるが、前者は共產主義的で、後者は無政府主義的である。

△今日では社會主義、共產主義、無政府主義等の語が狹義に解釋されて、各々特定の意義を具へて來たのであるが、當時に於ては純然判然たる區別をするのは困難であつた、ブルードンの如きも社會主義と無政府主義と兩方に片足づゝ掛けて居たので、ドチかと言へば無政府黨に近い、彼自身を無政府黨なりともいひ、社會黨なりとも言て居る、但だ共產主義には激烈に反對したのである。

△ピエール・ジヨセフ・プルードン氏は一八〇九年七月十五日佛國ベサンソンに生れた、桶屋の子だ、家が貧しいので幼年から種々のことをした、農家にも雇はれた、牛飼もした、後に料理屋の給仕になつて、學校に行く時間を得た。

△非常な學才があつて、成績極めて善く、十四歲の頃には公立圖書館で澤山の書物を讀で居た、次で大學に入つた、十九の時に親父が零落したので學校を罷め、活版屋に入り、出版書肆の集金になつた、此場合に大に神學と原語學とを勉强した。

△ベサンソン大學で「日曜日の利益」と題する懸賞の募集に應じ、當選はしなかつたが、文名高くなつて、千五百法の年金を學士院から貰つて、比較原語學に關する著述などもあつたが、彼は語學者、神學者で甘んずる人ではなかつた、彼は自身が貧民の子で、下層の事情に通じて居たので、多數勞働者の救濟といふ念が去り得なかつた、學問を積むに從つて、盆々其熱心を加へた。

△次で自分で印刷所を起して營業とし、傍ら經濟學を硏究した、其結果、有名なる「財產とは何ぞ」と題する雄編を著した。

△「財產とは何ぞ」の書の出たのは、實に社會主義の歷史中特筆すべきの事件であつて、ブルードン氏は實に之に依て、不朽の人となつたのである、彼は「財產とは何ぞ」てふ問題に對して「財產は贓品也、資本家は盜賊也」と喝破した、前人が如此き觀念と論理とを有して居ながら、嘗て喝破し得なかつた所を、大膽明白に喝破したのである、是は一八四〇年彼が卅二歲の時であつた。

△「財產は贓品也、資本家は盜賊なり」てふ一語が如何に社會を驚かしたか、如何に後代の思想的革命に向つて大に與つて力あつたことは、言ふまでもあるまい、彼は初め其貧者の階級に屬することを恥ぢて居たが、多數人民の苦痛を見るに從つて、羞耻の念は、憎惡憤怒と變じた、そして、學問を積むに從つて、憎惡憤怒は輕侮と變じを、彼は猛烈な言語を以て現社會の制度を攻擊したのであるが、明自冷靜なる頭腦で、其論理を一貫して居る。

△一八四三年に七千法の負債を背負て印刷業を止め、更に運輸業を始めた、其間には多くの著述に從事して一八四八年の革命には、少しも關係しなかつた、彼は現在の國家政府の組織に全然反對なので、何の黨起り何の派倒れるも、五十步百步の差のみだと高をくゝつて、別に社會主義の弘通に力めたのである。

△同年の四月に「平民代表者」と題する新聞の記者となり、セーヌ州より大多數で議會に選出された、議會に於て彼は總ての諸黨派の提案に反對して、激烈に戰ふた、然らば彼自身の經綸は果して何であつたか。

△彼は七月三十一日に信用組合國民銀行とを合せたやうな一案を提出した、彼は此組織に依て多數の勞働者に資本器械を供給するの目的であつた、併し是は二に對する六百九十一票の多數で否決せられた、是に由て當時如何に彼が孤立であつたか、又如何に彼が成敗を省みずして猛進したかの情狀が分るのである、議會で否決されたので彼は私立銀行を起したが、うまく行かないで、數ケ月にして倒れた。
△續て其新聞は發行禁止の命を受けた、彼は名を改めて二回まで發行したが皆禁止され、最後に彼自身は三ケ年の禁錮に處せられた、禁鋼中にも多くの著述をした。

△一八五一年に出獄して妻を娶り子を生だ、良人としても父としても、彼は實に模範的人物であつたといふことである、次で一八五八年に、大に當時の宗敎を罵つた著述をして、出版後八日にして盡く取押へられ自分は四百法の罰金と三ケ年の禁錮の宣吿を受けたが、今度は處刑を受けずに白耳義に出奔した、一八六〇年に赦されて還り、一八六五年に病没した。

△ブルードン氏の財產盜賊は云ふ迄もなく、現時の社會主義者と同じく、資本私有の制度を攻擊したもので今の資本家が逸居して他人の勞働の結果を掠奪するのを激烈に攻擊して居る。

△彼は資本家制度に反對したのみならず、更に古代の共產制度に反對した、彼の說に依れば、前者は强者が弱者を掠奪するの制で、後者は弱者が强者を掠奪するのだ、執れも不公平を免れぬ、故に萬人に土地資本器械の生產機關を公平に使用せしめ、絕對に自由の地位に立しむベし、そして其勞働の功果を互に交換せしむれば足るといふので、個人自由主義から起つた相互扶助の方法を主張した。

△だから其政治に就ても、彼は無政府を主張した、人の上に人ある可らず、政府法律は一切害惡の根源なり、社會の調和は、唯だ學術と統計に依るべし、內國には內國の統計局を置き、萬國には萬國の統計局で、一切生產分配を按排し、且つ社會の進步は學士院で學術數理で割合すべきである、一切の階級、壓制、束縛等を脱して、唯だ眞理の行はれるのを理想としたのである。

△彼が社會改革の實際的方法の第一着手としては、一大國民銀行を起し支店を全國各地に置き、勞働の資本器械の給與と、富の交換分配のことに任ぜしめ、資本家、地主の利益の壟斷を防禦し、自然に是等座食の階級を絕滅せんとするのである。

△斯く生產分配の方法に就き、個人的絕對自由に任じて、政府組織を不必要とする、プルードン氏の無政府主義には贊成し難き點は甚だ多い、但だ彼が古來の共產主義から一步を進めて、世界の思想界に紀元を劃した功績は、爭ふ可らざる所である。

(明治三十七年五月二十二日、週刊『平民新聞』、第二十八號所載)



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