2020年5月13日水曜日

辞官納地〜鳥羽伏見の戦い1868


細川ガラシャ ― 完璧な死が叶ってしまった悲劇『英雄たちの選択』 ... 今日は『英雄たち の選択――明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭け~』をみて得た、知って ... そして結局、慶喜は静観することを選びました。 ... 自身の辞官納地まで吞んだ人ですから、他人の廃藩置県なんてちゃっちゃとやっちゃいそうな気がするんですけど。
鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい、明治元年/慶応4年1月3日 - 6日(1868年1月27日 - 30日) )は、戊辰戦争の初戦となった戦いである。 戦いは ...

選「明治維新最後の攻防〜西郷・大久保“革命”への賭け〜」

王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦いまでの25日間。西郷隆盛と大久保利通は、巻き返しを図る旧幕府勢力としれつな権力抗争を展開。明治維新を導いた最後の攻防に迫る 慶応3年12月9日。薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通は、王政復古のクーデターを断行。しかし、その後、新政府を徳川慶喜主導のものにしようともくろむ土佐・越前などの諸藩が勢いを増し、慶喜排除を掲げた西郷・大久保らは孤立。形勢によっては旧幕府側が実権を握る可能性もあった。西郷と大久保は、一体どうやって逆転できたのか?クーデターから鳥羽伏見の戦いまで緊迫の25日間に焦点を当て、明治維新を導いた最後の攻防に迫る


慶喜徹底排除は王殺しか―『英雄たちの選択』をみた後思ったこと その①モヤモヤが残る

こんにちは、兼子です。

先月9月
27日に『英雄たちの選択――明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭け~』が放送されました。

とにかくよくわからない明治維新前夜ですが、最新の学会の成果をもとに「一番わかる鳥羽伏見の戦いへの過程」(by磯田道史先生)を伝えるというものでした!

そもそも
鳥羽伏見の戦い、つまり武力討幕は、王政復古のクーデターとセットだったわけではなく(後世からは一連の流れに見えるが)、計画的だったわけでも、必然だったわけでもない、とのこと。

番組冒頭で「だいたいみなさん不思議だと思いません? 慶喜は大政奉還したのに、なぜ武力で倒されたのか?」と磯田先生が疑問提示されました。

確かに。慶喜が大政奉還したのに王政復古のクーデターをやり、さらに鳥羽伏見の戦いで武力討幕と。。この理不尽なまでのダメ押しの連打、、酷いですよね!!(ワタシ佐幕派ですm(_ _)m)

そこで番組では、最新の発見も交え、いままであまり語られて来なかった王政復古のクーデターから鳥羽伏見の戦いまでの25日間を検証していました。

そこで明らかにされた意外な事実とは、天皇を握ってなお、大久保利通と西郷隆盛が新政府内で孤立し追い詰められていたということです。岩倉具視と西郷・大久保は新政権を握ってイケイケだったわけではないと。

そもそもこのクーデターは「事前公開クーデター(by磯田先生)」で、慶喜すら事前に知らされていたというのです。強固派の会津・桑名藩には漏らされず、越前の松平春嶽と土佐の山内容堂には慶喜新政府入りという偽りの確約をして実行されたのだとか。

「慶喜は排除しないけどクーデターはやる」という嘘が通る理由がわかりませんが、ここにも1時間番組ではスルーするしかなかった細か~い攻防があったのでしょう。

とにかくこの松平春嶽という人がそうとう西郷・大久保・岩倉と慶喜の間で動いたようで、慶喜に対してはクーデター計画は静観することを勧め、大久保・岩倉に対しては強固な慶喜の辞官納地の要求をトーンダウンさせ、尾張とともに仲介に立って慶喜自ら返上を申し出ることを説得し、慶喜の新政府入りへの道を残すことに尽力しました。

大政奉還に始まって、どんな要求を突き付けられても恭順を示す慶喜。新政府内でも “
薩摩と薩摩寄りの公家” 対 “それ以外全員(=慶喜寄り)” という構図だったというのです。翌慶応4年1月1日には慶喜の新政府入りが確定しました。

しかし、鳥羽伏見の戦いが起きてしまいます。その初日の勝利で形勢が逆転してしまった。ついに西郷・大久保・岩倉は慶喜を賊とすることに成功したわけです。戦いの発端となった旧幕府軍の京都への進軍の評価は様々あるようですが、ともかく番組が結論づけていた通り、大久保と岩倉の執念勝ちでしょう。

そこはすごくわかりました。意外なほど劣勢だったところから、奇跡の挽回を果たしたってわけですね。

番組ゲストの社会学者・大澤真幸先生曰く「革命が成功するには常に “もっと” と言い続けることが重要。とりあえずは個別のイシューがある。それだけなら解決も妥協も出来てしまう。これで得るものを得たからいいってなっちゃうと、事は起こらない」

なるほどまさに。新政府側の連打はそれですね。

ただ私にはこの場合の革命と権力闘争の違いがよくわからないのです。。(-_-;) 

番組にビデオ出演された歴史学者の三谷博先生は、はっきり大久保たちの構想を説明されています。「一君万民の体制を作ろうというのが理想だったんでしょう。挙国一致の体制を作れば西欧からの圧迫も跳ね返すことができる。二人(西郷と大久保)は将来像を共有していたとみられる」
 そして徳川家の権力を残せば
「天皇の下、慶喜が新たな政権の首班になる。大名も召集して公儀を尽くして新しい政権を運営するとなると、大久保・西郷の考える大改革は発現しにくくなる」とのことです。

慶喜が新政府にいては真の改革にならない、ということを大久保たちは危惧した、ということなんですよね? でもですね、、専門家に楯突くつもりは毛頭ないのですが、なんでこれが権力闘争と呼ばれず革命となるのか、そこが歴史を聞きかじるだけの佐幕派素人にはどうにもよくわからないのです(~_~;)

慶喜が開明的な人だったというのは万人の認めるところと思いますが、その慶喜が新政府にいたら、そんなに日本の危機だったのかなあ?とどうしても思ってしまうのです。自身の辞官納地まで吞んだ人ですから、他人の廃藩置県なんてちゃっちゃとやっちゃいそうな気がするんですけど。。

私は慶喜が新政府入りから徹底排除されたことについて長年わだかまりを感じていたのですが、
昨年末にNHKで放送された『決戦! 鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間』(2017年12月30日放送)をみて、敵前逃亡したんだし、新政府に参加できなかったのも致し方なしか、というところで自分なりにけりを付けていたのです。(よろしければご一読ください⇒やはり西郷と真逆⁉ 『決戦!鳥羽伏見の戦い 日本の未来を決めた7日間』をみて~)

しかし今回『英雄たちの選択』をみて、「よくわかりましたっ」というよりは、新政府三人組がますます黒く思えてモヤモヤが復活してしまったのでした。

その②に続きますm(_ _)m

慶喜徹底排除は王殺しか―『英雄たちの選択』をみた後思ったこと その②「王殺し」の記事を読んで・・

こんにちは、兼子です。

今日は、昨日投稿した慶喜徹底排除は王殺しか―『英雄たちの選択』をみた後思ったこと その① モヤモヤが残るの続きです。

先月9月27日放送の『英雄たちの選択――明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭け~』をみて、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視3人組の徳川家への仕打ちに怒りがぶり返してしまった私は、なんとなくモヤモヤしておりました。

私のモヤモヤの元はふたつの疑問です:
① 慶喜が新政権にいたら本当に日本の近代化は遅れたのか? そして植民地化の可能性が高まったのか?
② 西郷・大久保・岩倉の動機は本当に革命なのか? 自分達が権力握りたかっただけとどこが違うのか?

しかしどんなにモヤモヤしたところで、自分で一次史料を調べることなどできません。なのでただ根に持つしかありません。

そんなある日、朝日新聞の土曜版に「組織の衰退防いだ“
王ごろし”」(山折哲雄著、be on Saturday9面、2018年10月6日付)という記事が載っていました。これがどうにも、維新前夜の慶喜への仕打ちに重なってみえたのです。

それは、初代民博(国立民族学博物館)館長だった梅棹忠夫先生が退官の折に書かれたエッセーを基に、宗教学者の山折哲雄先生が「定年制」と「王ごろし」について考察されたエッセーです。

以下長い抜粋となります:
 もう25年前になるが、いまだに忘れられない記憶にのこっていることがある。1993年、国立民族学博物館(民博)館長の梅棹忠夫さんが3月31日をもって退官された。・・・
 退任の年、氏は満73歳を迎えたが、その年の6月の朝日新聞夕刊に「制度としての退官」というエッセーを寄せている。当時私はその文章を読んでつよい衝撃をうけた。なぜなら氏はご自身の「退官」を、民俗学でよく用いる「王ごろし」の現象になぞらえて語っていたからだ。
・・・
「王ごろし」とはアフリカその他各地の諸民族にみられる慣行で、・・・それは「神聖なる王の弑逆」と称され、さまざまな変形はあるけれども、基本的事実は、王がすこしでも衰弱のきざしをみせると、容赦なく王を殺害するという点にある。王と王国は一体的なものと考えられているから、衰弱した王を殺して元気な新しい王を立てて王国全体の衰弱を食いとめる。なかには年限を区切って、王位にあった者を任期満了にして殺害する例もある。
 氏は、「わたしはまさにこれではないのか。ころされこそはしなかったけれど、任期満了にともなって、王位を追われたのである。わたしには衰弱の自覚はないが、高年齢であることは否定できない」と綴っている。
・・・組織(王国)の衰退と崩壊を未然に防ぎ、そのエネルギーの回復を願うためには、王は弑逆されなければならない。流血の惨をもたらさずに「制度」として退官を強制するのは、まさに文明の知恵であろうと氏はしめくくった。

* * *引用終わり* * *



西郷と大久保が慶喜を亡き者にする可能性まで真剣に考えたのか、その辺はよく知りませんが、「徳川家」を完膚なきまでに叩きのめし、ほぼ抹殺しようとしていたことは間違いありません。

その動機の説明にいまひとつ納得がいかなくて、どうしても「やっぱり権力欲しかっただけなんじゃないの~?」としか思えなかった。

けれどこの「王殺し」という、半普遍的な慣行を知ってみると、なんか3人組の執念がわかった気がする。。

新政府三人組の、慶喜への仕打ちはあまりに理不尽にみえるし、その動機も私にはスッキリ理解できない。だから「理性の慶喜」対「執念と怨念の三人組」にみえる(すみません佐幕派なので)

しかし王殺しが「アフリカその他各地の諸民族にみられる慣行」というほどに一般的ならば、そこには組織にとっての合理性があるに違いない。

そして特に西郷は、そういう感覚的なものを持っていた気がする、、なんとなくですが。以前
『英雄たちの選択』で、西郷は勝海舟に共感してしまっていて、新政府内で弱腰と批判されていたといってました。それでもこの時期まではあくまでも大久保と行動を共にした。そこには、そういう感覚からくる切迫感に支えられた面もあったのではと思えてきました。

大久保や岩倉は西郷より多少理に勝っていたと思いますが、その思想の根の一部にはやはり「王殺し」という普遍的な合理性が、意識的にしろ無意識的にしろあったのかもしれない、とも思えます。

そうすると「慶喜VS三人組」の枠組みでは理不尽だったものが「新しい国家作り」という枠組みでは理にかなっていると。。あ、だからみんなそれをいってたの? 頭固くてすみませんm(_ _)m

とにかく~(;'∀')きっと三人組は慶喜を「弑逆」することも辞さなかった。恐るべき有能さを持つからこそ逆に「衰退した組織の王」である慶喜は絶対に葬られねばならなかった・・・それは仕方のないことだったのかもしれないんですね。

一方慶喜は、どんなに腹に据えかねても最後まで冷静に振舞い、恭順を貫くことでそれを「制度としての退官」にした。そのことでものすごく多くの人命が失われずに済んだことは間違いないですよね。

っか~泣ける。。・゚(゚`Д)゙

というわけで、ちょっとスッキリしてしまいました。
でもまだその③に続きます。








慶喜徹底排除は王殺しか―『英雄たちの選択』をみた後思ったこと その③ 新情報についていくつか・・

こんにちは、兼子です。

今日は『英雄たちの選択――明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭け~』をみて得た、知ってよかった新情報についてです。(個人的な感想なので、すでに常識となっていることもあるかもしれません)


西郷・大久保と江戸薩摩藩邸の浪士たち
徳川慶喜は鳥羽伏見の戦いでとうとう朝敵とされ、失脚が決定的となってしまいましたが、その戦いの元凶は、江戸薩摩藩邸にかくまわれていた浪士群の、江戸・関東一帯での乱暴狼藉でした。

いままでこれは
武力討幕のきっかけを作るための西郷・大久保らの謀略と考えられてきました。しかし近年、西郷が藩の重役に宛てた手紙が発見され、そこには薩摩藩邸の焼き討ち事件を聞いて「大いに驚愕している。残念千万の次第書かれていました。

番組ゲストの歴史学者・家近良樹先生は「これは本当の気持ちを書いている。抑えようとしていたが暴発してしまった。これはひいては新政府の正当性の問題につながる」と仰っていました。確かにそうですよね! 絶対的に卑怯で酷いですもんこれは。私だってこれだけでもかなり薩摩に腹立ってますから。

でもこれが西郷たちの指図ではなかったどころか対策に苦慮していたというのなら、話が違ってきます。わだかまりもかなり解けますね!(ただし出来れば誰が積極的に浪士たちをかくまっていたのか、あるいは首謀者がいたのかなど知りたいというのはあります。西郷が裏で操っていたのでなければオッケー‼というわけではないので)

手紙で西郷は「京都でははかばかしくない。少しでも道がつけば帰国したい」とも書いていたそうで、後世からみるとこの頃はすべて思いのままことが運んでイケイケだったのかと思いきや、ほとほと嫌になっていたというのが実情だったのかもしれないんですね。


慶喜は怒っていた
鳥羽伏見の戦いの発端となった旧幕府軍の京都への進軍(慶応4年/1868年1月2日)。これを慶喜が許した(命じた?)ことについて――

家近先生「生涯取り返しのつかないミスをした。さすがに頭にきてる。そりゃそうでしょう。大政奉還した自分を新政府から外し、江戸の薩摩藩邸で悪さの限りをつくして、その中心は西郷・大久保だということで(当時からそういう解釈だったということか?)それで怒りを抑えきれる人間はまずいないと思いますよ。結局会津・桑名藩を先駆者として送り込んだ。それが決定的なミスですね」

大竹文雄先生(行動経済学者)「私はちょっと家近さんと違う意見を持ってまして。合理的に判断して多分そうすれば戦いにはならないだろうと慶喜は考えたんだと思う。普通に考えると、1万5千動かしたら負けると思って戦いはやってこない。これで戦いを避けて自分の思う通りのストーリーが描けるはずだと。ところが大久保の方は勝てるとしか考えていない。客観的な確率ではなく、自分は勝ってこういう世の中を作るんだという信念で動くという状況になっていた」

このお二方の意見は、第三者からみればどちらにより真実味を感じるとかはなくて、そのすべてがあったのだろうと思います。

ただ江戸・関東の状況に関して、旧幕臣たちが怒り心頭だったのは当然として、慶喜はわりと我関せずだったという印象をいままで私は持っていました。しかし歴史学者である家近先生が「さすがに頭にきてるんですよ」と言われたので、信じます!よかったです!嬉しいです!これだけで番組をみた甲斐があったってもんです(涙)


禁門の変の教訓
慶喜も知らされていたという王政復古のクーデター。これを聞いたとき「慶喜は青ざめたという記録が残っている」(by家近先生)そうです。そして結局、慶喜は静観することを選びました。

これについての家近先生のご見解は「禁門の変(元治元年/1864年、薩長対会津の武力衝突。戦禍で京都市中約2万8千戸が焼失した)の経験値が大きかったと思います。京都の町が燃えて、天皇以下、大変な苦労をした。その再現だけは避けたいというのは、これはものすごく冷静な、いい判断だったと思います」

なるほどです!! そしてこれを聞いて、私の中ではさらにつがってしまいました!! それは鳥羽伏見の戦いからの、慶喜の逃亡です。

慶喜の敵前逃亡・・・これほど真意を図りかねる行動もそうないのではないでしょうか? この状況でこれ以上難しい決断はないと思いますが、その理由がわからないし、そもそも普通は思いつきもしないでしょう。部下を置き去りにして密かに敵前逃亡するよりは、戦って散るとか、自決するとかの方が、
一応現代人である私の感覚からいっても余程ラクに思えるくらいなのにです。

しかし禁門の変の二の舞だけは避けたいという非常に強い思いを軸に考えるならば、流れで一度は開戦してしまったものの、戦禍を長引かせず拡大させないために戦線離脱したということが考えられないかと思ったのです。

新政府に開戦のきっかけを与えてしまった慶応4年1月2日の旧幕府軍による京への進軍について、後に慶喜は部下に対して「説得をあきらめ」たのが生涯の失策だったと書いています。例えこの言葉を大幅に割引するにしても、何万もの旧幕臣たちがいきり立っていたのは間違いありません。

戦いの始まる前から部下たちを抑え切れえない状況だったものを、戦が始まり、まだ勝機も残る段階で抑え切れるものではないでしょう。しかしこのまま進めばあまりに被害は甚大となる。結局慶喜は自分が戦って散ればいいという問題ではないという結論に到ったのだと思います。兎にも角にも日本が植民地化するか、近代化するかギリギリの瀬戸際で、背負っているものが大き過ぎた。

ならば自分一人が自決すればいいかと言えばそれも違う。自決などすれば騒ぎが収まるどころか旧幕府軍に狂気が生まれてしまう可能性が高い。だからこのとき、戦禍の拡大阻止を最大の目的とするならば、どういう形であれ生身の自分を抹殺することには意味がなかった。

そこで唯一浮かび上がってきたのが実ではなく名を捨てること、つまり「徳川慶喜」というブランドの無効化だったのではないでしょうか? これは死んでしまっては出来ません。

確かに極秘逃亡はあまりにひどい。命をかけていた兵士たちを放り出したのですがから。これほど兵士たちを愕然とさせ、士気を下げることはない。兵士たちには本当に気の毒だし、私もそのことが本当に不思議で残念だった。しかし結果として、鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍の圧倒的な兵力が温存されたまま早期終結しました。だから京都周辺はさらなる大惨事を免れることが出来たといえないでしょうか? 

結局このあと戊辰戦争として戦いが続いてしまいましたが、これはもう、慶喜が寺で謹慎しているのに東征軍を派遣するという、、そしてギリギリのところで辛うじて江戸城だけは無血開城したもののという、、もう完全に新政府側の問題だと思うんでそれはここでは置いときます。


まとめ
いま思うのは、慶喜は日本の近代化に貢献した最大の功労者の一人ではないかということです。近代化への慶喜の功績は過小評価されていると言えるのではないかと。

京、大坂、江戸から東北、北海道まで、慶喜が本気で戦うつもりだったなら、喜んで従った人は百万単位か、それ以上だったかもしれません。そんなことになっていたら、その戦禍は想像を絶します。
日本は欧米列強に付け入られ、近代化どころかよくて半植民地化状態だったかもしれません。

普通の人が将軍だったら、それを避けられたかどうか。あくまで好戦的な新政府に対して、最後の将軍が慶喜だったからこそそれは最小限にとどめられ、比較的スムーズに近代化が実現したのではないでしょうか? それは想像以上に、慶喜の堪忍袋の緒に依っていたのではないでしょうか?

その緒の源は、慶喜の類まれな能力と超人的な合理性です。私は長いこと、ずば抜けて高い能力の人が最後の将軍だったというのは気の毒だった、もったいなかった、と思ってきましたが、そうではなくて、それこそ神の采配だったのではないかと思い到りました。

勝負は時の運というように、戦いには誰にも勝つチャンスがあります。でも慶喜のような負け方の出来る人間がどれほどいるのか? 戦わずして自分の権威も、権力も、武力も投げ打つことの出来る者がどれだけいるでしょうか? 普通いないですよ。だから泥沼化して全国内戦状態ですよ普通は。残念ながら、いまも私たちはそれを毎日国際ニュースでみていますよね? だからそれを避けることが出来たのは当たり前のことではなく、実は非常に幸運なことだった。日本が世界に冠たる急速な近代化を成し遂げられたのは、誰かが勝ったからじゃない。負けを背負った側の負け方だと私は言いたい。

しかしどれほど合理的な人だって、それは
人より感情の量が少ないということではありません。あまりに過酷な役回りですよね。そこをすごく汲んでいたのが勝海舟だったのかなと思います。

いままで勝が慶喜の名誉回復に半生を捧げたことが少し不思議でした。ずば抜けて切れ者同士の二人が、特に気が合ったとはちょっと素直に思えない。あとは封建制の主従関係の名残りか、自身の無念を晴らすためか、くらいしか思いつきません。でもそれらも勝のイメージからいっていまいちしっくりこない。でも、慶喜の無念と、完全に影に隠れてしまった偉大な功績を誰よりも理解し評価していたというのなら納得がいきます。勝自身、江戸の戦禍を回避した功労者ですしね。

勝の長年の努力が実り、慶喜が晩年明治天皇に謁見して名誉回復出来たことには救いがありますね。また慶応4年当時まだ15歳だった明治天皇にも、思うところが多々あったのではないでしょうか。慶喜の積年の苦労をねぎらったというのは、セッティングされた形式上というよりも、心底からの真情だったのではと思えてなりません。


長くなりましたが以上です。
ご訪問くださり、ありがとうございました。




細川ガラシャ ― 完璧な死が叶ってしまった悲劇『英雄たちの選択』 ... 今日は『英雄たち の選択――明治維新 最後の攻防~西郷・大久保”革命”への賭け~』をみて得た、知って ... そして結局、慶喜は静観することを選びました。 ... 自身の辞官納地まで吞んだ人ですから、他人の廃藩置県なんてちゃっちゃとやっちゃいそうな気がするんですけど。



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