第二十章
自由な国家体制では、誰にでも、考えたいことを考え、考えていることを口にすることが許される、ということが示される
[一]《もし、心に命令することが舌先に命令するのと同じくらい簡単だったら(1)、どんな人でも堅実な支配を行えただろうし、どんな支配体制も暴力的になることはなかっただろう。その場合、誰もが支配者たちの一存に基づいて生きることになるし、彼らの取り決めだけに基づいてものごとの真偽、善悪、正不正を判断することになるからだ。
しかし、こんなことは決して起こりえない。既に第十七章の冒頭で注意しておいたように、ひとの心が完全に他人の権利の下に置かれることなど、決してありえないのだ。自由に考えをめぐらせ、ありとあらゆるものごとに判断を下すのは、ひとの自然な権利であって、この自分の自然権あるいは能力を他人に譲り渡すことなど、いくら強制されても誰にもできないからである。》
このことから、ひとびとの心の中にまで踏み込んでくる支配体制は、暴力的支配体制ということになる。何を本当のこととして大切にするべきか。何を偽りとして拒むべきか。さらには、どのような考えによって一人一人の心が神への奉仕へと動かされるべきか。もし元首が臣民たち一人一人にそんなことまで指図しようとするなら、その元首は彼らに不正をはたらき、彼らの権利を横取りしていると見なされることになる。そうしたことは各人それぞれの権利の下に置かれていて、この権利を手放すことなど誰にもできないからである。たとえ本人が
[四]《このように、ものごとを自分で判断する自由、考えたいことを考える自由は、誰も放棄することができない。ひとは誰でも自分自身の思考活動の主人であり、これは最大の自然の権利によってそうなっているのである。だとすると結論として、いくらひとびとがばらばらで相容れない考えをもっていても、これを統制しようと試みてはいけないことになる。もしひとびとを統制して、至高の権力の持ち主たちの指図にそぐわないことは何一つ話さないようにさせようとするならば、間違いなくとても不幸な結果が生じるだろう。民衆は言うまでもなく、きわめて人生経験豊かな人たちでさえ、自分の口を閉ざすことはできないものだからだ。》
たとえ黙っている方がよい場合でも、ひとは自分の思うことを他人に打ち明けてしまう。ひとは誰でもそういう悪癖を抱えているのである。したがって、一人一人に思うことを言ったり説いたりする自由を認めようとしないなら、その支配体制はきわめて暴力的になるだろう。これに対し、こうした自由が一人一人に認められるなら、その支配体制は穏健になるだろう。
しつこいようだが、国とは人間を理性的存在から野獣や自動人形におとしめるためにあるのではない。むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある。だとすると、《国というものは、実は自由のためにあるのである。》
[七]さらにいえば、国を作るには欠かせないことが一つあった、ということも既に見てきた。
[十]正直に言っておくと、たしかに、こうした自由から不都合が生じる時もある。しかし、不都合が何一つ生じえないほど賢く組み上げられた制度など、かつて一度でも存在したことがあったろうか。《すべてを法律によって定めようとする人は、悪癖を正すよりもむしろ呼び起こしてしまうだろう。禁じるのが不可能なことは、たとえそこから往々にして害悪が生じるとしても、やはり認めるしかないのである。たとえば見栄やねたみや貪欲や泥酔や、その他似たようなことからどれほどの災いが生じることだろうか。にもかかわらず、こうしたことは大目に見られている。これらは本当に悪癖だけれども、法律上の命令で禁じるのが不可能だからである。だとすると判断の自由は、なおのこと認められなければならない。こちらは間違いなく美徳であり、しかも抑圧することができないからである。》
《付け加えると、自由から生じる不都合といっても、それは(すぐ示すように)さまざまな統治機関の権威によって必ず避けられるような不都合である。また言うまでもないことだが、さまざまな学問や技能を発展させるためには、この自由というものが特に欠かせない。学問や技能を豊かに、かつ継続的に育むことができるのは、自由な、できるだけ先入見にとらわれない判断のできる人たちに限られるからである。
[十一]しかし、こうした自由を抑え込んでしまえると仮定してみよう。ひとびとを徹底的に縛りつけ、至高の権力の持ち主たちの取り決めに基づかないと何一つ口に出さないようにしてしまえる、と仮定してみよう。その場合でも、ひとびとが権力者たちの望まない考えを[ただ口に出さないだけでなく]何一つもたないようになるかというと、決してそうはならないに違いない。だとすると、ひとびとは来る日も来る日も本心と違うことを語ることになり、そしてその結果、国家体制において何よりも必要とされるはずの[国民一人一人の]誠実さが失われるだろう。忌まわしいへつらいと不誠実が育まれていった結果、ひとびとは騙し合いを始め、どんな好ましい習俗も崩壊に向かうことになるはずである。
実のところ、あらゆる人たちがあらかじめ決められた通りに語る、などということには到底なりえない。むしろ反対に、ものを言う自由を奪われようとすればするほど、ひとびとは一層頑強にそれに抵抗するのである。たしかに物欲まみれの人やへつらい好きの人、またこれ以外の形で心に弱さのある人は逆らわないかもしれない。金庫のお金をうっとり眺めたり、腹を一杯に満たしたりすることが、彼らの何よりの安らぎなのだ。しかしよい教育と非の打ち所のない生活習慣と美徳のおかげで、人一倍自由になっている人だったら、敢然と抵抗するに違いない。》
ひとびとは一般に、自分が本当だと思い込んでいる考えが犯罪視されたり、神や人間に対して道徳的にふるまう自分なりの理由が異端視されたりすることを、何よりも耐えがたいと感じるようにできている。もしそのような扱いを受けるなら、ひとびとはむしろ[そのような扱いを取り決めた]法律の方を拒絶し、[そのような法律を定めた]政府に全力で逆らおうとするだろう。そしてこのような理由で反逆をあおりたて、全力で不法行為を試みることを、見苦しいどころか最高に誠実なことと思うようになるだろう。したがって、人間本来の性質が明らかにこのようなものである以上、《ひとの考えをめぐって制定される法律は異端者ではなく自由人たちを念頭に置くことになり、悪人たちをこらしめるよりもむしろ誠実な人たちを怒らせるために制定されることになるだろう。》またそのような法律を維持しようとすれば、国に必ず大きな危険がもたらされることになるだろう。
[十二]さらに言ってしまうと、そうした法律は何の役にも立たないだろう。というのも、そこで有罪視された考えを健全なものと確信している人は、このような法律に屈服することができないからである。反対に、その考えを誤りとして斥けている人は、これを有罪視する法律を[自分たちへの]特権として受け取り、そのような法律[があること]をあまりにも勝ち誇るので、後に政府がこれを撤廃しようとしてもできなくなってしまうだろう。これに加えて、先に第十八章でヘブライ人たちの歴史物語から引き出してきた二番目の結論も参照してほしい(5)。
さらに言ってしまうが、そもそも物知り同士のさまざまな争いに政府が法律で片を付けようとした結果、教会内にどれほど多くの分派が生じたことだろうか。実際、法律や政府を味方につけて、世間の喝采を浴びながら敵対者を打ち破って名声を手にしてやろう、などという希望さえ持たなければ、ひとびとは決してあれほどの敵対心をもって張り合うことはなかったろうし、彼らの心があれほどの狂乱に駆り立てられることもなかったろう。
《これは理詰めで分かるだけでなく、さまざまな身近な実例(6)から、経験的にも分かることである。個人に何かを信じるよう命令する法律、また反対に、特定の考えを少しでも言ったり書いたりしないよう禁じる法律といえば、[わたしたちの身近なところでも]似たようなものがしばしば制定されてきた。こうした法律は結果的に、特定の人たちの怒り(7)[に駆られた迫害行動]を承認、というか追認することになってしまった。特定の人たちとは、自由な気質の持ち主を大目に見ることができない人たち、とある陰湿な権威を振りかざしては、反逆に流れがちな民衆の奉仕心を簡単に狂気に変え、望み通りの相手にけしかけられる人たちのことである。
[十三]しかしどうだろう。美徳を愛する人にしか破ることができない法律。国家体制を行き詰らせて、自由な気質の人に対する寛容さをもてなくしてしまう法律。そうした何の役にも立たない法律を制定するよりも、民衆の怒りや狂乱に歯止めをかける方がはるかに望ましいのではないだろうか。そもそも、ひとと違う考えをもっていて迎合することができないという[だけの]理由で、誠実な人たちが悪人として追放刑に処せられるなら、国家にとってこれよりも大きな災いが考えられるだろうか。》くどいようだが、何の悪事も悪行もしていないのに、自由な気質の持ち主だからという[だけの]理由でひとびとが国賊扱いされて死刑に処せられるなら、[国家にとって]これよりも破滅的な災いが考えられるだろうか。そこでは悪人たちにとっては恐怖の的でしかない処刑台が、忍耐と勇気のこの上ないお手本を見せるための美しい劇場となり、主権者への非難をひとびとの心に刻み込むのである(8)。
そもそも、自分の身の潔白を確信している人たちは、悪人たちのように死を恐れたり減刑をねだったりしない。彼らは恥ずかしいことをしたという後悔に心をさいなまれておらず、むしろ反対に、よき理由のために死ぬのは名誉あることであり、[悪行の報いとしての]刑に服するわけではないと考えているからである。彼らにとって、自由のために死ぬのは光栄なことなのだ。したがって、彼らが処刑される理由[=自由]は愚かで心の弱い人たちには分からず、反逆的な人たちには憎まれ、誠実な人たちには愛される。だとすると、彼らを殺すことによって一体どのような手本が示されるというのだろうか。[彼らの生き様を]見習うか、せいぜい[時の権力に]へつらう(9)こと以外に、そこから学べることなど何もないはずである。
[十四]《このように、へつらいではなく誠意が重んじられるためにも、また至高の権力の持ち主たちが最善の形で支配を続け、反逆者たちへの譲歩を迫られないためにも、判断の自由は必ず認められなければならないのである。》そしてたとえあからさまに違う考えや対立する考えを持っていても、ひとびとが仲良く暮らしていけるような統治が行われなければならない。このような支配のあり方こそ最善であり、不都合を被ることの比較的少ないあり方だということを、わたしたちは固く信じている。それというのも、これが人間の自然な性質に一番適したあり方だからである。
そもそも既に示した通り、(自然状態に一番近い)民主制の国では、みんなが共同の取り決めに基づいて行動するよう契約を交わすが、判断や思考活動はこの契約に含まれない。つまり、すべての人がぴったり同じことを考えるのは不可能だからこそ、ひとびとは契約を結んで、一番の得票を得た意見に取り決めとしての効力をもたせるようにしたのである。それでいて彼らは、そうした方がよいと思った時には一度決めたことでも廃止できる権限を、決して手放さなかった。このように、ひとびとに自分で判断する自由が認められなくなればなるほど、[その国は]一番自然な状態からどんどん離れていき、したがって支配のあり方もどんどん暴力的になっていくのである。
[十五]さらに言えば、たとえこうした自由を認めても、至高の権力が自らの権威だけを頼りにして回避できないような不都合は何一つ生じてこない。むしろこうした自由を認めるだけで、たとえあからさまに対立することを考えている人たちでも、危害を加え合わないよう簡単に抑え込むことができるのである。さて、こうしたことを確認するための実例は、わざわざ遠くに求めなくても、身近なところにいくつも転がっている。たとえばアムステルダムの町を取り上げるとしよう。この町はあらゆる民族が目を見張るほどの成長に身を委ねながら、こうした自由の実りを味わっている。この繁栄の極みにある国、この際立って優れた町では、民族や宗派を問わず、あらゆる人たちがきわめて仲良く暮らしているのである。誰かに貸付を行う時には、ひとびとは相手が裕福か貧乏か[=十分な返済能力をもっているか]、その人の普段の挙動が誠実か不誠実か[=詐欺をはたらこうとしていないか]だけを確かめようとする。その他[債務者となる人の]宗教や宗派のことは、彼らは少しも気にしない。裁判官の前で訴訟の勝敗を争う場合(10)、こうした要素は全く助けにならないからである。またどれほど憎まれている宗派でも、信者たちは(誰にも危害を加えず、誰に対してもその人のものを認め、誠実に暮らしている限りは(11))政府機関の公的な権威や対策によって保護されている。
反対に、かつてレモンストラント派と反レモンストラント派の人たちが宗教上のことで争い、これを政治家たちや各州の機関があおり始めた時(12)には、結局宗派分裂に行きつくまで争いは収まらなかった。その当時のたくさんの実例から判明したように、宗教にかかわる争いは、法律を作って収めようとしても収められるものではないのである。ひとびとは[自分たちの考えが公認されなかった場合には]そうした法律によって正されるよりもむしろ激怒するか、または[自分たちの考えが公認された場合には]そうした法律からやりたい放題のお墨付きを引き出そうとするだけなのだ。さらに言えば、宗派の分裂は真理を見極めようとする強い熱意からではなく(この熱意があれば朗らかで穏やかな人が出来上がるはずだから)、相手を支配しようとする強い欲望から生じるということも明らかになったのである。
《こうしたことから昼間の光よりも明白に分かるように、宗派分裂に至るのは、基本的に知識人だけにあててものを書き、理性だけに支持を求める著作家たち自身のせいではない。むしろ他人の書いたものを罵って、その作者たちに厚顔無恥の民衆を無法にもけしかけようとする、そのような人たちこそが分裂の仕掛け人なのである。さらに言えば、自由な国家体制においては、抑圧できないはずの判断の自由をそれにもかかわらず根絶したがる人たちこそが、実は国を乱す張本人なのである。》
[十六]これまでの所でわたしたちが示してきたことをまとめておく。
一.ひとびとから彼らが思っていることを口にする自由を奪い取るのは不可能である。
二.この自由をひとびとに認めても至高の権力の持ち主たちの権利や権威が損なわれることはないし、この自由をひとびとが持ち続けてもそうした[主権者たちの]権利が損なわれることはない。こうした自由からお墨付きを得たと勘違いして、何かを権利と称して[勝手に]国家体制に持ち込んだり、既定の法律に反する活動を行ったりしなければよいのである。
三.ひとびとがこの自由をもっていても国の平和は乱されないし、この自由から何か不都合が生じるとしても、それは簡単に解消できるようなことばかりだろう。
四.ひとびとがこの自由をもっているからといって、道徳心が損なわれることもない。
五.思弁的なものごとについて法律を制定しても、まったく役に立たない。
六.最後になるが、既に示したように、この自由を認めても国の平和や道徳心や至高の権力者たちの権利は損なわれない、というだけではない。むしろこれらすべてを損ないたくなければ、この自由を認めなければならないのだ。というのも、もし反対にこの自由をひとびとから奪おうとするならば、そして罪を犯しうる唯一の存在である意思ではなく、ただの意見を裁判にかけるならばどうなるだろうか。そのような所では、誠実な人たちは殉教していくように見えるだろう。彼らの死にざまは他の人たちを恐れさせるよりもむしろ激怒させ、憐れみへと駆り立てるだろう。[政府や権力者たちへの]復讐心に駆り立てることさえあるかもしれない(13)。《また、よい習わしや信頼関係は台無しにされ、卑屈な人や不誠実な人が[社会の中に]育まれ、法にたてつく人たちが勝ち誇ることになるだろう。彼らの怒り[にまかせた迫害行動]に追認が与えられ、支配権の担い手たちが彼らの教えの信奉者となったことになるからだ。そして彼ら自身はそうした教えの解釈権を握っていると見なされるわけである。これにより、彼らは至高の権力者たちの権威や権利を横取りすることさえためらわなくなり、恥知らずにも自分たちこそが神から直接選ばれた人間であり、自分たちの決めたことこそ神の取り決めで、これに対して至高の権力の持ち主たちの決めたことは人間同士の取り決めにすぎないなどと称するようになる。こうして彼らは、権力者たちの取り決めを神の取り決め、つまり自分たちの取り決めに従わせようとするのである。》以上すべてが国家体制の健全さとまったく両立しえないことは、誰にでも分かるだろう。
[十七]このため以前第十八章で出した結論(14)を、ここでもう一度確認しておこう。道徳心や宗教[心の有無]は、実際に[その人が]隣人愛や公正をわきまえた行動をとっているかどうかだけで判定しなければならない。また宗教上のことであれ世俗のことであれ、至高の権力の持ち主たちはひとびとの活動を取り仕切る権利しかもたず、それ以外のことは一人一人が考えたいように考えてよいし、考えていることを述べてよいと認めなければならない。国家体制にとってこれ以上に安全なことはないのである。
[十八]以上をもって、この論考でわたしが取り上げようと決めていたことはすべて扱い終えた。ただ最後に、これだけははっきり断っておかなければならない。わたしがこの論考の中で書いたことは、ひとつ残らず、わが祖国の至高の権力の持ち主たちの検証と判断に喜んで委ねたい。つまり、もしわたしが言ったことの何かが祖国の法律に反しているか、またはみんなの安全の妨げになると判断された場合、それは言わなかったこととしていただきたい。わたしも人間だから、誤ることもあると自覚している。ただそう簡単に誤らないための細心の配慮は重ねてきたし、また特に、何を書くのであれ、祖国の法律や道徳心やよき習わしと完全に対応するよう配慮してきたつもりである。
Tractatus theologico-politicus/Caput XX - Spinoza et Nous
http://spinozaetnous.org/wiki/Tractatus_theologico-politicus/Caput_XXTractatus theologico-politicus/Caput XX - Spinoza et Nous
《Si aeque facile esset animis, ac linguis imperare, tuto unusquisque regnaret, et nullum imperium violentum foret : Nam unusquisque ex imperantium ingenio viveret, et ex solo eorum decreto, quid verum, vel falsum, bonum, vel malum, aequum, vel iniquum esset, judicaret. Sed hoc, ut jam in initio cap. XVII. notavimus, fieri nequit, ut scilicet animus alterius juris absolute sit; quippe nemo jus suum naturale, sive facultatem suam libere ratiocinandi, et de rebus quibuscunque judicandi, in alium transferre, neque ad id cogi potest. 》Hinc ergo fit, ut illud imperium violentum habeatur, quod in animos est, et ut summa majestas injuriam subditis facere, eorumque jus usurpare videatur, quando unicuique praescribere vult, quid tanquam verum amplecti, et tanquam falsum rejicere, et quibus porro opinionibus uniuscujusque animus erga Deum devotione moveri debeat; haec enim uniuscujusque juris sunt, quo nemo, etsi velit, cedere potest. Fateor, judicium multis, et paene incredibilibus modis praeoccupari posse, atque ita, ut, quamvis sub alterius imperio directe non sit, tamen ab ore alterius ita pendeat, ut merito eatenus ejus juris dici possit : Verum quicquid ars hac in re praestare potuerit, nunquam tamen eo perventum est, ut homines unquam non experirentur, unumquemque suo sensu abundare, totque capitum, quam palatorum esse discrimina. Moses, qui non dolo, sed divina virtute judicium sui populi maxime praeoccupaverat, utpote qui divinus credebatur, et divino afflatu dicere, et facere omnia, ejus tamen rumores, et sinistras interpretationes fugere non potuit, et multo minus reliqui Monarchae, et si hoc aliqua ratione posset concipi, conciperetur saltem in monarchico imperio, at minime in democratico, quod omnes, vel magna populi pars collegialiter tenet; cujus rei causam omnibus patere existimo.
Quantumvis igitur summae potestates jus ad omnia habere, et juris, et pietatis interpretes credantur, nunquam tamen facere poterunt, ne homines judicium de rebus quibuscunque ex proprio suo ingenio ferant, et ne eatenus hoc, aut illo affectu afficiantur. Verum quidem est, eas jure posse omnes, qui cum iisdem in omnibus absolute non sentiunt, pro hostibus habere, sed nos de ipsarum jure jam non disputamus, sed de eo, quod utile est; concedo enim easdem jure posse violentissime regnare, et cives levissimis de causis ad necem ducere, at omnes negabunt, haec salvo sanae rationis judicio, fieri posse : imo quia haec non sine magno totius imperii periculo facere queunt, negare etiam possumus easdem absolutam potentiam ad haec, et similia habere, et consequenter neque etiam absolutum jus; jus enim summarum potestatum ab earum potentia determinari ostendimus.
《Si itaque nemo libertate sua judicandi, et sentiendi, quae vult, cedere potest, sed unusquisque maximo naturae jure dominus suarum cogitationum est, sequitur, in republica nunquam, nisi admodum infoelici successu tentari posse, ut homines, quamvis diversa, et contraria sentientes, nihil tamen nisi ex praescripto summarum potestatum loquantur; 》nam nec peritissimi, ne dicam plebem, tacere sciunt. Hoc hominum commune vitium est, consilia sua, etsi tacito opus est, aliis credere : illud ergo imperium violentissimum erit, ubi unicuique libertas dicendi, et docendi, quae sentit, negatur, et contra id moderatum, ubi haec eadem libertas unicuique conceditur. Verum enimvero nequaquam etiam negare possumus, quin majestas tam verbis, quam re laedi potest, atque adeo, si impossible [impossibile] est, hanc libertatem prorsus adimere subditis, perniciosissimum contra erit, eandem omnino concedere; quapropter nobis hic inquirere incumbit, quousque unicuique haec libertas, salva reipublicae pace, salvoque summarum potestatum jure, potest, et debet concedi, quod hic, ut in initio cap. XVI. monui, praecipuum meum intentum fuit.
Ex fundamentis Reipublicae supra explicatis evidentissime sequitur, finem ejus ultimum non esse dominari, nec homines metu retinere, et alterius juris facere, sed contra unumquemque metu liberare, ut secure, quoad ejus fieri potest, vivat, hoc est, ut jus suum naturale ad existendum, et operandum absque suo, et alterius damno optime retineat. Non, inquam, finis Reipublicae est homines ex rationalibus bestias, vel automata facere, sed contra ut eorum mens, et corpus tuto suis functionibus fungantur, et ipsi libera ratione utantur, et ne odio, ira, vel dolo certent, nec animo iniquo invicem ferantur. 《Finis ergo Reipublicae revera libertas est. 》Porro ad formandam Rempublicam hoc unum necesse fuisse vidimus, nempe ut omnis decretandi potestas penes omnes, vel aliquot, vel penes unum esset. Nam quandoquidem liberum hominum judicium varium admodum est, et unusquisque solus omnia scire putat, nec fieri potest, ut omnes aeque eadem sentiant, et uno ore loquantur, pacifice vivere non poterant, nisi unusquisque jure agendi ex solo decreto suae mentis cederet. Jure igitur agendi ex proprio decreto unusquisque tantum cessit, non autem ratiocinandi, et judicandi; adeoque salvo summarum potestatum jure nemo quidem contra earum decretum agere potest, at omnino sentire, et judicare, et consequenter etiam dicere, modo simpliciter tantum dicat vel doceat, et sola ratione, non autem dolo, ira, odio, nec animo aliquid in rempublicam ex authoritate sui decreti introducendi, defendat. Ex. gr. siquis legem aliquam sanae rationi repugnare ostendit, et propterea eandem abrogandam esse censet, si simul suam sententiam judicio summae potestatis (cujus tantum est, leges condere et abrogare) submittit, et nihil interim contra illius legis praescriptum agit, bene sane de republica meretur, ut optimus quisque civis; sed si contra id faciat ad magistratum iniquitatis accusandum, et vulgo odiosum reddendum, vel seditiose studeat invito magistratu legem illam abrogare, omnino perturbator est, et rebellis. Videmus itaque, qua ratione unusquisque, salvo jure, et authoritate summarum potestatum, hoc est, salva Reipublicae pace, ea, quae sentit, dicere, et docere potest; nempe si decretum omnium rerum agendarum iisdem relinquat, et nihil contra earum decretum agat, etiamsi saepe contra id, quod bonum judicat, et palam sentit, agere debeat; quod quidem salva justitia et pietate facere potest, imo debet, si se justum, et pium praestare vult : Nam, ut jam ostendimus, justitia a solo summarum potestatum decreto pendet, adeoque nemo, nisi qui secundum earum recepta decreta vivit, justus esse potest. Pietas autem (per ea, quae in praecedente Capite ostendimus) summa est, quae circa pacem, et tranquillitatem reipublicae exercetur; atqui haec conservari non potest, si unicuique ex suae mentis arbitrio vivendum esset; adeoque impium etiam est, ex suo arbitrio aliquid contra decretum summae potestatis, cujus subditus est, facere, quandoquidem, si hoc unicuique liceret, imperii ruina inde necessario sequeretur. Quinimo nihil contra decretum, et dictamen propriae rationis agere potest, quamdiu juxta decreta summae potestatis agit; ipsa enim ratione suadente omnino decrevit, jus suum vivendi ex proprio suo judicio, in eandem transferre : Atqui hoc ipsa etiam praxi confirmare possumus; in conciliis namque tam summarum, quam minorum potestatum raro aliquid fit ex communi omnium membrorum suffragio, et tamen omnia ex communi omnium decreto, tam scilicet eorum, qui contra, quam qui pro suffragium tulerunt, fiunt. Sed ad meum propositum revertor : qua ratione unusquisque Judicii libertate, salvo summarum potestatum jure, uti potest, ex fundamentis reipublicae vidimus. At ex iis non minus facile determinare possumus, quaenam opiniones in Republica seditiosae sint; eae nimirum, quae simul ac ponuntur, pactum, quo unusquisque jure agendi ex proprio suo arbitrio cessit, tollitur. Ex. gr. si quis sentiat, summam potestatem sui juris non esse, vel neminem promissis stare debere, vel oportere unumqumque ex suo arbitrio vivere et alia hujusmodi, quae praedicto pacto directe repugnant, is seditiosus est, non tam quidem propter judicium, et opinionem quam propter factum, quod talia judicia involvunt, videlicet, quia eo ipso, quod tale quid sentit, fidem summae potestati tacite, vel expresse datam solvit; ac proinde caeterae opiniones, quae actum non involvunt, nempe ruptionem pacti, vindictam, iram etc., seditiosae non sunt, nisi forte in Republica aliqua ratione corrupta, ubi scilicet superstitiosi, et ambitiosi, qui ingenuos ferre nequeunt, ad tantam nominis famam pervenerunt, ut apud plebem plus valeat eorum, quam summarum potestatum authoritas; nec tamen negamus, quasdam praeterea esse sententias, quae, quamvis simpliciter circa verum, et falsum versari videantur, iniquo tamen animo proponuntur, et divulgantur. Verum has etiam cap. XV. jam determinavimus, at ita, ut ratio nihilominus libera manserit. Quod si denique ad hoc etiam attendamus, quod fides uniuscujusque erga Rempublicam, sicuti erga Deum, ex solis operibus cognosci potest, nempe ex charitate erga proximum, nequaquam dubitare poterimus, quin optima respublica unicuique eandem philosophandi libertatem concedat, quam fidem unicuique concedere ostendimus. Equidem fateor, ex tali libertate incommoda quaedam aliquando oriri; verum quid unquam tam sapienter institutum fuit, ut nihl inde incommodi oriri potuerit? 《qui omnia legibus determinare vult, vitia irritabit potius, quam corriget. Quae prohiberi nequeunt, necessario concedenda sunt, tametsi inde saepe damnum sequatur. Quot enim mala ex luxu, invidia, avaritia, ebrietate, et aliis similibus oriuntur? feruntur tamen haec, quia imperio legum prohiberi nequeunt, quamvis revera vitia sint; quare multo magis judicii libertas concedi debet, quae profecto virtus est, nec opprimi potest. Adde, quod nulla ex eadem incommoda oriuntur, quae non possint (ut statim ostendam) authoritate magistratuum vitari, ut jam taceam, quod haec libertas apprime necessaria est ad scientias, et artes promovendum; nam hae ab iis tantum foelici cum successu coluntur, qui judicium liberum, et minime praeoccupatum habent.》
《At ponatur, hanc libertatem opprimi, et homines ita retineri posse, ut nihil mutire audeant, nisi ex praescripto summarum potestatum; hoc profecto nunquam fiet, ut nihil etiam, nisi quid ipsae velint, cogitent : atque adeo necessario sequeretur, ut homines quotidie aliud sentirent, aliud loquerentur, et consequenter ut fides, in Republica apprime necessaria, corrumperetur, et abominanda adulatio, et perfidia foverentur, unde doli, et omnium bonarum artium corruptio. 》《Verum longe abest, ut id fieri possit, ut omnes scilicet praefinito loquantur; sed contra quo magis libertas loquendi hominibus adimi curatur, eo contumacius contra nituntur, non quidem avari, adulatores, et reliqui impotentes animi, quorum summa salus est, nummos in arca contemplari, et ventres distentos habere, sed ii, quos bona educatio, morum integritas, et virtus liberiores fecit.》 Ita homines plerumque constituti sunt, ut nihil magis impatienter ferant, quam quod opiniones, quas veras esse credunt, pro crimine habeantur, et quod ipsis sceleri reputetur, id, quod ipsos ad pietatem erga Deum, et homines movet, ex quo fit, ut leges detestari, et quid vis in magistratum audeant; nec turpe, sed honestissimum putent, seditiones hac de causa movere, et quodvis facinus tentare. Cum itaque humanam naturam sic comparatam esse constet, 《sequitur, leges, quae de opinionibus conduntur, non scelestos, sed ingenuos respicere, nec ad malignos co‚rcendum, sed potius ad honestos irritandum condi, nec sine magno imperii periculo defendi posse. 》Adde, quod tales leges inutiles omnino sunt; nam qui opiniones, quae legibus damnatae sunt, sanas esse credent, legibus parere non poterunt, qui contra easdem tanquam falsas rejiciunt, leges, quibus hae damnantur, tanquam privilegia recipiunt, et iisdem ita triumphant, ut magistratus easdem postea, etsi velit, abrogare non valeat. His accedunt, quas supra cap. XVIII. ex historiis Hebraeorum N° II. deduximus : Et denique quot schismata in Ecclesia ex hoc plerumque orta sunt, quod magistratus doctorum controversias legibus dirimere voluerunt? nam ni homines spe tenerentur leges, et magistratum ad se trahendi, et de suis adversariis, communi vulgi applausu triumphandi, et honores adipiscendi, nunquam tam iniquo animo certarent, nec tantus furor eorum mentes agitaret. 《Atque haec non tantum ratio, sed etiam experientia quotidianis exemplis docet; nempe similes leges, quibus scilicet imperatur, quid unicuique credendum sit, et contra hanc aut illam opinionem aliquid dicere, vel scribere prohibetur, saepe institutas fuisse ad largiendum, vel potius cedendum eorum ira, qui libera ingenia ferre nequeunt, et torva quadam authoritate seditiosae plebis devotionem facile in rabiem mutare, et in quos volunt, instigare possunt. At quanto satius foret, vulgi iram, et furorem cohibere, quam leges inutiles statuere, quae violari non possunt, nisi ab iis, qui virtutes, et artes amant, et Rempublicam in tantam angustiam redigere, ut viros ingenuos sustinere non possit? Quid enim majus Reipublicae malum excogitari potest, quam quod viri honesti, quia diversa sentiunt, et simulare nesciunt, tanquam improbi in exilium mittantur? quid inquam magis perniciosum, quam quod homines ob nullum scelus, neque facinus, sed quia liberalis ingenii sunt, pro hostibus habeantur,》 et ad necem ducantur, et quod catasta, malorum formido, pulcherrimum fiat theatrum ad summam tolerantiae, et virtutis exemplum cum insigni majestatis opprobrio ostentandum? qui enim se honestos norunt, mortem ut scelesti non timent, nec supplicium deprecantur; eorum quippe animus nulla turpis facti poenitentia angitur, sed contra honestum, non supplicium putant, pro bona causa mori, et pro libertate gloriosum. Quid ergo talium nece exempli statuitur, cujus causam inertes, et animo impotentes ignorant, seditiosi oderunt, et honesti amant? Nemo sane ex eadem exemplum capere potest, nisi ad imitandum, vel saltem ad adulandum.
《Ne itaque assentatio, sed ut fides in pretio sit, et ut summae potestates imperium optime retineant, nec seditiosis cedere cogantur, judicii libertas necessario concedenda est, 》et homines ita regendi sunt, ut quamvis diversa, et contraria palam sentiant, concorditer tamen vivant. Nec dubitare possumus, quin haec ratio imperandi optima sit, et minora patiatur incommoda; quandoquidem cum hominum natura maxime convenit. In imperio enim democratico (quod maxime ad statum naturalem accedit) omnes pacisci ostendimus, ex communi decreto agere, at non judicare, et ratiocinari; hoc est, quia omnes homines non possunt aeque eadem sentire, pacti sunt, ut id vim decreti haberet, quod plurima haberet suffragia, retinendo interim authoritatem eadem, ubi meliora viderint, abrogandi; quo igitur hominibus libertas judicandi minus conceditur, eo a statu maxime naturali magis receditur, et consequenter violentius regnatur. Ut autem porro constet, ex hac libertate nulla oriri incommoda, quae non possint sola summae potestatis authoritate vitari : et hac sola homines, etsi palam contraria sentientes facile retineri, ne invicem laedant; exempla praesto sunt; nec opus mihi est ea longe petere : urbs Amstelodamum exemplo sit, quae tanto cum suo incremento, et omnium nationum admiratione hujus libertatis fructus experitur; in hac enim florentissima Republica, et urbe praestantissima omnes cujuscunque nationis, et sectae homines summa cum concordia vivunt, et ut alicui bona sua credant, id tantum scire curant, num dives, an pauper sit, et num bona fide, an dolo solitus sit agere : Caeterum Religio, vel secta nihil eos movet, quia haec coram judice ad justificandam, vel damnandam causam nihil juvat; et nulla omnino tam odiosa secta est, cujus sectarii (modo neminem laedant, et suum unicuique tribuant, honesteque vivant) publica magistratuum authoritate, et praesidio non protegantur : Contra cum olim Remonstrantium, et Contraremonstrantium controversia de religione a Politicis et Ordinibus provinciarum agitari incepit, tandem in schisma abiit, et multis tum exemplis constitit, leges, quae de Religione conduntur, ad dirimendas scilicet controversias, homines magis irritare, quam corrigere, alios deinde infinitam ex iisdem licentiam sumere, praeterea schismata non oriri ex magno veritatis studio (fonte scilicet comitatis, et mansuetudinis), sed ex magna libidine regnandi; ex quibus 《luce meridiana clarius constat eos potius schismaticos esse, qui aliorum scripta damnant, et vulgum petulantem in scriptores seditiose instigant, quam scriptores ipsi, qui plerumque doctis tantum scribunt, et solam rationem in auxilium vocant; deinde eos revera perturbatores esse, qui in libera Republica libertatem judicii, quae non potest opprimi, tollere tamen volunt.》
His ostendimus I. impossibile esse libertatem hominibus dicendi ea, quae sentiunt, adimere. II. hanc libertatem, salvo jure, et authoritate summarum potestatum uniquique concedi, et eandem unumquemque servare posse, salvo eodem jure, si nullam inde licentiam sumat, ad aliquid in Rempublicam tanquam jus introducendum, vel aliquid contra receptas leges agendum. III. hanc eandem libertatem unumquemque habere posse, servata Reipublicae pace, et nulla ex eadem incommoda oriri, quae facile coerceri non possint. IV. eandem salva etiam pietate unumquemque habere posse. V. leges, quae de rebus speculativis conduntur, inutiles omnino esse. VI. Denique ostendimus, hanc libertatem non tantum servata Reipublicae pace, pietate, et summarum potestatum jure posse, sed ad haec omnia conservandum, etiam debere concedi; nam ubi ex adverso eandem hominibus adimere laboratur, et discrepantium opiniones, non autem animi, qui soli peccare possunt, in judicium vocantur, ibi in honestos exempla eduntur, quae potius martyria videntur, quaeque reliquos magis irritant, et ad misericordiam, si non ad vindictam plus movent, quam terrent;《 bonae deinde artes, et fides corrumpuntur, adulatores, et perfidi foventur, et adversarii triumphant, quod eorum irae concessum sit, quodque imperium tenentes suae doctrinae, cujus interpretes habentur, sectatores fecerint, ex quo fit, ut eorum authoritatem, et jus usurpare audeant, nec jactare erubescant, se a Deo immediate electos, et sua decreta divina, summarum autem potestatum contra humana esse, quae propterea divinis, hoc est, suis decretis, ut cedant, volunt; 》quae omnia nemo ignorare potest Reipublicae saluti omnino repugnare. Quapropter hic, ut supra cap. XVIII., concludimus nihil reipublicae tutius, quam ut pietas, et Religio in solo Charitatis, et Aequitatis exercitio comprehendatur, et jus summarum potestatum tam circa sacra, quam profana ad actiones tantum referatur, caeterum unicuique et sentire, quae velit, et quae sentiat, dicere concedatur.
His, quae in hoc Tractatu agere constitueram, absolvi. Superest tantum expresse monere, me nihil in eo scripsisse, quod non libentissime examini, et judicio summarum Potestatum Patriae meae subjiciam : Nam si quid horum, quae dixi, patriis legibus repugnare, vel communi saluti obesse judicabunt, id ego indictum volo : scio me hominem esse, et errare potuisse; ne autem errarem, sedulo curavi, et apprime, ut quicquid scriberem, legibus patriae, pietati, bonisque moribus omnino responderet.
Finis
0 件のコメント:
コメントを投稿