2020年5月29日金曜日

救貧法 Poor Low(&BI)

救貧法 Poor Low(&BI)
A Job Guarantee Costs Far Less Than Unemployment  (ルーズベルト1944)
クリフォード・ヒュー・ダグラス 1879〜1952
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2021/05/blog-post_28.html?m=1

ミッチェルUBI批判
http://love-and-theft-2014.blogspot.com/2020/07/setting-things-straight-about-job.html

Kenji Hayakawa (@kenji_hayakawa)
ベルリンで新たなベーシックインカム実験が始動しつつあります。他のいわゆる「実験」とは異なり、第三者研究機関と提携しつつ大規模な資金や人材を投入して高い水準の研究がなされる予定です。日本でUBI実験に携わっている方々もぜひ見習うべき。英語ですが必読です。
pilotprojekt-grundeinkommen.de/english
https://images.meinbge.de/image/upload/v1/pilot/projektmappe/Basic_Income_Pilot_Project_Magazine.pdf
https://twitter.com/kenji_hayakawa/status/1295777017732968448?s=21



ゴッホ (@goph_)
波頭亮さん著「AIとBIはいかに人間を変えるのか」読了。AIとベーシックインカムの歴史とこれからについて解説。AIのみ発展してもAIによって効率化された富が資本家に全て集積されてしまう。BIによって資本分配ができて初めてユートピアが実現する、というお話。#ゴッ本

amzn.to/2I0fQ9h pic.twitter.com/KTAplPdSIr
https://twitter.com/goph_/status/969951294088609793?s=21


Park SJ 🌹朴勝俊 Anti-Austerity 反緊縮、いずれはベーカム! (@psj95708651)
雨宮かりんさん
引用

生活保護は、全てを失わないと受給できない。新型コロナウイルスの感染拡大で住宅ローンを払えなくなったという相談もあるが、住宅ローンがあると生活保護は受けられない。全てを失い、所持金が底を突いて初めて対象者になる。 twitter.com/ryuzou1200/sta…
https://twitter.com/psj95708651/status/1290429666226929664?s=21

最大の問題は仕事をすると生活保護を受給できなくなる点だ。必要ない予算を使い切らなければならない自治体みたいな矛盾。BI論者はBIは労働意欲を削がないというが、正直、生活保護を最低賃金保証という名目で失業者に配るのがいい。JGPとコンセプトが相反するがその場合JGPは追加収入という位置付けでいい(本当はJGP=完全雇用の志向が社会の根底になければならない)。そもそも破産前提の生活保護の改訂を不可能と考えるのが危険だ。なるべく小さな各地域の自治体が必要になるし、BIのように分配を国家だけに頼るべきではない。

マルクスエンゲルス全集bot (@maruenbot)
人口はたえず生活資源を上回る以上、慈善は愚行であり、貧困を公に奨励することである。国家にできることは、貧困を成行きに任せて、せいぜい貧困者の死を容易くさせることだけである。-マルサス1.435
https://twitter.com/maruenbot/status/1284355579129950210?s=21
マルサスの言葉の紹介


伊藤誠2011


JGを批判しつつBIを主張する人はバブルを経験していないから今後にインフレになることがないと考えている
一律にお金を配るというのは聞こえはいいが、BIは行政が個別差の吟味を放棄しているだけだ。BIはその手間賃を惜しむ人の発想だ。
結局は個別の社会保障が必要になる。
医療を考えればわかる。
母子家庭の場合も社会保障でいい。
分配と徴税を国家だけに頼るのは危険だ。JGの場合は地方自治が残る。
地域金融を含めなるべく小さな行政単位を残すことが重要だ。

MMTはインフレ下で成立した学説なのでデフレ脱却後も当然視野に入ります
日本ではサービス産業が低賃金で雇用の受け皿になっているので完全雇用の重要性が見えにくいのです



ちなみに完全雇用が重要なはインフレにするためではなく経済の安定性のためです
今は対価を支払わないボランティアが地方行政によって推奨されていますが
JGPも当分は地方行政がボランティアに対価を払う程度のものになるでしょう
ただしJGP以外の手法では最低賃金を規定出来ません
法には抜け道が…

(平和裡に完全雇用を実現出来ない国は
戦争によってそれを成し遂げようとするでしょう
高い失業率が総力戦に置き換わる
中国同様に今のアメリカは危険です
日本も他人ごとではない

安倍には身内の名誉回復しか頭にない
戦犯になったが岸は正しかったとしたい訳だ
だが同時にそれが軍産複合化を推し進める

本家MMTerは‘社会保障を切り捨ててBIに一本化しろ’という本格的BI論者と闘っているのであって日本の良心的なBI論者を敵にする考えはないでしょう
ただ社会保障を並存させるならまず社会保障のデザインが必要です
これはリソースの問題です
医師がいなければ病院に意味がない
食料がなければ…


ちなみに完全雇用が重要なのはインフレにするためではなく経済の安定性のためです
今は対価を支払わないボランティアが地方行政によって推奨されていますが
JGPも当分は地方行政がボランティアに対価を払う程度のものになるでしょう
ただしJGP以外の手法では最低賃金を規定出来ません
派遣社員採用以外にもブラック企業にとっての抜け道が多過ぎます

本家MMTerは‘社会保障を切り捨ててBIに一本化しろ’という本格的BI論者と闘っているのであって日本の良心的なBI論者を敵にする考えはないでしょう
ただ社会保障を並存させるならまず社会保障のデザインが必要です
これはリソースの問題です
医師がいなければ医師にかかれない
食料がなければ食べられない
農地がなけれれば農業も出来ない
あり得ない話ではない



ーーーー




協同組合のように分配は生産現場でなされるべきだが
BIにはそのインセンティブがない
BIが批判されるのはそこだ
デフレ下でしかも間違った緊縮財政下でのBI、
社会保障並存するBIには賛成だが…
MMTのようにインフレへの予めの対応策が必要だ
つまり完全雇用への模索が社会の安定に必須なのだ
ただ現在の日本、サービス産業が低賃金で雇用の受け皿になっている日本では
完全雇用の重要性が見えにくい
ちなみにマルクスは救貧法(元祖BI?)に反対したことになっているが
国家だけに頼れないということを説明したに過ぎない
マルクスは物価が短期間で2倍になった事例を『資本論』1:23:5:fで紹介している

以下、マルクス「ゴータ綱領批判」1875より
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/marxismco/marxism_genriron_gensyo_gotakoryo1.htm
https://iitomo2010.blogspot.com/2020/05/1875_31.html


 But one man is superior to another physically, or mentally, and supplies more labor in the same time, or can labor for a longer time; and labor, to serve as a measure, must be defined by its duration or intensity, otherwise it ceases to be a standard of measurement.

 This equal right is an unequal right for unequal labor.

 It recognizes no class differences, because everyone is only a worker like everyone else; but it tacitly recognizes unequal individual endowment, and thus productive capacity, as a natural privilege. 
 しかし、あるものは他のものに比べて肉体的に、又は精神的にまさっており、従って、同じ時間により多くの労働を給付し、あるいはより長い時間、労働することができる。労働は、基準として役立つためには、長さ又は強度に従って規定されなければならない。さもなければ、労働は尺度基準ではなくなるであろう。

 この平等の権利は、等しくない労働に対しては、不平等の権利である。

 階級的差異が存在しなくなるや、全ての人はみんなと同じような一労働者であることになる。しかしそれは、労働者の不平等な個人的天分と、又従って、不平等な個人的給付能力を、生まれながらの特権として暗黙のうちに認める。
 It is, therefore, a right of inequality, in its content, like every right.

 Right, by its very nature, can consist only in the application of an equal standard; but unequal individuals (and they would not be different individuals if they were not unequal) are measurable only by an equal standard insofar as they are brought under an equal point of view, are taken from one definite side only -- for instance, in the present case, are regarded only as workers and nothing more is seen in them, everything else being ignored. 
 従ってそれは、あらゆる権利と同じく、内容の点では不平等の権利である。

 権利とは、その本性上、同じ基準を適用するということにおいてのみ成り立ちうる。しかし、不平等な諸個人(そしてもし彼らが不平等でないなら、相異なる個人にはなり得ないであろう)は、同じ基準によって測定できはするが、それはただ、彼らを同じ視点のもとにおき、ある特定の側面からだけ捉える限りでのことであって、例えば今の場合では、彼らを労働者とのみみなし、そして、彼らの中にそれ以外のものを一切見ず、他の一切のものを度外視する限りでのことである。
 Further, one worker is married, another is not; one has more children than another, and so on and so forth.

 Thus, with an equal performance of labor, and hence an equal in the social consumption fund, one will in fact receive more than another, one will be richer than another, and so on.

 To avoid all these defects, right, instead of being equal, would have to be unequal.
 更に、ある労働者は結婚しているが、他の労働者は結婚していないとか、一方の者は他方のものより子供が多い、等々。

 従って、相等しい労働を遂行して、それ故に社会的消費基金に同じ持分を有する場合でも、一方の者が他方のものよりも事実上多く受け取り、一方のものが他方のものよりも豊かである、など。

 これらの欠点の全てを避ける為には、権利は、平等である代わりに、むしろ不平等でなければならなくなるでであろう。


 In a higher phase of communist society, after the enslaving subordination of the individual to the division of labor, and therewith also the antithesis between mental and physical labor, has vanished; after labor has become not only a means of life but life's prime want; after the productive forces have also increased with the all-around development of the individual, and all the springs of co-operative wealth flow more abundantly -- only then then can the narrow horizon of bourgeois right be crossed in its entirety and society inscribe on its banners: From each according to his ability, to each according to his needs!
 共産主義者社会のより高次な段階において、即ち、分業の下への個人の奴隷的な従属が解放され、それと共に、精神的労働と肉体的労働との対立も無くなった後で、労働が単に生きるための手段だけでなく、労働そのものが生活の第一の欲求となった後で、諸個人の全面的な発達に伴って彼らの生産諸力も増大し、あらゆる協同組合的富の源泉が一層あふれるほど湧き出るようになった後で、--その時初めて、ブルジョア的権利の狭い地平的限界が完全に乗り越えられ、そして社会はその旗の下に次のように書くことができる。各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!





参考:
資本論1:23:4
…労働者階級中の窮乏層と産業予備軍とが多くなればなるほど、公認の被救恤的窮民
〔救貧法による救恤を受ける窮民〕がそれだけ多くなる。これは資本制的蓄積の絶対的・
一般的な法則である。…
[マルクスは1870年の報告書を主に参照。ブレグマンが偽造と指摘した報告書
は1834年のもの]

資本論1:23:5:f
…アイルランドにおける日雇農村労働者の状態にかんする透徹した叙述が、アイルランドの
救貧法監督官の報告書(一八七〇年)にある。

二〇年前にくらべて、必要生活手段の価格は約二倍、衣類の価格はちょうど二倍である。…

資本論1:24:2
…「貧乏人がどこにでもいる」と、エリザベス女王はイングランド巡遊ののちに叫んだ。
彼女の第四三年には、ついに救貧税の実施によって、被救恤的窮民を公けに認めることを
余儀なくされた。「この法律の立案者たちは、その理由を述べることを恥じて、あらゆる
慣例に反し、何らの理由文もつけないでこれを発布した。」[byコベット] チャールズ一世
第一六年の条例第四号によって、この救貧法は永久的なものとされたが、事実上、より
堅固な新形態を受けとったのはやっと一八三四年であった。


マルクス「ゴータ綱領批判」
《権利は平等であるよりも、むしろ不平等でなければならないだろう》
センも引用





ベーシックインカム英語basic income)とは、最低限所得保障の一種で、政府がすべての国民に対して[1][2]最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を定期的に支給するという政策[3][4][5][6]基本所得制(きほんしょとくせい)、基礎所得保障基本所得保障最低生活保障[7]国民配当[8]とも、また頭文字をとってBI、UBIともいう[9][10][11][12][13][14]。世界中で限定的なパイロットプログラムも始まっている。















思想史編集














賃金補助制度の歴史は、1597年のイギリスにおける救貧法にさかのぼる。人々から救貧税を徴収し、文字通り貧民を救済する制度である。1601年にはエリザベス救貧法が制定され、救貧は地方ごとに行うのではなく、国家単位で行われることになる。
1795年〜1834年にはスピーナムランド制が実施された。この制度は、一定基準以下の賃金労働者に、救貧税として徴収した額の中から生活補助金を支出するというものである。この制度の背景には、ナポレオン戦争と凶作によって農民の窮乏が深刻となったという事情があり、補助金の額は食料品(パン)の価格と家族の人数によって算定された。この制度は人道主義的な政策ではあったが、労働意欲を低下させ、救貧税負担を増大すなわち労働者の賃金下落を引き起こす結果となり、やがて廃止となった。
やがてBIの構想が18世紀末に出現した。BIの最初の提唱者は以下に挙げるトマス・ペインとトマス・スペンスの2人だと考えられる。
トマス・ペイン (1737-1809)はイングランドの哲学者である。彼は1796年の著書『土地配分の正義』において、人間が21歳時に15ポンドを成人として生きていく元手として国から給付(ベーシック・キャピタル)、50歳以降の人々に対しては年金として年10ポンド給付するという案を発表した。その案では、土地を持つ人間に地代として相続税を課し、財源を賄うとされた。BIに類似しているものとしては世界最古の案と言えるだろう。彼の次に出てきたBIの提唱者はトマス・スペンス(en:Thomas Spence)(1750-1814)で、イングランドの哲学者である。彼は1797年の著書『幼児の権利』において地域共同体ごとに、地代(税金)を集め、公務員の給料などの必要経費を差し引いた後の剰余を年4回老若男女に平等に分配するという案を発表した。これは純粋なBIとしては世界最古の案と言える。
彼ら二人が出現した後、19世紀にも断続的にBI構想が生じた。1848年に、ベルギーの思想家ジョセフ・シャルリエ(en:Joseph Charlier)が、自著『自然法に基づき理性の説明によって先導される、社会問題の解決または人道主義的政体』において、地代を社会化・共有化しそれを財源するBIを構想した。また同年、J・S・ミルが自著「経済学原理」の中で、労働のできる人にもできない人にも、ともに一定の最小限度の生活資料を割り当てるという案を示した。
シャルリエやミルがBIを主張した40年後の1888年には、米国の作家であり社会主義者のエドワード・ベラミーが、自著『顧みれば』の中でベーシックインカムに近いシステムを描いた。その内容は伊藤(2011)によると、以下のようだったとされる。“私企業に代わり、国家があらゆる財の唯一の生産者となった未来(2000年)のユートピア社会のあり方として、毎年、国民の生産のうちの各人の分け前に相当するクレジットが公の帳簿に記入されるとともに、各人にそれに対応するクレジット・カードが発行され、それによって共同体社会の公営倉庫からなんでもほしいものを、いつでもほしいときに買うことができる様子を描いていた。”この中には引用部分の冒頭にあるように、社会主義的な発想も含まれているため、自由競争を否定しない制度であるBIと必ずしも一致しない側面もあるが、それぞれの人に富を分配するという点ではBIと共通する。また、その分配の方法として現金ではなく「クレジット・カード」を発想したことは極めて斬新であり、この発想はBIの実施方法を考えるうえで、現金給付特有の問題を排除したい場合 などに有用であると考えられる。
やがて20世紀になるとBI構想を考える研究者が多く出現した。一般的な知名度は高くないが、BI構想の歴史を語るうえで欠かせないのがC・H・ダグラス(en:C. H. Douglas) (1879-1952)である。彼は、自らの著書で社会信用論というシステムを発表し、月5ポンド の国民配当を提唱した。その財源は貨幣発行益である。当初、これに対して正統派の経済学者であるケインズは否定的であったが、のちに肯定的な立場をとっている。
また、W・ベヴァリッジ(1879-1963)は『ベヴァリッジ報告』(1942年)で社会保険を中心としつつ、補足的なものとして公的扶助をおくモデルを提唱した。このモデルは、「稼得能力の喪失ないし稼得能力の不足に陥った時に所得を保障することによって、貧困を防止する」という彼の考えに基づいている。また、彼はケインズと共にケインズ=ベヴァリッジ型福祉国家を提唱した。ケインズとベヴァリッジは、BIと直接の深い関係は無いが、社会保障の歴史を語るうえで欠かすことの出来ない二人であるので、ここに記した。
20世紀半ばにBIについて具体的な数値を用いて提唱したのが、イギリスの女性作家で経済学者のジュリエット・リズ=ウィリアムズ(1898-1964)である。彼女は『新しい社会契約』(1943年)で社会配当(basic allowance)と呼ばれるBIに極めて近いものを提唱した。給付額は、週1ポンドかつ扶養する子供一人当たりに週0.5ポンドとした。財源を税とし、ミーンズテストを行わない点でBIと類似するが、就労の意思が無く、かつ家事労働に従事していない人を給付対象外とした点ではBIと異なる。財源として比例所得税を主張した点と労働インセンティブを高めるべきという主張が、のちのフリードマンらが唱えた負の所得税という構想に影響を与えた。続いてジェイムズ・E・ミード(1907-1995)は、社会保障のシステムにおいて、ベヴァリッジが提唱した社会保険方式ではなく税方式を提唱した。そして社会配当という呼称でBIを提唱した。彼はBIにより有効需要を創出かつ労働需要を減少させ、社会保障・経済・完全雇用のサイクルを循環させるという考えを持った。また著名な経済学者M・フリードマン(1912-2006)は、1962年の「資本主義と自由(Capitalism and Freedom)」で負の所得税を提唱した。先述のように、リズ=ウィリアムズの影響を受けたとされる。1986年には、BIEN(現・ベーシックインカム地球ネットワーク)が設立されベルギーの哲学者フィリップ・ヴァン・パレースがメンバーとなっている。














スピーナムランド制度(スピーナムランドせいど、英語Speenhamland system)とは、18 - 19世紀のイギリスに存在した貧困補助制度である。
ベーシックインカム制度の失敗例として取り上げられることが多いが、「失敗」とした報告書に多くの批判がなされており、制度そのものの有効性・有害性ははっきりとしていない。

報告書への批判・制度批判への批判編集














スピーナムランド制度はその「失敗」を、ベーシックインカム制度の失敗例としてしばしば引用される。
しかし、the Royal Commission Report of 1834 には多くの問題点・批判がある。特定の層からのみ聞き取り調査がおこなわれ、かつ大多数のデータが調査前に集められている(すなわち捏造)ことが指摘されている。
また、スピーナムランド制度そのものと救貧制度全体を混同した批判がしばしばおこなわれている。当時のイギリス(イングランド)では様々な救貧制度がおこなわれており、スピーナムランド制度はその一部である。救貧制度対象者のうちごく一部のみがスピーナムランド制度を適用されていたという議論がある[4]
スピーナムランド制度が導入された地区で逆に貧困が悪化した例が存在するが、同じ時期に近隣の「導入されていない地区」でも貧困が悪化している。すなわち制度そのものが貧困を悪化させたわけではない(当時のイギリスは大不況への突入期であった)。
スピーナムランド制度がそもそも「失敗」であったか、あるいはどのような有用性があったかはいまだ決着がついていない。


マルクス:
資本論1:13:7
…一八三四年には工場と機械の大増加、職工の不足。新救貧法が工場地方への農村労働者の移住を促進した。…
[1834年の新救貧法はマルサスの思想を反映したのものらしい]

資本論1:23:4
…労働者階級中の窮乏層と産業予備軍とが多くなればなるほど、公認の被救恤的窮民〔救貧法による救恤を受ける窮民〕がそれだけ多くなる。これは資本制的蓄積の絶対的・一般的な法則である。…
[マルクスは1870年の報告書を主に参照。ブレグマンが以下で偽造と指摘した報告書は1834年のもの]

資本論1:23:5:f
…アイルランドにおける日雇農村労働者の状態にかんする透徹した叙述が、アイルランドの救貧法監督官の報告書(一八七〇年)にある。

二〇年前にくらべて、必要生活手段の価格は約二倍、衣類の価格はちょうど二倍である。…

資本論1:24:2
…「貧乏人がどこにでもいる」と、エリザベス女王はイングランド巡遊ののちに叫んだ。彼女の第四三年には、ついに救貧税の実施によって、被救恤的窮民を公けに認めることを余儀なくされた。「この法律の立案者たちは、その理由を述べることを恥じて、あらゆる慣例に反し、何らの理由文もつけないでこれを発布した。」[byコベット] チャールズ一世第一六年の条例第四号によって、この救貧法は永久的なものとされたが、事実上、より堅固な新形態を受けとったのはやっと一八三四年であった。〔760〕宗教改革のこれらの直接的影響は、その最も永続的な影響ではなかった。〔761〕寺領は古代的土地所有諸関係の宗教的堡塁をなしていた。前者の崩壊とともに、後者ももはや存続しえなくなった。

ブレグマン:
信心深いマルサスによれば 、ヨハネの黙示録の四騎士が戦争 、飢饉 、疫病 、死をふりまくのを防ぎ得る唯一の方法は 、禁欲だった 。実のところマルサスは 、イギリスは一三四九年から一三五三年までに人口を半減させた黒死病に匹敵するほどの危機に瀕している 、と考えていた ( 9 ) 。
 いずれにせよ 、貧困層を支援すると悲惨な結果に終わるはずだ 。スピ ーナムランド制度のせいで 、国民はできるだけ早く結婚し 、多く子どもを持とうとするようになる 、とマルサスは予測した 。彼の親友で経済学者のデイビッド ・リカ ードは 、所得保障制度は勤労意欲を低め 、食糧生産量をさらに減少させ 、イギリスでフランス流の革命の火を燃え上がらせるに違いないと考えていた ( 1 0 ) 。

 カ ール ・マルクスですら 、三〇年後にその最高傑作 『資本論 』の中で 、スピ ーナムランド制度を非難する論拠としてこの報告書を利用している 。マルクスから見れば 、救貧法は 、雇用主が賃金をできるだけ低く抑えて 、その責任を地方政府に押しつけるための作戦であった 。友人のフリ ードリヒ ・エンゲルスと同様に 、マルクスは古い救貧法を封建制度の遺物と考えていた 。貧困という束縛から労働者階級を解放するには 、所得保障制度ではなく革命が必要だと彼は訴えた 。
 スピ ーナムランド制度を批判する人々は 、マルクスという並外れた後ろ盾を得た 。その結果 、左派から右派まですべての人が 、この制度を歴史の失敗と見なすようになった 。二〇世紀に入ってもジェレミ ・ベンサム 、アレクシ ・ドゥ ・トクヴィル 、ジョン ・スチュア ート ・ミル 、そしてとりわけカ ール ・ポランニ ーといった著名な思想家が 、この制度を非難した ( 1 2 ) 。スピ ーナムランド制度は 、善意に基づくものでありながら人々を地獄へと導いた政府の計画の典型例とされた 。

一五〇年後に捏造が発覚した報告

 だが 、話はそれで終わりではなかった 。
 一九六〇年代から七〇年代になると 、歴史家らはスピ ーナムランド制度についての王立委員会の報告書を見直し 、そこに記された報告の大半が 、デ ータの収集前に書かれたものであることを突き止めた 。…

9以下を参照のこと 。 T h o m a s M a l t h u s , " A n E s s a y o n t h e P r i n c i p l e o f P o p u l a t i o n " ( 1 7 9 8 ) . h t t p : / / w w w . e s p . o r g / b o o k s / m a l t h u s / p o p u l a t i o n / m a l t h u s . p d f . 
1 0わかりやすくするためにデイビッド ・リカ ードを 「経済学者 」と表現したが 、当時彼は 「政治経済学者 」とみなされていた 。 G D Pの章で説明したように 、現代の経済学者は二〇世紀の発明である 。 
1 1 R e p o r t f r o m H i s M a j e s t y ' s C o m m i s s i o n e r s f o r I n q u i r i n g i n t o t h e A d m i n i s t r a t i o n a n d P r a c t i c a l O p e r a t i o n o f t h e P o o r L a w s ( 1 8 3 4 ) , p p . 2 5 7 –6 1 . h t t p : / / w w w . v i c t o r i a n w e b . o r g / h i s t o r y / p o o r l a w / e n d a l l o w . h t m l . 
1 2ただしポランニ ーは 、その直時的な失敗については 、先輩学者と異なる見方をした 。彼は 、スピ ーナムランド制度が労働者の集団行動を傷つけることによって賃金を押し下げたと考えた 。

仲村論考
救貧院は巷間において, 「救貧法監獄 」 と呼ばれていたのである。 こうした救貧院についてマルクスは,
「ブルジョアジーの慈善をもとめる貧困者にたいするブルジョアジーの報復と慈善とが, たくみに組み合わされている」…
マルクス 「論文 『プロイセン国王と社会改革 一プロイセン人』 (『フォルヴェルツ!』 第号) にたいする批判的論評」 『全集』 第1巻,435ページ。

435
批判的論評
(399)
勘まい呼び名に従えば貧民省、の指揮監督をうける。この管
、理機関が管理する資金はフランスの軍事行政費の総額にほ
ぼ等しい。その下で働く地方管理機関の数は五〇○にのぼ
り、そのうえ地方管理機関は、それぞれすくなくとも一二
人の役員をうごかしている。
イギリス議会は管理機関の形式的改革だけにとどまって
はいなかった
 イギリス議会はイギリスのひどい極貧状態の主因を救貧
法そのものにあると考えた。すなわち、この社会的欠陥に
対処する法定手段たる慈善が、かえってこの社会的欠陥を
助長しているのだ。そもそも極貧状態というものは、マル
クスの以下の理論に従えば、永迎の自然跡なのだ
「人口はたえず生活賓料を上回る傾向にある以上、慈
善は一つの愚行であり、貧困を公けに奨励することであ
る。だから国家にできることは、貧困を成行きにまかせ
て、せいぜい貧困者の死をたやすくさせることだけであ
この人道主義的理論にむすびつけて、イギリス議会は次
のような見解をとっている。極貧状態は労働者の自業自得
の貧困であり、したがってこれを不幸として予防するので、
はなくて、むしろ犯罪として禁圧し処罰すべきである、と。

こうしてワークハウス(Workhouse) すなわち貧民労役所の制度が生まれた。しかし、その内部の設備をみたら、
貧困者はおそれをなしで、そこにはいって競死をまぬがれ
ようとはしなくなる。貧民労役所では、ブルジョアジーの
慈善をもとめる貧困者にたいするブルジョアジーの報復と
慈善とが、たくみに組み合わされている。
以上のように、イギリスはまず極貧状態を慈善と行政措
置によってなくそうとした。ついで、極貧状態がどんどん
進行するのは近代産業の必然の帰結とはみとめないで、む
しろイギリス救貧税の帰結だと考えた。普遍的な困窮を、
イギリス立法の生んだ一特殊性としか考えなかった。まえ
には慈善の不足によるものとされていたことが、いまや慈
善の過剰によるものとされた。最後に、貧困は貧困者の責」
任とみなされ、そのようなものとして貧困者は処罰された。
政治的なイギリスが極貧状態からまなんだ一般的意義は
次の点にかぎられている。すなわち、極貧状態は、行政措
置にもかかわらず、ますます進展し、これにつれてついに
1つの国民的体制となるまでにいたったということ、した
がってまた不可避的に多面かつ膨大な行政の対象になった
ということ、しかしこの行政の任務は、もはや極貧状態の
劉息の根をとめることではなくて、それに懲戒をくわえ、そ
れを永久化するということ、である。この行政は、積極的
な手段によって極貧状態の水源をふさぐことをあきらめ、



長谷川羽衣子🍀反緊縮グリーン・ニューディール (@uikohasegawa)
救貧法(スピーナムランド制度)を非難するポランニーの記述は誤解だとブレグマン『隷属なき道』で明らかにされています。救貧法は成功でした。

1832年の救貧法の報告書は禁欲・勤労主義的偏見に満ちたものでした。これを、ポランニー、マルクスなど著名な学者が丸呑みしたことは歴史的な過ちです。 twitter.com/togura04/statu…
https://twitter.com/uikohasegawa/status/1266161755442429952?s=21

『大転換 』ポランニー K. Polanyi The Great Transformation 1944

救貧法



























1834年改正の新救貧法による懲治院の実態を批判するパンフレット
イングランドの救貧法(きゅうひんほう、Poor Laws)とは、近世〜現代のイングランドにおいて、貧民増加による社会不安を抑制するための法制をさす。1531年に救貧が始まり、エリザベス救貧法をはじめ幾度も改正が繰り返され、結果的に福祉国家イギリスの出発点となった。イングランド救貧法は近代的社会福祉制度の先駆として模範のひとつとされ、諸外国も福祉制度の導入にあたって参考にした。

救貧法以前


























救貧法が整備される前、特に宗教改革以前は、救貧は教会の役割であった。修道院ギルドなどで自発的に「貧しき人々」への救済が行われていた。キリスト教の伝統により、貧しいことは神の心にかなうこととされ、そうした人々に手を差し伸べることは善行であった。余裕のある者は、その寛大さを誇示するためにも積極的に自発的救貧を行った。また市民たちは競って貧民に文物を与え、それが市の誇りとされた。まずしい農民には安い地代で農地を提供することも多かった。

宗教改革の波及

宗教改革は、こうした救貧のありかたを一変させた。マルティン・ルター1520年に発表した『ドイツ貴族に与える書』で「怠惰と貪欲は許されざる罪」であり、怠惰の原因として物乞いを排斥し、労働を「神聖な義務である」とした。都市が責任を持って『真の貧民』と『無頼の徒』を峻別して救済にあたる監督官をおくことを提唱した。カルヴァンは『キリスト教綱要』でパウロの「働きたくない者は食べてはならない(新約聖書テサロニケの信徒への手紙二」3章10節[1])」という句を支持し、無原則な救貧活動を批判した。こうした思想はイングランドにも持ち込まれ、囲い込みなどによって増えつつある貧民への視線は変わりつつあった。

沿革


























プロテスタンティズムの流入は、貧しさへの視線を変容させた。貧しいことは怠惰のゆえであり、神に見放されたことを表すという見かたが広がっていった。さらに修道院解散が実施され、収入の多寡にかかわらず高い地代を要求する地主が増えた。貧民は荒野や森林に住みつくか、浮浪者となって暴動をおこすようになった。こうした状況から、救貧行政制度の必要性が意識されるようになった。

初期の救貧法

16世紀になると、浮浪者の増加やギルドの支配力低下がおこり、従来の制度が崩れつつあった。これには、農地の囲い込みが行われたためとの指摘もある。ヘンリー8世の時代(1509年-1547年)には浮浪貧民が生きるために盗みをはたらく例が頻発し、72,000人の貧民が死刑に処された。増え続ける貧民は社会問題として、議会でも真剣に討議された。
時の王ヘンリー8世は、こうした社会の変化に対応する必要を感じた。1531年、王令によって貧民を、病気等のために働けない者と怠惰ゆえに働かない者に分類し、前者には物乞いの許可をくだし、後者には鞭打ちの刑を加えることとした。1536年、この王令は成文法化され、これが後の救貧法の端緒とされる。それまでの物乞いを禁止し、救貧の単位を教区・都市ごとに設定した。労働不能貧民には衣食の提供を行ういっぽう、健常者には強制労働を課した。
まもなく健常者貧民への苛烈な待遇が問題視されるようになり、政府は救貧制度の充実をはかった。1572年、健常者貧民への笞打ちなどを禁じ、各教区・都市に救貧監督官をおいた。監督官は貧民の数を把握し、所轄地域から救貧税を徴収した。この制度によって、それまで自発的に寄付されていた救貧費用は強制徴発のかたちをとるようになり、都市・教区によっては救貧税を支払った者に選挙権が付与された。さらにブライドウェル(矯正院)をつくって強制労働の場を作ったり、親のいない子どもを徒弟に出すなどの制度も追加された。 

ブライドウェル

矯正院はブライドウェル宮殿英語版を転用してロンドンに作られた。これが広まって各地にも同様の施設ができ、ブライドウェルと呼ばれるようになった。羊毛や鉄などを蓄え、貧民を収容して厳格な規律のもと労働にあたらせた。労働の対価として賃金も与えられたが、その労働環境は苛酷で、労働を拒否する者や脱走者があとを絶たなかった。この苛酷さは時を経るにつれてエスカレートしてゆき、刑務所と区別がつかなくなっていった。この処遇もまた社会問題となり、17世紀から18世紀初頭にかけてブライドウェルは廃止されることになった。

健常貧民と労働不能貧民

救貧行政においては、各々の貧民が労働可能な状態かどうかを判断しなければならなかった。しかし分類方法のガイドラインは存在せず、救貧監督官の裁量に委ねられた。したがって地域によって判断基準はまちまちとなり、ある教区では9割以上が不能貧民であったり、また別の教区では2,3人の例外を除き可能貧民とされたりした。こうした恣意的区分は20世紀初頭まで続いた。

エリザベス救貧法(旧救貧法)

救貧行政は各地方が個別に行っていたが、手に余る教区・都市も出始めていた。そこで1597年には、最初の総合的な救貧法(Act for the Relief of the Poor 1597)が制定され、1601年エリザベス救貧法として知られる救貧法改正がなされた。この制度は17世紀を通じて救貧行政の基本となり、近代社会福祉制度の出発点とされている[2]。その骨子は以下のようになっていた。
枢密院(Privy Council、中央行政機関)
治安判事(justice of the peace、地方行政を司る。無給の名誉職)
救貧監督官(overseers of the poor、2-4名。無給の名誉職で救貧の実務官)
監督官は救貧税を徴収し、税は以下の費用に割り振られた。
  1. 労働不能貧民の救済費
  2. 強制労働させる懲治院の維持費
  3. 徒弟に出す子どもの養育費
エリザベス救貧法(en)の特徴は、国家単位での救貧行政という点にあった。エリザベス以前の救貧行政は各地の裁量に委ねられていたが、この改正によって救貧行政は国家の管轄となった。以降、救貧は中央集権化を強めていった。イングランド内戦がおこると一時的に機能麻痺に陥ったが、1662年の小規模の改正によって立て直された。
この救貧法は現代社会福祉制度の出発点と評価されるいっぽう、法の目的は救済ではなくあくまで治安維持にあった。したがって貧民の待遇は抑圧的でありつづけ、懲治院は強制収容所刑務所と変わらない状態にあった。ときには健常者と病気を持つ者を分け隔てなく収容し、懲治院内で病気の感染もおこった。こうした待遇から脱走や労働拒否を試みる貧民はあとを絶たず、一定の社会的安定をもたらす効果はあったものの、根治には至らなかった。このような貧民行政への底辺の不満が、清教徒革命において過激なかたちで噴出したとも指摘されている。

18世紀の救貧法改正

18世紀の中ごろから、キリスト教的側面とは違って、世俗的博愛意識がイングランド中産階級に広がっていった。かれらは積極的に病院などに寄付し、そうした行為がジェントルマンとしてのステイタスのひとつとなった。この風潮のなかで懲治院の劣悪な環境が注目され、さまざまな改革が行われた。その代表的なものが、ギルバート法およびスピーナムランド制度とよばれるものである。

ギルバート法

ギルバート法は、懲治院の機能を縮小し、健常者には自宅で仕事を与えるという方針転換がなされた。これは、教区のいくつかが実験的に導入した制度が結果的に失敗に終わったことに端を発していた。
17世紀ブリストルで、複数の教区・都市が連合して懲治院を建設し、救貧行政を行う制度を実施した。ブリストルの実験制度じたいは成功し、治安の改善や貧民の独立がみられた。この制度はイングランド各地にひろがり、中央でも懲治院実験法を制定して全国的に広めようとした。しかし懲治院の居住環境がさらに悪化して伝染病の温床となるなど弊害がおこった。
そこで1782年トマス・ギルバート下院議員が提唱した救貧法の改正が議会を通過した。通称ギルバート法とよばれるこの法は、救貧連合を認めるいっぽう、懲治院には老人・病人のみを収容することと改められた。健常者貧民には院外救済として自宅で仕事を与えた。

スピーナムランド制度

1795年に始まるスピーナムランド制度は、物価連動制の院外救貧制度である。パンの価格に下限収入を連動させ、働いていても下限収入を下回る家庭には救貧手当が支給された。これはフランス革命の影響から物価が高騰するいっぽう、収入は増えず困窮する農民・市民が続出したためである。バークシャー州スピーナムランド村の治安判事は貧民の窮状を見かねて、対策を協議した。その結果、ギルバート法の院外救済の制度を拡大解釈し、パンの価格をもとに基本生活費を算出した。この基本生活費に収入が届かない家庭には、その差額分を補填した。

新救貧法

19世紀に入って自由主義思想、古典派経済学が主流になると、救貧制度にも影響を及ぼした。ギルバート法・スピーナムランド制度への批判やトマス・ロバート・マルサス[3]などの思想的背景から、福祉費用は削減される方向へ向かった。こうして成立した1834年の新救貧法の骨子は以下のようになっている。
  • 議会から独立した救貧法委員会を設置し、救貧行政にあたる。
  • 教区(15,000)ごとの救貧を改め、教区連合(600)ごとに救貧を行う。
  • 院外救貧[4]を全廃し、懲治院による救貧のみとする。
  • 救済は「最下級の労働者以下」の待遇とする。
こうした諸改革の結果、救貧税は劇的に抑制することに成功した。フリードリヒ・エンゲルスは「最も明白な、プロレタリアートに対するブルジョワジーの宣戦布告」とこき下ろしたが、当時は救貧法に甘える貧民たちに対する反感が勝っていた。懲治院は史上最悪の環境となり、折しも広がっていたロバート・オーウェンなど社会主義思想の影響からチャーティズムが広がった。イギリス全土におよぶ貧民・労働者の暴動という事態を招き、資本家と労働者の対立を激化させることになるなど、結局は新救貧法も悪化をたどることとなった。

廃止への動き

新救貧法体制への批判は徐々に強まっていった。産業革命後の労働者の窮状や、懲治院で骨をかじる貧民の姿がパンフレットを通じて広まると、19世紀後半には人道的側面および社会主義思想から異議が申し立てられた。これを受けて懲治院の待遇はある程度改善され、救貧法委員会も廃止された。しかし基本的な路線は新救貧法の方針が継承された。貧民の生活改善に取り組んだのは、もっぱら慈善組織協会(COS)をはじめとする私的な団体であった。
しかし一方で、貧民が潜在的に労働者となりうることも認識されてきていた。こうした考え方から20世紀の戦間期、特に世界恐慌の余波を受けて福祉制度が充実された。これをひとつの契機に、イギリスで社会主義思想が大きく支持を集めて労働党が躍進した。救貧法が最終的に廃止されるのは、労働党が政権を担った戦後、アトリー政権での1948年の国民生活扶助法成立(en)によってであった。

世界への影響


























重商主義資本主義の浸透は、同時に貧民の発生をも意味していた。ヨーロッパ各国は当初これを弾圧していたが、エリザベス救貧法の思想、すなわち貧民をある程度救済することによって社会秩序が保たれうるという根本思想はビスマルクのもとドイツなど各国で導入され、貧民や労働者の生活改善策が実施された。
いっぽうで民主主義思想の浸透にともない、生存権への関心も高まっていった。フランスでは1791年憲法が発布され「孤児を養育して病弱な貧民を助け、健常な失業者に労働を与えるために、公的救済の一般的施設が設立され、組織される」と規定された。さらに1793年憲法では「公的救済は神聖なる負債である」と踏み込んだ表現になった。ドイツにおいても、ヴァイマル憲法1919年)を嚆矢とする社会保障制度が整えられた。
日本において救貧法と同種の初めての統一的法令は、明治7年(1874年)の恤救規則であった。また昭和4年(1929年)には救護法、戦後には生活保護法が成立し、生存権の法整備が進められた[5]

脚注


























  1.  新約聖書2 共同訳聖書実行委員会、日本聖書協会・訳 佐藤優・解説 文藝春秋 2010年 ISBN 9784166607822 p263
  2.  浮浪者・物乞いに厳しい制度だったことから、のちにマルクスが「血なまぐさい立法」と評している。
  3.  マルサスは、貧困は人口増加によって必然におこるものであり、安易な救済よりも人口抑制をはかるべきと主張した。また貧民には貧しいことを恥じるべきであるとした。
  4.  当時、院外救貧は35万人、懲治院内救貧は10万人と推定されている。
  5.  世界大百科事典』(1988年版)(平凡社)「公的扶助」の項目

参考文献



























関連項目



























外部リンク



























救貧法

1601年、エリザベス1世の時に制定された貧民救済の法律。社会保障制度の始まりであり、教区ごとの救貧税によって貧民を救済する内容であった。1834年に改正救貧法(新救貧法)が制定され、教区の役割は終わり、行政の仕事とされることとなったが、同時に自助が強調されるようになった。
イギリスの絶対王政エリザベス1世の時の1601年に制定された法律 Poor Low 。当時イギリスでは、第1次エンクロージャーが進み、土地を無くした農民が年に流れ込み、その貧困が問題となっていた。それまでイギリスでは国王が命令して教会から徴税した資金をもとに貧民に給付するというキリスト教的慈善心に基づいた慣行があったが、エリザベス1世の政府は、まず1572年にそれを法制化し、ついで1601年に全面的に改定して救貧法として制定した。これはその後のイギリス救貧法の出発点となるもので、すでに今から400年前に始まっていることに注意を要する。

エリザベス救貧法
1601年のエリザベス救貧法の内容は、教区ごとに救貧税を設けてそれを基金とし、働くことの出来ない老人や身体障害のある人にはお金を支給してその生活を援助し、働く能力のある貧民に対しは亜麻・大麻・羊毛・糸・鉄などの原料を与えて就労させた。また貧民の子弟には技術を教えるために徒弟に出すことを奨励した。その特色として次の点が上げられている。
  • 地方の教区ごとに課税し、それを財源に働くことの出来ない「労働無能力者」を救済する義務がある。
  • 働くことの出来る「労働能力のある貧民」には出来るだけ働くようにし、「ワークハウス」で強制労働もあった。
  • 「労働無能力者」の親族には扶養義務があるとした。
「労働能力のある貧民」に対する「ワークハウス(勤労場または懲役場)」では、「劣等処遇原則」つまり、そこで働く者に対しては独立して働いて者に対する処遇を上回ってはいけない、という原則が適用された。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.3-4>


救貧法の周辺
エリザベス時代に救貧法が制定された背景には、イギリス宗教改革によって修道院が解体されたことがあった。貧民や捨て子は修道院に収容するという従来の道が断たれたため、1601年の救貧法(それまでも出されていた貧民対策のための法律の集大成として制定された)では、教区(パリッシュ)がその役割を替わって引き受けることとなった。教区は住民の信仰生活の核、近隣共同体であり、権力の統治の末端でもあった。教区教会には司祭が赴任し、住民は教区の寄合に集い、道路や橋のメインテナンスと貧民や婚外子の措置にあたった。全国で1万ほど、平均するとこの頃の教区人口は数百人程度で、住民は互いに顔も名も見知っていた。
 救貧法と同じ1601年に、「チャリティ用益法」が制定され、貧民救済、教育と宗教の振興、その他コミュニティの益のために設立される公益団体の法的根拠となった。中世以来、チャリティで運用されていた大学などの設立根拠もここで確定した。チャリティ法は現在まで継承されており、イギリスの社会政策の特徴は税(行政)とチャリティ(民間の慈善)という二本柱からなっているが、その根拠となる法律の源が同年に制定されたこの二つの法律である。<近藤和彦『イギリス史10講』2013 岩波新書 p.100-101>
Episode 浮浪人乞食処罰法
エリザベス1世の時代にはさまざまな社会政策が打ち出されたが、1598年に制定された浮浪人乞食処罰法は、矯正院を設置し、浮浪人、乞食は「上半身を裸にして体が血で染まるまで公衆の面前で鞭打ちした」後に、生まれた教区に送還して労働に従事させるというものだった。<『世界各国史・イギリス史』旧版 山川出版社 p.142>


エリザベス救貧法の背景
エリザベス救貧法で救済されたのは、資本主義社会での貧困層ということではなく、寡婦や独居老人がその対象であった。その背景には近世イギリス社会の家族のあり方が関係している。  近世イギリスの家族は、(1)早い時期から単婚核家族であること、(2)晩婚であること、(3)だいたい14歳前後から、男女とも短くても7年、短ければ10年以上、よその家庭に奉公に行くライフサイクル・サーヴァントの習慣があったこと、の三点の特徴がある。この奉公は修行期間と考えられ、結婚しない。従って結婚は20代後半、当時の世界で見ればかなり晩婚であった。また親元にはかえらないので、親は子供に養ってもらう事はない。そのため、親のどちらかが死ねば、どちらかが独居老人となる。また当時は病気で若死にすることが多かったから、寡婦や孤児になる率も高かった。エリザベス救貧法が対象としたのはそのような寡婦や孤児、独居老人であった。<川北稔『イギリス近代史講義』2010 講談社現代新書 p.26-33>


産業革命期初期のスピーナムランド制
18世紀になると第2次エンクロージャーが進行し、産業革命がもたらされた結果、農業社会から工業社会に移行し、工場労働者が急増したが、その労働条件は劣悪で、低賃金による貧困層も増大した。そのため、エリザベス救貧法によるワークハウスでは収容しきれなくなった。そのため、1795年にヤング法でスピーナムランド制が作られた。これは低所得者の生活費を補助するもので、パン価格と家族人数によって世帯に必要な最低生活費を算出し、所得がそれに満たない場合にその差を支給する、という制度であった。今日でいう最低賃金制度の萌芽であった。その財源は土地保有税で調達したため、土地への課税によって地主階級を没落させ、最低賃金を国が負担することで労働力を増加させて産業革命を助長する側面があった。このような最低賃金制度に対しては、逆に労働者の勤労意欲を疎外し、安易な生活に流れた労働者が子供を産めば人口増につながり経済を圧迫する恐れがあるとして、人口論で著名なマルサスは批判している。またリカードは貧困者への公的扶助を貧困者以外から取ることは、その人々の可処分所得を減らすことになり、経済成長を妨げるとして批判した。<橘木俊詔『安心の社会保障改革-福祉思想史と経済学で考える』2010 東洋経済新報社 p.5-6> “社会保障か、自助か”という議論はこのころからあったわけだ。

1834年の新救済法
産業革命が進行し、資本家層が力をつけてくると、マルサスやリカードに代表される救貧法・スピーナムランド制に対する批判は徐々に強まり、1834年に救貧法は改定されることとなった。この新救貧法は、
  • スピーナムランド制は廃止。
  • ワークハウス以外での勤労者の救済を厳しく制限、働くことの出来る人には働くことを強制し、それを拒否した場合は厳罰で臨む。
  • 地方の教区ごとの救貧対策を改め、恒久的な中央救貧行政局を設置。
このように新救貧法はアダム=スミス以来の経済自由主義の思想によるもので、労働者救済の側面では大きく後退した。労働者保護の立法は、同時に進んでおり、1823,4年には労働者の団結権の容認、1833年には工場法も制定される中で、この新救貧法に対して労働者は強く反対した。しかし、内容においては後退したものであったが、これによって教会や地域を単位とした救済ではなく、国家が統一的な施策で対応するという社会保障制度への第一歩となったという評価もある。<橘木 同上 p.10-12>  → ウェッブ夫妻 国民保険法 イギリスの社会保障制度

参考 1834年救済法の評価
現代イギリスの著名な歴史家の一人であるホブズボームが産業革命後のイギリスを分析したその著『産業と帝国』で、次のように言っている。
(引用)社会保障が労働者自身の努力に依存していたかぎり、したがってそれは中産階級の基準で見ると経済的に非能率になりがちであった。それが、わずかばかりの公共の援助を決定する彼の支配者に依存しているかぎりでは、それは物質的救済の手段であるよりはむしろ、堕落と抑圧の機関となった。1834年の救貧法ほど非人間的な法律はほとんどない。それはあらゆる救済を外部の最低賃金よりも「望ましくない」ものとし、貧民をその貧困のゆえに罰し、より以上に貧民をつくろうとする危険な誘惑からかれらを遠ざけるてめに強制的に夫と妻と子をひきはなして、監獄のような授産場に救済を限定したのである。それが完全に実施されたことはなかった。というのは貧民がつよいところではかれらはその極端さに抵抗したからであり、やがてそれはわずかながら刑罰的ではなくなった。しかしそれは第一次世界大戦の前夜にいたるまでイギリスの貧民救済の土台となっていたのであり、チャーリー・チャップリンの子供の時の経験は、ディッケンズの『オリヴァ・ツイスト』が1830年代のそれにたいする民衆の恐怖を表明したときと、ほとんどそのままであったことを示している。<ホブズボーム/浜林正夫他訳『産業と帝国』1984 未来社 p.106>

グレシャム

イギリスのエリザベス1世に仕えた役人で貨幣発行に当たる。
 エリザベス1世に仕えた役人で、グレシャムの法則-”悪貨は良貨を駆逐する”-を提唱したことで知られる。前代のヘンリ8世の時、財政窮乏のために貨幣の品質を落としてを濫発したのに対し、1860年にグレシャムの提言により、現行の低品質の貨幣を回収し、その名目価格よりも多少低い割合で新しい貨幣と引き換えた。また、金銀の交換比率を一定にして、通貨の取引を安定させた。 


カール・マルクス 41 
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1637291060/

558 考える名無しさん[] 2021/12/01(水) 21:57:36.59 ID:0 
>>557
黒死病は14世紀、エリザベス一世が救貧法を施行したのは17世紀初頭、産業革命による近代資本主義の成立は18世紀後半だよ。

559 考える名無しさん[] 2021/12/01(水) 22:17:24.18 ID:0 
歴史学的にはイギリスの救貧法の歴史は
14世紀末1388年のケンブリッジ法令にまで遡るとされているよ。
黒死病でがたんと減ったイギリス人口は17世紀初めまで
なかなか元に戻らなかった。



9 件のコメント:


  1. BIは新自由主義の政策です。基本的に地方自治を廃止し合理化する代わりにBIを導入するから現実性が高いのです。貧困を救いたいのなら悪いことではありません。BI論者は自信を持って新自由主義者を名乗るべきです。BIを救貧法(日本のBI論者は社会保障も維持するのでこちらに当たる)と結びつける場合もありますが、この場合、現在の生活保護制度を改革する視点が生まれるべきですが、なぜかそれがありません。そもそも現在の予算の効率的使用を模索しないのはおかしいのです。それはBI導入が一種のポーズだからです。
    JGPはケインズ一般理論の結論から導き出されています。労働市場は商品市場とは違うのです。
    BIとJGPの違いを概念化せずに一緒くたにする人は信用できません。

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  2. 毎年120万円を配れば日本が幸せになる
    ⁦‪@q81pY70eh38D7Mp‬⁩


    カナダのドーフィンという町で1974~79年の5年間(実施期間は4年間)、ベーシックインカムの大規模な実証実験が行われました。その結果、幸福度が上がったというのももちろん、交通事故やケガで入院する人が減ったとか、DVの減少とか、いろいろポジティブな面が出てきたのです。(井上智洋)

    2021/02/02 13:40


    https://twitter.com/q81py70eh38d7mp/status/1356462495184035842?s=21

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  3. 毎年120万円を配れば日本が幸せになる
    ⁦‪@q81pY70eh38D7Mp‬⁩


    カナダのベーシックインカム実験では、労働供給は確かに若干減っているのです。でもその中身を見ると、十代の人たちが働かなくてよくなって学校へ行くようになったとか、ポジティブなものなのです。あとは育児をしていたお母さんが、育児休暇をより長く取ることができるようになったとか。(井上智洋)

    2021/02/02 18:40



    https://twitter.com/q81py70eh38d7mp/status/1356538005582827520?s=21

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  4. マルクスは救貧法に否定的とされるが、それは貧困の原因を断ち切れと言っているに過ぎない。
    資本論で言及されるように、
    結果としての物価高、農村への強制移住などは真の解決から遠い。

    返信削除
  5. マルクスは救貧法に否定的とされるが、それは貧困の原因を断ち切れと言っているに過ぎない。
    資本論で言及されるように、
    結果としての物価高、農村から都市への強制移住などは真の解決から遠い。

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  6. カントは『人倫の形而上学』で教会が行う救貧事業は国家予算ではなく信者の寄付を
    原資にすべきというようなことを言っている。
    マルクスもそれを踏まえているのではないか?
    イギリスのような国家による救貧は、物価高や都市への強制移住など問題点を孕み、
    根本的解決にならないと『資本論』では述べている。
    マルクスがカントの特に法学を読んでいたことは父への手紙(全集40巻)でわかる。
    先の書き込みや柄谷の7月の講演では、マルクスはヘーゲルよりカントの弟子という
    ことになる。
    『資本論』にあるのはヘーゲル的アウフヘーベンではなくカント的アンチノミーだからだ。

    返信削除



  7. カントは『人倫の形而上学』で教会が行う救貧事業は国家予算ではなく信者の寄付を
    原資にすべきというようなことを言っている。
    マルクスもそれを踏まえているのではないか?
    イギリスのような国家による救貧は、物価高や都市への強制移住など問題点を孕み、
    根本的解決にならないと『資本論』(1:13:7, 1:23:5:f)では述べている。
    マルクスがカントの特に法学を読んでいたことは父への手紙(全集40巻)でわかる。
    先の書き込みや柄谷の7月の講演では、マルクスはヘーゲルよりカントの弟子という
    ことになる。
    『資本論』にあるのはヘーゲル的アウフヘーベンではなくカント的アンチノミーだからだ。

    カール・マルクス ? 50
    https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1657807016/


    マルクス:
    資本論1:13:7
    …一八三四年には工場と機械の大増加、職工の不足。新救貧法が工場地方への農村労働者の移住を促進した。…
    [1834年の新救貧法はマルサスの思想を反映したのものらしい]

    資本論1:23:4
    …労働者階級中の窮乏層と産業予備軍とが多くなればなるほど、公認の被救恤的窮民〔救貧法による救恤を受ける窮民〕がそれだけ多くなる。これは資本制的蓄積の絶対的・一般的な法則である。…
    [マルクスは1870年の報告書を主に参照。ブレグマンが以下で偽造と指摘した報告書は1834年のもの]

    資本論1:23:5:f
    …アイルランドにおける日雇農村労働者の状態にかんする透徹した叙述が、アイルランドの救貧法監督官の報告書(一八七〇年)にある。


    二〇年前にくらべて、必要生活手段の価格は約二倍、衣類の価格はちょうど二倍である。…

    資本論1:24:2

    …「貧乏人がどこにでもいる」と、エリザベス女王はイングランド巡遊ののちに叫んだ。彼女の第四三年には、ついに救貧税の実施によって、被救恤的窮民を公けに認めることを余儀なくされた。「この法律の立案者たちは、その理由を述べることを恥じて、あらゆる慣例に反し、何らの理由文もつけないでこれを発布した。」[byコベット] チャールズ一世第一六年の条例第四号によって、この救貧法は永久的なものとされたが、事実上、より堅固な新形態を受けとったのはやっと一八三四年であった。〔760〕宗教改革のこれらの直接的影響は、その最も永続的な影響ではなかった。〔761〕寺領は古代的土地所有諸関係の宗教的堡塁をなしていた。前者の崩壊とともに、後者ももはや存続しえなくなった。

    返信削除
  8. 小沢修司(2002)『福祉社会と社会保障改革―ベーシック・インカム構想の新地平―』高菅出版。 
    ――(2008)「日本におけるベーシック・インカムに至る道」、武川正吾編(2008)所収。
    ――(2009)「ベーシック・インカムーひとつの試算」『週刊金曜日』三月六日号

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  9. 984 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 2023/03/08(水) 20:45:00.04 ID:808K8lfv
    スコット・サンテンス 他1名
    ベーシックインカム×MMT(現代貨幣理論)でお金を配ろう: 誰ひとり取り残さない経済のために
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    森永卓郎さん(経済アナリスト)推薦!
    増税なしで国民が一律給付を受け続ける。誰もが幸せになる経済社会が実現可能なことを本書は教えてくれる。
    無条件・個人単位・継続的現金給付のベーシックインカムと通貨発行権活用による国債発行で積極財政をとなえる話題の経済理論MMT(現代貨幣理論)を統合する世界。
    税収を財源としないお金の仕組みは、人々がそれぞれのニーズを求めた生き方を選択するために必要十分な所得を保証。
    これまでのベーシックインカム論をさらにパワーアップした最新理論をわかりやすく解説

    ベーシックインカムを税財源でまかなうことは可能なのでしょうか。
    限りある税金でベーシックインカムをまかなおうとすると、現在の福祉制度などを削減することになってしまいます。
    そんなことにならないためには、税金を財源としないベーシックインカムの方法を考えないといけません。
    ここで、登場してくるのが、国家の通貨発行権を活用した国債発行で通貨供給量を増やし、政府の積極財政で政策をすすめるMMT理論(現代貨幣理論)です。
    MMTは政府の赤字は民間の黒字ということで、インフレ率に注意しながら、通貨供給をおこなうことが可能であるという立場をとります。
    このとき、税金は、インフレ調整弁として機能し、国家財政の財源として主要なものとしてあつかわれません。
    MMTにおけるお金とは、国家の富とサービスを生み出す実際の資源をひきだすための切符のようなものであり、その国家の富とサービスを拡充していくことが本質的な経済のありかただと説きます。
    ただ、いままでのMMT理論では、財政政策の柱に、雇用保障プログラム(JGP=job guarantee program)という政府雇用で失業をなくす政策を重視してきました。
    また、この雇用保証プログラムが、通貨の供給量の調整にも用いられるということでもありました。
    しかし、本書では、働くこと(労働)の本質から考えて、個人個人の生きるためのニーズにしたがって働くのがのぞましいのであって、かならずしも雇用されていることだけが、人が生きていく尊厳を保証するわけではないといいます。
    ですから、まずは、人々がそれぞれのやりたいことを実現するために、第一に所得(お金)を保証して、そのあとで、雇用がやってくるべきだというわけです。
    そのほうが、MMTが主張する実物資源を生み出していくためにも有効な世の中になるということなのです。

    ということで、ベーシックインカムにとってもMMTにとっても、本当は、お互いにとても必要で重要なパートナーであることを本書は、主張します。
    まさに、現在の政治・経済・社会の困難さを突破する最先端の思考といえるでしょう。

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