天岩戸別八倉比売神社 | 徳島県徳島市国府町矢野531 | 八倉比売命(天照大神) | 社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。はじめは杉尾山に連なる 気延山の山頂にあったが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。 安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年 (孝安天皇15年)となる。社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。 社殿裏手には五角形の磐座がある。一説には 卑弥呼の墓であるという。また、近くに「天の真名井」と呼ばれる井戸があり、現在は「大泉神社」として祀られている。 |
阿波国統一(古代史の復元)
阿波国統一
大国主命・饒速日尊の話し合いによって、阿波国はヒノモトに所属することになったのであるが、阿波国はまだ未統一の地域であった。阿波国の統一が急務となったのである。AD33年頃におけるこの頃、饒速日尊は大和国内の安定のために尽力する必要があり、饒速日尊自身は動くことができなかった。
阿波国における統一関連伝承をまとめてみると以下のようになっている。
神社 | 鎮座地 | 祭神 | 記録 |
忌部神社 | 徳島市二軒屋町二丁目四十八 | 天日鷲命 | 太古天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙製麻紡織の諸業を創始され特に 天照大御神が天の岩戸にお隠れになった時、白和幣(しろにぎて)をつくり神々と共に祈祷(いの)られ天の岩戸開きに 大きな功績を挙げられた。 その子孫は忌部と称し国家祭祀の礼典を掌り、神武天皇の御代阿波国に下りこの郷土を開拓し代々 朝廷に荒妙御衣(あらたえみそ)(穀木、麻で織る)を貢上し、それは大嘗祭(天皇即位の大礼)の用に供された。 <神社略記> |
高越神社 | 麻植郡山川町字木綿麻山四番地 | 天日鷲命 | 神武帝の時天富命は天日鷲命の裔孫を率いて肥饒の地を求めて当国に来り今の麻植・美馬・三好等の諸郡を開拓し楮 麻の種をまき、並に荒妙を作り朝廷に貢進、なほ歴朝の大嘗祭に奉供するを例として。よつてその祖神をこの山に祭り、 郷民崇敬して今日に至った。<案内板> |
大麻比古神社 | 徳島県鳴門市大麻町板東広塚13 | 大麻比古大神・猿田彦大神 | 神武天皇の御代、天太玉命の御孫天富命勅命を奉じて洽く肥沃の地を求め、阿波国に到りまして、麻楮の種を播殖し、 麻布木綿を製して殖産興業の基を開き、国利民福を進め給い、その守護神として太祖天太玉命を此の地に斎き祀る。 大麻比古神社は、太祖天太玉命と猿田彦大神の御神徳を称えて奉った御社名と伝えられる。 猿田彦大神は、昔大麻山の峯に鎮まり坐しが後世に至り、本社に合せ祀ると伝えられる。延喜の制名神大社に列し、 阿波国一宮と称え、阿波、淡路両国の総産土神として崇め奉る。 |
悲願寺 | 神山町神領高根 | 以前は山神社で巫女が神を祀っていたといわれている。悲願寺は標高700mにあり境内に天照大御神の祠を祀り卑弥呼の 宮居跡と言われている。神山町には「昔は山の上から開けてきた」との伝承が遺っている。悲願寺の奥には、祭祀遺跡と言われ る天遇岩や台石があり、寺なのに千手観音や天照大神がまつられている神社様式の本堂である。 | |
天岩戸立岩神社 | 徳島県名西郡神山町鬼熊野字元山 | 天照大神の御魂は手力雄神によって徳島市国府町の気延山に降臨した。 「空よりふり下りたる山の大きなるは阿波国にふり下りたるを、天の元山といい、その山のくだけて、大和国にふりつきたるを天香具山というとなんともうす」阿波風土記 高天原に住んでいた人たちが降りたところを天の元山といい、この地であるといわれている。 | |
天岩戸別八倉比売神社 | 徳島県徳島市国府町矢野531 | 八倉比売命(天照大神) | 社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。はじめは杉尾山に連なる 気延山の山頂にあったが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。 安永2年(1773年)に書かれた文書には、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年 (孝安天皇15年)となる。社伝には天照大神の葬儀の様子が記されている。 社殿裏手には五角形の磐座がある。一説には 卑弥呼の墓であるという。また、近くに「天の真名井」と呼ばれる井戸があり、現在は「大泉神社」として祀られている。 |
天岩戸別神社 | 徳島名東郡佐那河内村上字牛木屋15 | 天手刀雄神 天照皇大神 豊受皇大神 | 『先代旧事本紀』の「天手刀雄神批者座ニ佐那県一也」と記録されている。すなわち、天手刀雄神の降臨地である。 |
中野宮 | 穴吹町 | 葦原中国を治めるためにニニギノミコト(天照大神の孫)が天降って都をつくった場所(天孫降臨の地)だといわれている。現在「中野宮」には穴吹町 商工会青年部により「文曲星宮殿」が建設されている。 |
阿波国に降臨したのはだれか
阿波国は饒速日尊自身が降臨したという伝承を持たないが、その代わりに天手刀雄神、天日鷲命が降臨したようである。これらの人物の関係を推定してみると
天手刀雄神
壱岐の天手長男神社の記録によると、
天照大神が天岩屋に隠れられえとき、岩戸を引き明けて出された、この神は力が秀でておられたので、手力の名前を付けられた。後に、天孫降臨にしたがって、ながく天皇家の守護のためにはたらかれた。天手力男命の神の別名は、天石戸別命、櫛盤窓命、伊佐布魂神、明口名戸命・阿居太都命、天背男命、天岩戸別安国玉命、天嗣鉾命とも言われる。
『安房斎部系図』
「天背男命(天手刀雄神)の后神が八倉比売神で、その子が天日鷲翔矢命(阿波忌部の祖)」、 天太玉命の妻「天比理刀咩命」の兄弟が天日鷲命となっている。
『続・阿波国風土記』
天日鷲命の別名が天手刀雄神であり、八倉比売は妃神である。
どちらが正しいのであろうか、年代から判定してみよう。天太玉命と天手刀雄神の系統を直系であらわしてみると
天太玉─天櫛耳─天富命
天手刀雄神─天日鷲命─大麻比古─由布津主命
となっている。
安房郡白浜町の式内社 下立松原神社 の由緒には 「天富命が天日鷲命の孫由布津主命,その他の神々と当地方開拓に上陸し, のち由布津主命が祖神の天日鷲命を祀った社」とあり、神武天皇と同世代の天富命と天日鷲命の孫由布津主命がほぼ同世代であること がわかる。そして、天手刀雄神=天日鷲命であるなら両者は一致する。
このことより、天日鷲命と天太玉命がほぼ同世代となる。天孫降臨直後でAD30年頃のことである。神武天皇即位よりも60年ほど昔となり、活躍している人物は神武天皇時代より2世代ほど前の人物となり、時代的には一致している。八倉比売命が天日鷲命の母なのか妻なのかであるが、八倉比売命が阿波国でしばらく活躍していることから母というより妻という方が自然である。
天日鷲命は天背男命と同一人物と思われることから神皇産霊神(飛騨王・春建日姫)の子と伝えられる。また、八倉姫は天岩戸別八倉比売神社では撞賢木厳御魂疎日向津比賣の別名を持っている。すなわち天照大神として扱われているのである。撞賢木厳御魂疎日向津比賣は日向津姫として日向で誕生して日向で一生を終えている。年代から考えて、おそらく、八倉姫は日向津姫の妹ではないだろうか。
以上の考察により、神皇産霊神の子である天日鷲命がその妻八倉姫(日向津姫の妹)とともに、阿波国に下ったということが推定される。
┏━日向津姫 ┃ ┃ 思兼命┓ ┏━天御影命 呉太白・・・ 伊弉諾尊┓┃ ┣━━┫ ┣╋━━和歌姫┛ ┗━天表春命 伊弉冉尊┛┃ (丹生都姫) ┗━━矢倉姫┓ ┣━━大麻彦━由布津主・・忌部氏 ┏━━天日鷲命┛ 神皇産霊神━┫ (天手刀雄神・天背男命) (春建日姫) ┗天比理刀咩命┓ ┣━━━天櫛耳命━天富命(安房国) 高皇産霊神━━━━天太玉命┛ |
降臨経路
阿波国に降臨したと伝えられているところは
① 気延山 徳島市国府町
② 天岩戸別神社 徳島名東郡佐那河内村上字牛木屋15
③ 中野宮 穴吹町
天日鷲命は饒速日尊あるいは高皇産霊神(天活玉命)から命を受けての降臨のはずなので、その出発地は金剛山麓と思われる。ここから、千早川を下り、大和川から大阪湾に出て淡路島を経由して阿波国に降臨するはずである。降臨後小高い山に登って周囲を観察すると思われるので、最初の降臨地は①の気延山が最適である。時期は倭国とヒノモトとの境界線が確定した直後でAD35年頃のことであろう。
降臨の目的
伝承をたどると阿波国が本格的に開拓されたのは、神武天皇即位後天富命の降臨以降であるので、開拓よりも実地調査が主目的であったのではあるまいか。
降臨関連伝承地が平野部ではなく、悲願寺、天岩戸立岩神社、天岩戸別神社、中野宮などいずれも山間部であることからそれが裏付けられる。山間部は周辺の視界が広いので実地調査には最適であることと、山から山へと狼煙、鏡を利用した太陽光の反射などで連絡が取りやすい事などがメリットとして浮き上がってくる。阿波国では山頂から開けてきたと伝わっているのも、重要人物が山岳地帯から降りてきたことを意味しているのではないだろうか。
天石門別神は天照大神が隠れた天岩戸の神格化した神とされているが、櫛石窓神の別称で、太玉命の子に当たる。また、天石門別神は天岩戸を開けた手力雄神と思われるが、この神は銅鐸のパワーを秘めているように思われる。阿波では名東郡佐那河内村に天岩戸別神社が鎮座しており、この佐那はサナギであり、銅鐸である。実際に銅鐸が埋納されており、それを祠で祀っていた。
新技術の伝授というよりは神秘的現象を見せて、周辺地域をヒノモトに加盟させていったという感じを受ける。その祭祀の中心となったのが八倉姫であろう。
八倉比売神社
神社の由緒書きは以下の通り(一部抜粋)
当社は鎮座される杉尾山自体を御神体としてあがめ奉る、江戸時代に神陵の一部を削り拝殿本殿を造営、奥の院の神陵を拝する。これは柳田国男の「山宮考」によるまでもなく、最も古い神社型式である。
奥の院は海抜116米、丘尾切断型の柄鏡状に前方部が長く伸びた古墳で、後円部頂上部に五角形の祭壇が青石の木口積で築かれている。青石の祠に、砂岩の鶴石亀石を組み合わせた「つるぎ石」が立ち、永遠の生命を象徴する。
杉尾山麓の左右に、陪塚を従がえ、杉尾山より峯続きの気延山(山頂海抜212米)一帯二百余の古墳群の最大の古墳である。
当八倉比賣大神御本記の古文書は、天照大神の葬儀執行の詳細な記録で、道案内の先導伊魔の離神、葬儀委員長の大地主神、木股神、松熊二神、神衣を縫った広浜神が記され、八百萬神のカグラは「嘘楽」と表記、葬儀であることを示している。
元々、杉尾山に連なる気延山の山頂に鎮座していたが、後に気延山南麓の杉尾山に鎮座した。安永2年(1773年)に書かれた文書によれば、鎮座から2150年と記されており、逆算すると紀元前378年(孝安天皇15年=古代史の復元ではAD151年)となる。
神社裏に前方後円墳があり後円部に五角形に石組みされた墓があり、卑弥呼(天照大神)の墓と伝えられている。しかし、古墳時代となれば時代が大きくずれるので、この墓はその子孫の墓ととらえるべきであろう。元々八倉姫神社は気延山の山頂に鎮座していたようなので、八倉姫の本当の御陵は確証はないが山頂にあると思われる。
八倉姫葬儀委員の中に木俣神がいる。木俣神は大己貴命と因幡国の八上姫との間の長子でAD20年頃誕生している。この木俣神と同一人物であるなら八倉姫の葬儀委員を務めることに年代的に矛盾はない。八倉姫の葬儀が行われたのはいつ頃のことであろうか。日向津姫の妹ということで、その誕生はAD10年頃と推定され、AD80年頃の神武天皇即位前後ではないかと想像する。それまで、八倉姫は悲願寺など山岳地帯での祭祀によってカリスマ性を得ることができ、そのカリスマ性によって阿波国が治まっていたのではないだろうか。その八倉姫が亡くなり、神武天皇即位前後で阿波国が不安定化してきて、その対策として天富命が朝廷から派遣されてきたと推定する。
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