国号の由来
昭和九年初頭の第六十五回帝国議会において、頭山満氏ほか数氏の名を以て、国号制定に関する請願なるものが提出せられた。我が国は
大日本帝国なのか、
日本国なのか、またこれを口にするに或いはニッポンと云い、或いはニホンと云い、外国人はジャパンとも、ヤポンなどとも云っているが、この際国家において正確なる呼称を定められたいと言うにあったらしい。一大帝国の国号がハッキリしないという事は、考えてみれば妙な次第ではあるが、外国人とも交渉が少く、また主として漢字に依拠した時代にあっては、それでもさして不都合を感ずる事なく、千数百年来それで間に合って来たのであった。しかし今日ではもはやそれでは許されぬ。漢字にたよらず、もっぱら自国の文字でそれを仮名書きにする西洋人にとっては、ニッポンとニホンとは明らかに別の名である。ことに各自自国の慣例によって、ジャパン・ヤポンなどと呼ぶ場合においては、一層物が面倒になる。さきに米国では外国よりの輸入商品に対して、その製造地を英語を以て記入すべしとの規定から、「
ニッポン製造」の記入ある我が物貨の輸入を拒絶し、或いはこれに対し罰金を課すとかのこともあったと聞く。かかる次第であってみれば、ここにその制定の急務が叫ばれるに無理はない。
実を云えば我が帝国が東方海上に孤立して、諸外国と交渉を有しないような時代には、国号というべき程のものの必要は無かった筈で、神武天皇大和平野を平定して、ここに帝国の
基を定め給い、それより皇威四方に発展して、次第にその大をなすに至ったのであったから、自然とヤマトの名が、その国家を指示する場合に用いられるようになっていたのである。しかしそれは勿論口称だけのことで、未だ文字を以てこれを表わすことは無かった。しかるに三韓服属以来、かの国人は古来支那人使用の文字のままに、これを「
倭」と号し、或いは「
大倭」と敬称する例となり、我が国またこれに倣って、その文字を在来の呼称なるヤマトの語に当てたのであったが、しかもそれは我が国号としては、適当の文字では無い。
三韓人はまた一方に、我が国が東方
日出処にあるが故に、これを
日本と称し、我が国でもそれを枕言葉として、「日の本のヤマト」なる称呼が用いられた。かくて推古天皇の
使いを隋に遣わし給うに及んで、初めてその義にとって、「
日出処」または
東の文字を用い給うたが、しかしこれまた以て我が国号として定まったものではない。その後「日の本のヤマト」なる枕言葉の「日の本」が、直ちにヤマトの語を表わす文字として使用せられ始めて、唐との交通に際してもその文字が我が国号として用いられ、唐人はそれを自国の字音のままに音読して、ニッポンの名が始めて世界的に認められたものであったと解せられる。かくて我が国でも、いつしかその文字に重きを置きてこれを音読し、さらにその発音を和らげてニホンと呼び、双方並び行われて今日に及んでいるのである。すなわち
左に我が国号が、古来いかなる変遷を経て、以て今日に至ったかを叙述しよう。
我が国家が始めて直接に支那の国家と交渉を持つに至ったのは、我が国では応神天皇の御代、支那では東晋の末であった、爾来、宋・斉・梁等の、所謂南朝の諸国と交通を重ねたが、その後国交中断すること百余年。隋起って南北両朝の諸国を統一するに至り、推古天皇は久し振りに小野妹子を遣わして、さらに国際間の
好みを通ぜしめ給うたのであった。この時の我が国書には、「日出処の天子書を
日没処の天子に致す、
恙なきや」とあったという。しかしながら、隋においては古来の伝統によりて依然我が国の事を倭国と称していたのであった。
倭国とは、
委しくは倭人の国の義で、もとは一国の名称として呼ばれたものではなかった。倭人とは、支那の古代において東方海島の住民を呼んだ名称で、それが統一なき
数多の小国に分れていたので、支那の史籍で始めて我が国のことを記した漢書の地理志には、「楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国となる。歳時をもって来献すと云ふ」とある。漢の武帝が朝鮮を征して、楽浪郡以下の四郡を置くに及び、我が九州地方なる所謂倭人の豪族らが、ここに始めて支那と交通を開くに至ったのである。もっともその以前から東方に倭人なるものの存在したことは、古代の支那人にも知られていたらしく、周の成王の時に倭人暢草を貢すとのことがあり、支那の古い地理書なる山海経にも、朝鮮半島の北部にあった蓋という国の位置を記して、「蓋国は鉅燕の南、倭の北にあり。倭は燕に属す」など見えている。燕は周末戦国時代において、今の遼東地方に割拠した強国である。けだし太古においては、所謂倭人は朝鮮半島の南部から、我が九州地方にわたりてその存在が認められていたのであった。
これらの倭人は統一なき
数多の小国家に分れて、所謂百余国を為し、各自王と称して、漢と交通を開いたものであったが、中にも今の筑前博多地方にあった
奴国の王は、後漢の光武帝の時に入貢してその
冊封を受け、印綬を賜わったことが後漢書に見えている。しかるに天明年間、その博多附近の志賀島から、当時奴国王の貰った金印と認められるものが発見せられて、黒田侯爵家の宝物となっているが、その文に「漢委奴国王」とある。ここに「委」は言うまでもなく「倭」の略字で、「漢の倭の奴国王」と読むべきである。この他に倭の面土国王交通の事も、また後漢書に見えているが、漢滅びて三国の時代となり、これら倭人諸国の中、魏に交通したもの三十国の多きに及んだとある。その中にも
邪馬台国最も勢力があって、その女王卑弥呼は、魏の明帝から親魏倭王に封ぜられ、金印紫綬を賜わった。この邪馬台国は、今の筑後の
山門郡地方に当る。神功皇后西征の時、
山門県の
土蜘蛛田油津媛を誅すとあるものは、けだしこの邪馬台国の事で、所謂土蜘蛛田油津媛なるものは、卑弥呼の後に出た女王であったと察せられる。
これら倭人の諸国は、一方には支那と交通してその冊封を受けたが、一方に我が大和朝廷の
御稜威は、次第にこれら倭人の諸国に及び、その帰順したものは我が帝国に併合して、その国王は所謂
国造・
県主などに任ぜられ、祖先以来の本領の安堵を得たのであったが、命を拒んで反抗したものは、やむをえず討滅せらるるの運命を免れなかった。されば彼らがもはや倭人王の名を以て、直接支那と交通するが如きことはつとに廃絶し、支那の史籍に見える倭人交通の記事は、晋の武帝泰始二年を以て最後とする。これより後約百五十年間、倭人の事は支那の歴史から全く跡を断った。かくて東晋の末、安帝の義
九年に至って、再び倭国交通の事が物に見え出した。これはけだし我が応神天皇が、使いを呉に遣わし給うた時のことを記したもので、我が大和朝廷が、直接支那と交通を開き給うた最初のものと見るべく、それが同じ「倭」の名を以て表わされていても、勿論古えの九州地方なる倭人国のことではなかった。しかるに支那人はその前後に区別あることを知らず、これを古えの倭国の延長と考えたのであった。のみならず、たまたま我が大和の名が、倭人国中で最有力であった古えの邪馬台国の名と類似していたがために、これを混同して、「大倭王は邪馬台国にあり」などと書いているのである。しかしそれは勿論認識不足の致すところであった。
降って唐代に至っては、我が国に対して一層の誤解を重ねて、日本は古えの「倭奴国」なりなどと云っている。そして後世に至るまでも、支那人が邦人を悪罵する場合には、よく「倭奴」の語を以てする例にまでなった。しかしながら、倭奴国なるものは、本来どこにも存在したものではなかった。前記の倭の奴国王が後漢の光武帝から王爵を受け、金印を賜わった事が古史に著名であることから、一方にはその「倭」と「奴」とを続け読んで、「倭奴」という国名なりと誤解し、一方には古えの倭人国を以て、直ちにその倭奴国なりと誤解し、さらに一方に我が大和朝廷を以て、その延長なりとするの、三重の誤解を重ねたものである。しかしながら彼らの間にも我が大和朝廷と古えの倭人国とを以て、本来別国なりとするの説が無いでもなかった。後に日本国号の条下引くところの唐書には、日本はもと小国にして、倭の併合するところとなり、よりて日本の号を冒すなどと、とんでもない誤説を伝え、また旧唐書には、
日本が倭を併合したと、全然反対の一説を収めているのである。この旧唐書の一説は正当の伝えである。要するに我が大和朝廷を以て古えの倭国の延長であるとなし、大和を以て古えの邪馬台国なりとなすは、誤解も甚だしいものであると謂わねばならぬ。
人或いは我がヤマトの名を以て、古代に支那に知られた倭人の最強国なる邪馬台国の名を襲うたものと解せんとするものが無いでもない。或いは古えの邪馬台国を以て、我が大和朝廷そのものであると解せんとするものもまた少くない。古く日本紀の編纂者の如きも、おそらくこの誤りに陥り、かの有名なる邪馬台国の女王卑弥呼を以て、我が神功皇后の御事なりと解したものと見えて、皇后の年代を直ちに卑弥呼の時代に擬定しているのである。また我が国の将来を予言したものとして、邪馬台詩なるものまでが、梁の宝志和尚の作として古く伝えられているのである。しかしながら大和はどこまでも邪馬台国ではなく、その名称の類似は、けだし偶然の暗合と解するを至当とする。もともとヤマトなる地名は、ただに畿内の大和と、この邪馬台国なる筑後の山門郡地方とのみならず、肥後にも古く同名の郷があり、播磨風土記にも同じ名の地が見え、他にも少からず諸々に存在するのである。これについては平安朝以来種々の解釈を下し、太古天地剖判以後、大和の地は泥湿未だ乾かず、人々山に
栖んで往来し、山に
蹤跡が多かったがために、ヤマトと云うのだとか、大和には太古草昧の世、未だ屋舎あらず、人民ただ山に拠っていたが故に、ヤマトと云うなどと説明しているが、それならばひとりこの地とのみは限らぬ、ヤマトの名はけだしその地形から呼ばれた場合が多かるべく、少くも畿内なる大和にあっては、青山四周の中に広い平野を擁し、その西方なる大阪平野との間に、大和川の吐け口において山門の状をなし、ここに通路を有するの形から呼ばれたものであったと解せられる。そして古来支那人が我が大和朝廷を以て、古えの倭国王の延長と誤解し、これに対して「倭」の字を用うる習慣であったがために、我が国でも漢字を採用するに当りてこれを以て直ちにヤマトの語に当つるの例となったのであった。
もっとも「倭」の字を以て大和朝廷に当つることは、つとに朝鮮において用い始めたところであったらしく、百済人・任那人等は、古く支那人の用例のままに、我が大和朝廷の御事を「大倭」と書く例であった。我が国でも天皇のお膝元なるヤマトに当つるに、「大倭」の文字を以てした事は、この慣用に従ったものであったと察せられる。後に「倭」の字を改めて、これを同音の「和」の字に代えたのは奈良朝の末で、けだし
好き意味の文字を取り換えたに他ならぬ。そしてそれは大君のまします御膝元の地として、オオヤマトと敬称したものであったが、後には文字をそのままに、単にヤマトと呼ぶ例となった。しかし琉球では、なお古代の呼び名のままに、畿内の一地方たる大和をオオヤマトと称し、日本国の場合には、これをヤマトと呼ぶ例であった。かくて畿内の一国としてのヤマトには、後までも「大倭」の文字がそのままに用いられ、我が国家の名としては、別に「日本」の文字が採用せられることになったのである。
「倭」または「大倭」の文字を以て我が日本国家を表わすことは、もと支那人の誤り用いたところをそのままに襲用したもので、応神天皇以来の支那の南朝諸国との交通の際には、便宜その文字を用いられたもののようではあるが、それはもとより我が国号として適当のものではない。またもともとヤマトとは大和一国の名であって、それに対して慣用上「倭」または「大倭」の文字を当つることはともかくもとして、広く大和朝廷治下の国家の号としては、別にこれを制定するの必要がある。ここにおいて推古天皇の小野妹子を隋に遣わし給うに当り、始めて「
日出処」の号を用い給うたのであった。しかし、これはただ従来の倭国の称を否定しただけで、我が国が地理上支那と東西相対するの位置の関係から、しか呼んだに過ぎないものであった。
支那を
日没処と呼ぶことは、実はこの時に始まったものではなく、その由来はすこぶる久しいものであった。応神天皇以来交通した東晋以下、宋・斉・梁等の所謂南朝の諸国は、通じてこれを「クレ」と呼び、「呉」の字を当つる例で、今に至ってなお「呉」の字をクレと読む習慣になっているのである。当時これら南朝の諸国に当つるに「呉」の称を以てしたことは、これらの諸国が古え三国時代の呉国の域に当るが為めで、それはつとに百済人等の用いたところをそのままに襲用したに他ならぬ。しかるに一方クレの語は、もと夕暮の義で、ひとり呉の旧地に国した東晋以下南朝諸国のみのことではなく、一般に我が国で西方なる支那を呼んだ名称であった。しかもそれに「呉」の字を当てたことは、たまたま我が国が始めて交通した支那の南朝諸国が、古えの呉国の域であり、それを「呉」として呼称する例であったからである。されば孝徳天皇白雉五年に、唐国に使いして多くの文書宝物を得て帰った
吉士長丹の労を
嘉して位を
陞し、
封二百
戸を給し、
呉氏の姓を賜わった如きは、唐国をクレと称し、そのクレ国に使いしたことを記念したためであるに外ならぬ。それに「呉」の字を当てたのは、古くそれをクレと読む例であったからである。また日本紀に、欽明天皇六年九月百済王が任那の日本府の臣、及び
諸旱岐に
呉の財を贈るとある場合のクレも、当時支那においては南北朝既に合一した後の隋のことであり、この他にも百済人が隋を
呉と称した例が日本紀に見えて、いずれも一般に支那をクレと呼んだ証拠となすべきものである。我が国は当時の地理上の知識において、知りうる限りの世界の最東にあるが故に、所謂
日出処、すなわち「
朝」の国であり、これに対して西方なる支那は日の
没る国、すなわち「
暮」の国である。そしてさらにそれよりも遠き西の国は、常に夜であるべき筈で、これを「
常世」の国と云った。それを文字に「常世」と書くのは、その原義を失った後の当て字である。
されば推古天皇の国書に、隋を指して
日没処とあることは、
畢竟古来の伝統によるクレの名を、別の文字を以て表わしたものに他ならぬ。そしてこれに対して我が国を日出処と書いたことは、単に修辞上の対句であった。けだし従来使用の倭国の称が、我が国号として不適当であるとの自覚から、かく改めたに過ぎないもので、未だこれを以て我が国号となすべき程のものではなかった。
隋の
煬帝我が国書を見て悦ばず、
鴻臚卿に命じて曰く、「蛮夷の書礼なきものあらば、
復以て聞する勿れ」とある。「復以て聞する勿れ」とは、天子の上聞に達せず、下僚において適当に善処せよとの義である、支那は古来自ら中国を以て任じ、天に二日なく、地に二王なしとの信条の下に、諸外国はことごとくこれを
東夷・
西戎・
南蛮・
北狄などと称し、天子はすなわち天命によりて、あまねく天下を統治すべきものとして、諸外国は当然中国に服属すべきものと認めていたのである。されば我が対等国家の礼を以て遣わした国書を見て、不満であったに無理はないが、しかもその我を以て旭日昇天の義ある日出処と称し、彼を目して凋落の義にも取れやすき日没処となした点においてまた少からぬ不愉快を感じたのであったに相違ない。ここにおいて我が第二回目の国書には「
東天皇
敬みて
西皇帝に白す」と改めた。文字は違ってもその意義においては同一であり、それが未だ国号と云うべき程のものではなかった事が知られる。かくてこの国書も対等の礼をとった点において彼の
容るるところとならず、「復聞する勿れ」の趣意で下僚において適当に善処したものであったと思われる。
「日出処」はすなわち「日の本」である。日の本は東方を意味する語で、本来はそれよりも以西にある地方の住民が、東方日出処を指して呼んだ語でなければならぬ。何となれば、自身その地に住するものにとっては、それが世界の最東にあり、他より見て所謂日の本に相当するものであるとしても、その地に在ってはさらにその東方に日出処の存在を認むべき筈で、したがって自己の住処を以て、自ら日の本なりと称したとは思われぬ。されば我が中世の語には、当時の地理上の知識において、我が
邦の最東に在りと認めた奥州を以て、日の本と呼ぶ例であった。かの最明寺時頼の著と俗称する
人国記に、「陸奥は日の本故に、色白うして
眼青みあり」とあるのはこれである。古く既に平安朝初期の新撰姓氏録上表の文にも、奥州のことを「
日出之崖」とある。鎌倉時代から室町時代にかけて、奥州津軽地方を占領し、北方に雄視した安東氏が日の本将軍と呼ばれたのも、また奥州すなわち日の本の義から取った名称であるに他ならぬ。また豊臣秀吉が小田原城攻囲の際、天正十八年五月一日附けを以て、その妻すなわち
大政所へ遣わした消息には、「小たはらの事はくわんとう(関東)ひのもと(日の本)までのおきめにて候まゝ、ほしころしに申付くべく候」とある。これは徹底的に小田原北条氏を討滅することが、直ちに関東奥羽全体の処分を定むる所以であることを述べたのである。我が古い
俗諺に、「
木乃伊採りが木乃伊になる」との語がある。奥州日の本は日出処であるが故に、暑熱甚だしく、その海岸にはこれがために黒焦げになった木乃伊が累々として横たわっている。それは高価なる薬材であるが故に、冒険者がしばしばこれを取らんとして、自身また木乃伊となると云う説話なのである。しかるに地理上の知識が進んで、奥州の東にさらに蝦夷が千島の存在が知らるるに及んで、所謂日の本の名がそこに移り、木乃伊採りの話までもこれに伴って東遷した。蝦夷一揆興廃記という書に、「日の出島は方角蝦夷より東北に当り、
道法凡そ三百余里と云へり。山谷、海上、共に難所ありて、言語に尽くし難し。さて日の出島に行くものは、十人二十人申し合せ、木乃伊を探りに行く事なり」とある類である。或いは「日の出浜」「日の本」などの名も、これらの地方について呼ばれた。寛文頃に出来た一種の蝦夷地図(函館図書館)には、今の北海道
胆振地方と見らるべき地域に、「是より東方日の本と云」と記入してある。万治三年の松坂七兵衛北蝦夷漂流記にも、風が西に変りて
日下に流されたとある。「日下」はすなわち日の本である。
南北朝頃の諏訪大明神絵詞に、当時の北海道における蝦夷に三種あることを
記して、その一種に「日の本」と云うのがあるとある。彼らは「形体夜叉の如く、変化無窮なり。人倫禽獣魚肉を食として、五穀の農耕を知らず、九訳を重ぬと雖も、語話を通じ難し」とあって、全然生蕃階程にいたアイヌを呼んだ名であった。北海道は西より開けて、前記地図に見ゆる東方日の本の地方には、少しも和風に染まぬアイヌが住して、それを直ちに「日の本」と呼んだのであった。しかしその所謂日の本の地も、内地文化の進展とともに、次第に東方に退却して、近世では北海道アイヌは
得撫以往の北千島をチュプカと呼び、その住民なる千島アイヌをチュプカグルと云う。チュプカは太陽の義で、すなわち日出処を意味し、チュプカグルはその日出処の人、すなわち日の本蝦夷の義である。南北朝頃には北海道の東部地方に認められたところのものが、後には北千島においてのみ認められることになったのである。そしてその千島アイヌは、さらに東方なる
柬察加をチュプカすなわち日出処と称し、その住民なるカムチャダールを、チュプカアングルすなわち日の本の人と呼び、自己をルーントモングル、すなわち西に住まえる人と云っているとのことである。日の本の義また以て解すべきである。
されば我が国を日の本と称し始めたことは、実は邦人自身ではなく、当初は朝鮮半島の住民が、その東方なる我が国を呼んだものであったに相違ない。日本紀引くところの百済本紀など、古代朝鮮の書に既に我が国を指して「日本」と書いた例がある。朝鮮そのものも、また、実は支那から見て日の本であった。朝鮮の地誌なる東国輿地勝覧に朝鮮の名義を解して、「東表日出の地に居るが故に朝鮮と名付く」とある。漢の楊雄が、武帝の徳を頌したる賦に、「
西圧二月※一[#「山+骨」、U+21ECB、229-11]、
東征二日域[#「東征二日域」はママ]」とあるのも、西方には西域
月氏の地を服し、東方には朝鮮
日域の地を平らげたことを述べたもので、ここに「日域」とは朝鮮を目して日出処と呼んだのであった。しかしながら、事実上国家としては我が国以東に位置するものなく、我が国は世界の最東日出処であり、すなわち日の本である。かくてそれが遂に我が国にのみ用いらるるに至ったものと解せられる。
しかしながら、文字にこれを「
日本」と書くも、国号としてはこれを文字のままに、直ちにヒノモトと称する訳ではなかった。日本紀に「
日本」の文字に註して、「
日本此云二耶麻騰一、
下皆效レ之」とある。つまり従来の「倭」の字に代うるに、「
日本」の二字を以てし、依然これをヤマトと読ませたものであったに他ならぬ。
なおここに「
日本」の二字をヤマトと読ませることについては、所謂「日の本」が我がヤマト帝国の位置に当るという会意からの理由の外に、それが我が国特有の枕言葉から導かれたものであることが考えさせられる。我が国語には、地名その他の名詞の上に、その発音において、或いはその意義において、或る縁故ある語を冠して枕言葉となし、これをその語と連称するところの一種の修辞法がある。そして枕言葉の文字が、直ちにその語を表わす文字として使用せらるる例がある。「飛ぶ鳥のアスカ」「
春日のカスガ」などがそれで、枕言葉をそのままに「
春日」と書いてカスガと読み、「
飛鳥」と書いてアスカと読む類これである。そして「日の本のヤマト」またその例の一つとして見るべく、我がヤマトの国家が、世界の最東日の本にあるということから、ヤマトの枕言葉として「日の本」の語が用いられ、やがてこの枕言葉から「
日本」と書いてヤマトと読むこととなったものと解せられるのである。
次にヤマトに当つるに「
日本」の文字を用いたことが、いつの頃から始まったかを考えてみるに、我が国の文献の上に「
日本」の文字を用いたのは、奈良朝の初期、養老四年奏上の日本紀を以て初めとする。その書名を日本書紀ということはさらなり、我が国家としてヤマトの称を用うる場合には、同書は常に「
日本」の二字を用いてあるのである。ただし日本紀といえども、我が国号として以外は、ヤマトの語に当つるに相変らず「
倭」の字を用うる例で、それが畿内の大和一国を表わす場合は勿論、同じ人名にしてもヤマトタケルノミコトの場合には、「
日本武尊」と書き、ヤマトヒメノミコトの場合には「
倭姫命」と書く。日本武尊は日本紀の記するところ、単に景行天皇の一皇子たるに過ぎざる御身分ながちも
[#「御身分ながちも」はママ]、常陸風土記・阿波風土記等には、「
倭武天皇」とあって、これを至尊の例に置き、また日本紀にも、その逝去を「崩」と称し、その墳墓を「陵」と称し、ことにミコトの語に当つるに、天皇の場合と同じく「尊」の字を以てするなど、すべて至尊に対し奉ると同様の尊敬の
辞を用いているのである。されば邦語では同じヤマトの語を以てしても、倭姫命の場合には畿内の一地方たる大和の義に取り、日本武尊の場合には、我が国家を表わす義を以て、特に「
日本」の二字を用いたものであったと解せられるのである。すなわち従来は我が国家全体を表わす場合のヤマトの語にも、また、畿内の一地方たる大和を表わす場合のヤマトの語にも、同じく「倭」字を用うる例であったものが、ここに至ってその間に文字を異にし、その区別を成すに至ったものであったと解せられるのである。
しかるに日本紀が、我が国号としてのヤマトに当つるに、常にかく「
日本」の文字を用いているにかかわらず、これに先立つ僅かに八年の和銅五年に奏上した古事記には、
毫も「
日本」の文字あるなく、ヤマトの語に当つるに常に「倭」の字を以てする例となっている。同じ勅撰の国史にして、しかも僅かに八年を隔つるに過ぎざる近い間において、かかる相違のあることは、この古事記編纂の頃には、未だ「
日本」の二字を以て、我が国号となすことが一般に認めらるるには至らなかったことを示すもので、したがってその制定は、和銅五年以後、養老四年以前、おそらく日本紀編纂の時にあったと、一応は
謂わねばならぬこととなるのである。しかしながら、我が国家を表わす場合に「
日本」の二字を用うることは、実は必ずしも日本紀編纂の時に始まったのではなく、すでに日本紀収むるところの孝徳天皇大化改新の条の
詔に、明らかにこの文字が見えているのである。この詔書の文は、決して後に日本紀の著者の修辞にかかるものではなく、当時発表せられたままのものが、日本紀編者によって収録せられたのであったに相違ない。しからば、「
日本」の二字を国号として制定した事は、或いは大化改新の際にあったと謂ってもよいのである。
ここにおいてさらにこれを支那の史籍について考うると、唐書に至って初めて日本の国号が見えている。「日本は古への
倭奴なり。(中略)咸享元年使を遣はして、高麗を平ぐるを賀す。
後稍夏音を習ひて倭の名を
悪み、
更めて日本と号す。使者自ら言ふ。国日出づる所に近きを以て名と為すと。或は云ふ。日本は乃ち小国、倭の為に
併す所となる。故にその号を冒す。使者情を以てせず、故に疑ふ」とあるのである。夏音とは支那語のことで、支那語に通ずるに及びて「倭」の名の不可を知ったというのである。その「日本は古への倭奴なり」と云い、また或る説に、「日本は乃ち小国、倭の併す所となる」とあるは甚だしい誤りで、これは旧唐書に「倭国伝」と「日本国伝」とを別々に掲げて、「日本はもと小国、倭の地を併す」とある方の、比較的真に近きを取るべきである。唐人は古く倭国については知るところ多く、しかも日本の名は始めてこれを耳にしたものなるが故に、その真相を解する能わず、我が国を以て古えの倭国の延長なりとする伝統的観念に囚われたが上に、さらにその倭国を以て倭奴国なりと誤解し、旧唐書が倭と日本とを別国として掲出する場合においても、なお少からず
彼此を混同し、また日本を以て「もと小国」などと誤りたる観察を下したのではあったが、日本が倭の地を併すとの説は正しい伝えであった。そして唐書の或る説は、この事実を反対に誤ったものであったに相違ない。さればこれらの誤解に基づく記事はしばらく措き、その咸享元年に使いを遣わして高麗を平らぐるを賀し、後やや夏音を習いて倭の名を悪み、あらためて日本と号したとのことは、我が国が始めて「日本」の国号を以て、唐に交通した年代を知る上に須要なる文字であると信ずる。咸享は唐の高宗治世の年号で、その元年は我が天智天皇の九年に当る。この際の遣使のこと日本紀に所見なきも、その前二年に高麗の唐の為に滅ぼされたる事実あれば、この年特に唐に対して賀平使を遣わされた事実もあったものらしい。そして唐書には、この賀平使の後に国号を改めて日本と称したとあるのである。ここにおいてさらに我が続日本紀を按ずるに、文武天皇大宝二年五月、遣唐持節使
粟田真人唐に入る。真人初め唐に至るや、「人あり来り問うて曰く、何処の使人ぞ。答へて曰く、日本国の使なり、云々。唐人我が使に謂って曰く、
亟に聞く、海東に大倭国あり、これを君子国と謂ふ。人民豊楽、礼義
敦く行はると。今使人の容儀を看るに、はなはだ浄し。
豈に信ならざらんや」とある。すなわち真人は自ら「日本国」の使人たることを云い、唐人はこれを「大倭国」と謂ったとあるのである。果してしからば、これは右唐書いうところのものに相当し、唐人が我が日本国号の制定を知ったのは、けだしこの時の事であったと解せられるのである。
以上叙述するところを通観するに、我が国を日の本と称することは、つとに百済人らの間に始まり、我が国ではそれをヤマトの枕言葉として、「日の本のヤマト」なる熟語が用いらるるに至ったのであったが、推古天皇の国書には支那がクレすなわち日没処であり、また西方の国なるに対して、この日の本の義を表わすに「日出処」或いは「東」の文字を用い給い、ついで大化の改新に際してヤマトに当つるに始めてその枕言葉なる「
日本」の文字を以てするの例が始まり文武天皇の御代大宝令の制定に至りて、初めて我が国号として、翌年遣唐使の入唐に際し、これを彼に通告したという順序となるのである。
しかしながら、それは単に国号としての場合において、ヤマトの語に当つるに「
日本」の文字を以てするということが制定せられただけであって、今日の如く官報を以て全国に布告し、上下一般にそれを遵奉するという程の厳格なものではなかったがために、
阿礼の口述を筆録した筈の
大安麻呂の古事記においては、国号の場合にも、また大和一国の場合にも、同じヤマトの語に対して、旧に依りて「倭」の字を用い、その後八年に成れる同じ安麻呂執筆の筈の日本紀において、初めて明瞭に国号の場合にのみ「
日本」の文字を用うることが実行せられたのであると解する。
しかもその「
日本」の二字は、もとヤマトと読むべく、ニッポン或いはニホンなどと音読すべきものではなかった。しかしながら、文字を主とした我が国の慣例から、おそらく千年以上に亙りて音読し来ったものを、今にしてその古えに
復すべきものではなく、ただこれをニッポンとするか、ニホンとするかは、国家として明らかに決定し、あまねく諸外国にも通牒して、これを一定するところが無ければならぬ。そしてニッポンとニホンと、いずれを採るかについては、漢字としての発音に最も近いニッポンに従うべきものであると思考せられる。
ヤマト或いは
日本の外に、古く
大八洲国、
豊葦原瑞穂国、
葦原中国、
玉墻内国、
細戈千足国、
磯輸上秀真国、或いは
虚見倭国、
秋津洲倭国などの称号が、古く呼ばれた事があった。その大八洲国とは群島国の義であり、その他も多くは我が国に対する美称として、今一々これを説明するの必要を認めぬ。
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