元年夏四月十日 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とした。政を束ね、萬の事をゆだねられた。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと=用明天皇)の第二子である。母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で有る。皇后が出産間じかの時、禁中を巡られ諸々の司を見て廻られた。馬の司の所に来た時に厩の戸に当たられ出産された。生まれながらに良く話し、聖の知恵が有った。壮年に成ると十人の訴えを一度に聞いて、過たずに良くわきまえられ、先の事も良く見通された。また、仏の教えを高句麗の僧の恵慈に習われ、外典を博士の覚哿に学び、悟られた。父の天皇は皇子を愛し宮の南の上の殿に居させたので、その名を称えて上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と云う。
秋九月 橘豊日天皇を河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬した。
二年三月一日 皇太子および諸臣に詔をして三宝の興隆を命じられた。この時、諸々の臣・連等は君親の恵みのために競って佛舎を造った。これを寺という。
九年春二月 皇太子は初めて宮室を斑鳩に立てられた。
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◆◆◆ 巻第九 帝皇本紀 ◆◆◆
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先代旧事本紀091 投稿者:HISASHI 投稿日: 5月29日(土)18時09分56秒
◎本日分
本日から巻第九 帝皇本紀です。まず、継体天皇の事蹟を三回に分けて掲載します。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
継体天皇
諱は男大迹天皇(おほどのすめらみこと)である。またの名は彦太尊(ひこふとのみこと)である。誉田天皇(ほむたのすめらみこと=応神天皇)の五世の孫の彦主王(ひこうしのおおきみ)の子である。母は、振媛(ふりひめ)と云う。振媛は活目天皇(いくめのすめらみこと=仁徳天皇)の七世の孫である。天皇の父は振媛の容姿が大変麗しいと聞いて、お生みの国の高嶋郡(たかしまのこおち)の三尾の別荘より使いを遣わして三国の坂名井(さかない)に呼び召して妃とした。そして、天皇を生んだ。天皇が幼い時に父王が薨去され振媛は嘆いて
「私は今、遠く実家より離れて、どうして養っていけるだろうか。高向[高向は越前国の邑の名前]に還って天皇を養う。」
と言った。天皇は壮年になり士を愛し、賢く、心は豊かであった。
小泊瀬天皇八年冬十二月 小泊瀬天皇(おはつせのすめらみこと=武烈天皇)は崩御された。天皇に子供が無く跡継ぎが途絶えた。大伴金村大連(おおとものかねむらのおおむらじ)は諮って
「今、跡継ぎが無く継がれる方がいない。天下の何処に心を寄せれば良いのだろうか。古より今に至るまで、禍はこの様な事から起こる。今、足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと=仲哀天皇)の五世の孫の倭彦王(やまとひこのおおきみ)が丹波の国の桑田郡(くわたのこおり)におられる。試しに儀仗兵をもうけて御輿を守り迎え奉って欲しい。そして、立てて天皇になってもらおう」
と言った。大臣・大連らは皆賛成した。迎えに奉る計画の通りにした。倭彦王は遥かに迎えの儀仗兵を見て、驚き色を失って、山に隠れた。居られる所は誰も知らなかった。
元年正月四日 大伴金村大連はさらに諮って
「男大迹王の性格は恵み深く孝心が篤い、天皇にふさわしい方と思う。慇懃にお勧めして、帝業を継いで頂こう」
と言った。物部麁鹿火大連(もののべのあらかいのおおむらじ)は許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)等を見て
「子孫を調べて見ると、賢者は男大迹王だけである。」
と言った。
六日 臣・連等を遣わし節を持たせ輿を備えて三国へ迎え奉った。警備の儀仗兵は威儀を正して装いを整え、さきがけの者が御前に至った。男大迹天皇は泰然自若として、御座にお座りになられ、陪臣を整列させ帝の様であった。節を持った使い等は之により、畏まり心を傾け命を委ね忠誠に励もうと思った。しかし、天皇は心の中で尚疑う気持ちが晴れず、すぐには帝位に就かれなかった。偶々、知っている河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が、密かに使いを遣わして、大臣・大連等の迎え奉る所の本音を申し上げた。使いは二日三夜留まって出発した。この事を褒めて
「よきかな。馬飼首は。汝がもし使いを遣わして告げていなければ、天下の者に笑われたことだろう。世に言う貴賎を論ずるは、ただ、その心を重きとなす。これは、荒籠の事を言うのだ」
と言われた。践祚されるに及び、篤く寵愛され待遇を良くされた。
二十四日 天皇は樟葉宮(くずはのみや)に行かれた。
二月四日 大伴金村大連は跪いて、天子の鏡・剣を添えて奉って再拝した。男大迹天皇は辞退されて
「民は子であり、国を治める事は重いことである。私は、不才にして適うところが足らない。願わくは知恵をめぐらして、賢者を選ぶ事を請う。私は、それに当たらない」
と言った。大伴大連は地に伏し固く請うたが、男大迹天皇は西を向いて譲られる事、三度。南に向いて譲られること再び。大伴大連等は皆
「伏してこれを考えますに、大王が民を子とし、国を治めるのが最もかなうと判断します。臣等は宗廟社稷の為に考える事は疎かにしません。どうか衆の願いにより天皇の位に付かれる事を願います」
と言った。男大迹天皇は
「大臣・大連・将・相・諸臣が悉く私を推す。あえてこれを受けずや」
と言い、璽を受けられた。そして、この日、天皇位に上られた。皇妃を尊んで皇太夫人媛とした。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀092 投稿者:HISASHI 投稿日: 5月30日(日)17時21分3秒
◎本日分
本日は、継体天皇の事蹟の続きです。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
十日 大伴大連は奏し請い
「臣は前王が世を治めて日嗣の御子がいなければ、国は治まりません。また、内宮が睦まじくなければ天業が続く事はありません。ゆえに白髪天皇(しらかのすめらみこと)は跡継ぎがありませんでした。臣の祖父の大伴大連室屋(おおとものおおむらじむろや)が使いをして、国ごとに三種の白髪部(しらかべ)を置き、それによって後世に名を伝えようとしました。なんと痛ましいことでしょう。手白香皇女(たしらかのひめみこ)を召して立てて皇后として下さい。また、神祇伯(かむつかさのかみ)を遣わして、神祇を敬い祀り、天皇の皇子を求める事は、民の望みに答える事です。」
と言った。天皇は
「よろしい」
と言われた。
三月一日 詔をして
「神祇を祀らないことは天下に君が居ない事である。天より民が生まれ、国を建てるのに元首を持ってし、助け養う事を司り、生命を全うさせる事である。大連は朕に皇子が無い事を憂え、誠実に国家及び世に忠節を尽くす。決して自分の世を心配しているわけでは無い。装いを整え、手白香皇女を迎え奉れ」
と言った。
五日 手白香皇女を立てて皇后とし、内の政を行った。一男が誕生した。天国排開廣庭尊(あめくにおしひらきひろにはのみこと)と云い、嫡子である。しかも幼年である事により、二人の兄を後見にして天下を治めさせた。兄、廣国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)、次に武小廣国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)である。
十四日 八人の妃を入れられた。[八人の妃を入れられたのは前後があるが、この日入れたのは、天位に就いてよき日を占い、初めて後宮を定められたので、記録をした]
妃は尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘で目子媛(めのこひめ)と云う。二児を生んだ。兄は勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)廣国排武金日尊と云う。次に檜隈高田皇子(ひのくまのたかだのみこ)武小廣国押盾尊と云う。
次の妃は三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の妹で稚子媛(わくごひめ)と云う。一男一女を生んだ。大郎皇子(おおいらつこのみこ)と出雲皇女(いずものひめみこ)である。
次の妃は坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘の廣媛(ひとひめ)である。三女を生んだ。神前皇女(かむさきのみめみこ)、次に茨田皇女(まむたのひめみこ)、次に馬来目皇女(うまくめのひめみこ)で有る。
次の妃は息長眞手王(おきながのまてのおおきみ)の娘の麻績娘子(おみのいらつこ)である。一女を生んだ。荳角皇女(ささげのひめみこ)である。伊勢大神斎祠。
次の妃は茨田連小望(まむたのむらじおもち)の娘の関媛(せきひめ)と云う。三女を生んだ。茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)、次に白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)、次に小野稚娘皇女(おのわかいらつめのひめみこ)である。
次の妃は三尾君堅○(木威)(みおのきみかたひ)の娘の倭媛(やまとひめ)と云う。二男二女を生んだ。大娘子皇女(おおいたつめのひめみこ)、次に椀子皇子(まりこのみこ)、次に耳皇子(みみのみこ)、次に赤姫皇女(あかひめのひめみこ)である。
次の妃は和珥臣河内(わにのおみのかわち)の娘の○(草冠夷)媛(はえひめ)と云う。一男二女を生んだ。稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、次に圓姫皇女(つぶらひめのひめみこ)、次に厚皇子(あつのみこ)
次の妃は根王(ねのおおきみ)の娘の廣媛(ひろひめ)である。二男を生んだ。菟皇子(うさぎのみこ)、次に中皇子(なかのみこ)である。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀093 投稿者:HISASHI 投稿日: 5月31日(月)18時11分59秒
◎本日分
本日は、継体天皇の事蹟の最終です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
二年冬十月三日 小泊瀬若鷦鷯天皇(おはつせのわかささぎのすめらみこと=武烈天皇)を傍丘磐坏丘陵(かたおかのいわつきのみささぎ)に葬る。
五年冬十月 都を山背に遷す。筒城宮(つつきのみや)と言う。
八年春正月 勾大兄皇子に春宮(みこのみや)に就き朕を助けて恵みを施し、朕を助けて欠けた所を補えと宜された。
二十五年春二月 天皇は病に苦しまれた。
七日 磐余の玉穂宮(たまほのみや)で崩御された。年八十二歳であった。
冬十二月五日 藍野陵(あいののみささぎ)に葬られた。
天皇が生んだ子は八男十二女であった。名は上の文に明らかで有るが、更にまた記す。
兄 勾大兄廣国排武金日尊(まがりのおおえひろくにおしたけかなひのみこと)
次に檜隈高田武小廣国押盾尊(ひのくまのたかたのたけおひろくにおしたてのみこと)
次に大郎皇子(おおいらつこのみこ)
次に出雲皇女(いずものひめみこ)
次に神前皇女(かむさきのひめみこ)
次に茨田皇女(まむたのひめみこ)
次に馬来目皇女(うまくめのひめみこ)
次に荳角皇女(ささげのひめみこ)[伊勢大神斎祠(いせのおおかみのいわいまつる)]
次に茨田大娘皇女(まむたのおおいらつめのひめみこ)
次に白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
次に小野稚娘皇女(おのわかいらつめのひめみこ)
次に大娘子皇女(おおいらつめのひめみこ)
次に椀子皇子(まりこのみこ)[三国公(みくにのきみ)の先祖]
次に耳皇子(みみのみこ)
次に赤姫皇女(あかひめのひめみこ)
次に稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
次に圓姫皇女(つぶらひめのひめみこ)
次に厚皇子(あつのみこ)
次に菟皇子(うさぎのみこ)[酒人公(さかひとのきみ)の先祖]
次に中皇子(なかのみこ)[坂田公(さかたのきみ)の先祖]
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀094 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 1日(火)18時29分16秒
◎本日分
本日は、安閑天皇と宣化天皇の事蹟です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
安閑天皇
諱は廣国排武金日尊(ひろくにおしたけかなひのみこと)で有る。男大迹天皇(おほどのすめらみこと=継体天皇)の長子である。母は目子媛(めのこひめ)と云い、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘で有る。天皇の人となりは、器が余りにも大きく窺う事が出来ない程であった。武威に優れ寛大であった。人の君たる力量が有った。
継体天皇二十五年二月七日 男大迹天皇は大兄を立てて天皇とした。この日、男大迹天皇は崩御された。
元年春正月 都を倭の勾に遷した。金橋宮(かねはしのみや)と云う。
三月六日 司達が天皇の為に春日山田皇女(かすがのやまだのみめみこ)を入れ、立てて皇后とした。またの名は山田赤見皇女(やまだのあかみのひめみこ)。億計天皇(おかのすめらみこと)の皇女である。また、三人の妃を立てた。許勢男人大臣(こせのおひとのおおおみ)の娘の紗手媛(さてひめ)、紗手媛の妹の香香有媛(かがりひめ)、物部木蓮子大連(もののべのいたひのおおむらじ)の娘の宅媛(やかひめ)である。
二年冬十二月十七日 天皇は勾の金橋宮で崩御された。年七十歳で有った。
この月に天皇を河内古市(かわちふるいち)の高屋丘陵(たかやのおかのみささぎ)に葬る。皇后の春日山田皇女及び天皇の妹の神前皇女(かむさきのひめみこ)をこの陵に合葬した。天皇に跡継ぎなし。
宣化天皇
諱は武小廣国押盾尊(たけおひろくにおしたてのみこと)である。。男大迹天皇(おほどのすめらみこと=継体天皇)の第二子である。勾大兄廣国排武金日天皇(まがりのおおえのひろくにおしたけかねひのすめらみこと)の同母弟である。
安間天皇二年十二月 勾大兄廣国排武金日天皇は崩御された。皇子は無かった。群臣は鏡・剣を武小廣国押盾尊に奉り、天皇位に登られた。天皇の人となりは、器は大きく、清い心で朗らかであった。才知を人に誇る事が無く天皇となって君子が従うところである。
元年春正月 都を檜前(ひのくま)に遷した。廬入野宮(いおりののみや)と云う。
三月一日 司達は皇后を立てる事を請うた。
八日 詔をして前の正妃である億計天皇の娘の仲皇女(なかのひめみこ)を立てて皇后とした。皇后は一男三女を生んだ。石姫皇女(いしひめのひめみこ)、次に小石姫皇女(ちいしひめのひめみこ)、次に稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)、次に上殖葉皇子(かみえはのみこ)またの名は椀子(まりこ)である。
前の庶妃である大河内稚子媛(おおかわちのわくごのひめ)は火炎皇子(ほのおのみこ)を生んだ。
四年春二月十日 天皇は廬入野宮で崩御された。年七十三歳
冬十一月十七日 大倭の身狭(むさ)の桃花鳥坂(つきさか)上の陵に葬った。皇后の橘皇女(たちばなのひめみこ)及びその子をこの陵に合葬した。[子は未だ成人せずに薨去された]
天皇が生んだ子は二男三女である。
姉 石姫皇女(いしひめのひめみこ)
次に小石姫皇女(ちいしひめのひめみこ)
次に稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
次に上殖葉皇子(かみえはのみこ)[またの名は椀子(まりこ)。丹比椎田君(たじひのしいだのきみ)の先祖]
次に火炎皇子(ほのおのみこ)[偉那君(いなのきみ)の先祖]
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀095 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 2日(水)18時24分7秒
◎本日分
本日は欽明天皇の事蹟の前半です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
欽明天皇
諱は天国排開廣庭尊(あめくにおしひらきひろにはのみこと)と云う。男大迹天皇(おほどのすめらみこと=継体天皇)の嫡子である。母は皇后の手白香皇女(たしらかのひめみこ)と云う。清寧天皇の皇女である。天皇は尊を愛しみ常に左右に置かれた。天皇が幼い時に秦大津父(はたのおおつち)と云う者を寵愛されれば、壮年になり必ず天下を治められるという夢を見た。驚いて使いを遣わし、あまねく探された。山背の国の紀伊郡(きいのこおり)の深草の里で得た。姓字(うじな)は果たして夢の通りであった。珍しい夢であると喜ばれ、この事を告げて
「汝に何か思い当る事は無いか」
と言われた。答えは無かったが
「但、臣が伊勢に行き商いをして帰るときに、屋まで二匹の狼が相戦い汗と血を流しているのに逢いました。馬より降りて口と手を洗い、祈り請い『貴方は貴い神で有ります。しかし、荒業を楽しまれます。もし、狩人に逢えば捕らえられてしまうでしょう。さあ早く』と言い、戦いを止めさせて、血に濡れた毛を洗い拭って放しました。共に命を全うしたようです」
と言った。天皇は
「必ず是は報いである。」
と言い、近侍にして篤く寵愛され、大いに富を重ねる事になった。践祚されるに至って大蔵卿(おおくらのつかさ)を拝命した。
武小廣国押盾天皇四年冬十月 天皇は崩御された。天国排開廣庭皇子尊は群臣に命令して
「私は幼年であり浅識であり、未だ政に慣れていない。山田皇后は政に慣れておられるので請託を決めていただきたい」
と言った。山田皇后は畏まって謝絶し
「私は山河と同じほど恩寵を受けましたが、萬の政には疎い。婦女が如何して預かれるでしょうか。今、皇子は老いたるを敬い、幼少に恵みを、賢者に饒に下され、日中は食事をせず士を待たれています。それのみならず幼くして優れている事は群を抜いています。声望を欲しいままにされ、人となりは寛仁で、哀れみ深方です。諸臣よ早く天皇位に登っていただき、天下を治めていただきたく思います」
と言われた。
十二月五日 皇太子尊は天皇位に登られた。皇后を尊んで皇太后と呼び、皇太后に太皇太后を追贈された。物部尾輿連公(もののべのおこしのむらじのきみ)を大連とし、物部目連公(もののべのめのむらじのきみ)を大臣とした。
元年春正月十五日 司達は皇后を立てるよう要請した。詔をして
「正妃の武小廣国押盾天皇の娘の意思姫を立てて皇后とする。」
と言われた。皇后は二男一女を生まれた。長男は○(竹冠前)田珠勝大兄身子(やたのたまかちのおおえのみこ)と云う。次に譯語田渟名倉太珠敷尊(おさだのぬなくらふとたましきのみこと)と云う。次に笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)と云う。またの名は狭田毛皇女(さたけのひめみこ)と云う。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀096 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 3日(木)18時18分24秒
◎本日分
本日は欽明天皇の事蹟の後半です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
秋七月十四日 都を磯城(しき)に遷す。金刺宮(かなさしのみや)と云う。
三年二月 五人の妃を入れられた。最初の妃は皇后の妹の稚綾娘皇女(わかやひめのひめみこ)と云う。一男を生む。石上皇子(いそかみのみこ)と云う。
次の妃は皇后の妹の日影皇女(ひかげのひめみこ)と云う。倉皇子(くらのみこ)を生む。
次の妃は堅塩媛(きたしひめ)と言い、七男六女を生んだ。蘇我大臣稲目宿禰(そがのおおおみいなめのすくね)の娘である。一人目は大兄皇子(おおえのみこ)と言い、橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)と云う。二人目は磐隈皇女(いわくまのひめみこ)と言い、またの名は夢皇女(ゆめのひめみこ)と云う。[初めは天照大神の祠。後に茨城皇子(いばらぎのみこ)に犯され解任。]三人目は臘嘴鳥皇子(あととりのみこ)と云う。四人目は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)と云う。五人目は椀子皇子(まりこのみこ)と云う。六人目は大宅皇女(おおやかのひめみこ)と云う。七人目は石上部皇子(いそのかみべのみこ)と云う。八人目は山背皇子(やましろのみこ)と云う。九人目は大伴皇子(おおとものみこ)と云う。十人目は櫻井皇子(さくらいのみこ)と云う。十一人目は肩野皇女(かたののひめみこ)と云う。十二人目は橘本稚皇子(たちばなのもとのわかこのみこ)と云う。十三人目は舎人皇子(とねりのみこ)と云う。
次の妃は堅塩媛の同母妹の小姉君(おあねのきみ)と云う。四男一女を生んだ。一人目は茨城皇子(いばらぎのみこ)と云う。二人目は葛城皇子(かつらぎのみこ)と云う。三人目は泥部穴穂部皇女(はしひとのあなほべのひめみこ)と云う。四人目は泥部穴穂皇女(はしひとのあなほのひめみこ)と云う。五人目は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)と云う。
十五年春正月七日 天皇は病を患われた。皇太子は外に出向いていて不在であった。早馬により召して臥内(おおとの)に引き入れ、手を取って詔され
「朕の病は重い。後事を汝に託す。汝は新羅を討ち任那を再建せよ。また、造を任命し昔日のごとくなれば死んでも恨みはない」
と言われた。この日、天皇は内寝で崩御された。時に年若干
五月 河内の古市で殯を行った。
九月 檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬った。
天皇が生んだ子は男が十五人、女が八人。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀097 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 4日(金)18時15分35秒
◎本日分
本日は、敏達天皇の事蹟です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
敏達天皇
諱は渟名倉太珠敷尊(ぬなくらふとたましきのみこと)である。天国排開廣庭天皇(あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと)の第二子である。母は、石媛皇后であり、武小廣国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)の娘である。天皇は仏法を信ぜず、文史(ふみのこと=神道)を好まれた。
天国排開廣庭天皇二十九年 立てて皇太子となった。
天国排開廣庭天皇三十二年四月 天国排開廣庭天皇は崩御された。
元年四月三日 皇太子尊は天皇位に登られた。皇后を皇太后と呼び、皇太后に太皇太后を追贈された。物部大市御狩連公(もののべのおおいちのみかりのむらじのきみ)を大連とした。
四年春正月九日 廣姫を立てて皇后とした。皇后は一男二女を生む。息長眞手王(おきながのまてのおおきみ)の娘である。一人目は押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)と云う。またの名を名麻呂子皇子(なまろくのみこ)と云う。二人目は逆登皇女(さかのぼりのひめみこ)と云う。三人目は菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)と云う。
次に春日臣仲君(かすがのおみなかきみ)の娘の老女子(おみなご)と云う。立てて夫人となす。三男一女を生んだ。一人目は難波皇子(なんばのみこ)と云う。二人目は春日皇子(かすがのみこ)と云う。三人目は桑田皇女(くわたのひめみこ)と云う。四人目は大派皇子(おおまたのみこ)と云う。
次に釆女の伊勢大鹿首小熊(いせのおおかのおびとおくま)の娘で菟名子夫人(うなこのいらつめ)と云う。二女を生む。一人目は太娘皇女(ふとのひめのひめみこ)と云う。またの名は櫻井皇女(さくらいのひめみこ)と云う。二人目は糠手姫皇女(ぬかてのひめのひめみこ)と云う。またの名は田村皇女(たむらのひめみこ)と云う。
この年、卜部に海部王(あまべのおおきみ)の土地と絲井王(いといのおおきみ)の土地を占わせた。占いは吉と出た。その結果、宮を譯語田に造った。幸玉宮(さきたまのみや)と云う。
五年春三月十日 司達は皇后を立てるよう要請した。豊御食炊屋姫尊に詔をして立てて皇后とした。皇后は二男五女を生んだ。一人目は菟道貝蛸皇女(うじのかいだこのひめみこ)と云う。東宮の聖徳太子尊に嫁がれた。二人目は竹田皇子(たけだのみこ)と云う。三人目は小墾田皇女(おはりだのひめみこ)と云う。彦人大兄王(ひこひとのおおえのおおきみ)に嫁がれた。四人目は○(盧鳥)○(茲冠鳥)守皇女(うもりのひめみこ)と云う。またの名は軽守皇女(かるのもりのひめみこ)と云う。五人目は尾張皇子(おわりのみこ)と云う。六人目は田眼皇女(ためのひめみこ)と云う。息長足日廣額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと=舒明天皇)に嫁がれた。七人目は弓張皇女(ゆみはりのひめみこ)と云う。
十四年秋八月十五日 天皇は大殿で崩御された。葬殯。
天皇が生まれた皇子は十五人で男八人、女七人である。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀098 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 5日(土)17時59分53秒
◎本日分
本日は、用明天皇の事蹟です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
用明天皇
諱は橘豊日尊(たちばなとよひのみこと)である。天国排開廣庭天皇(あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと=欽明天皇)の第四子である。母は、皇后の堅塩媛(きたしひめ)と云う。天皇は仏法を信じられて神道を尊まれた。
敏達天皇十四年秋八月 渟名倉太珠敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと)は崩御された。
九月五日 天皇は天皇位に登られた。磐余に都を造った。池邊雙槻宮(いけばのなつきのみや)と云う。物部弓削守屋連公(もののべのゆげのもりやのむらじのきみ)を大連とし、また、大臣とする。
元年春正月一日 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后とした。皇后は四男を生んだ。一人目は厩戸皇子(うまやどのみこ)と云う。またの名を豊聡耳聖徳皇子(とよとみみのしょうとくのみこ)と云う。或いは名を豊聡耳法大王(とよとみみののりのおおきみ)と云う。またの名は法主王(のりのぬしのきみ)と云う。初めは上宮(うえのみや)に住まわれたが、後に斑鳩に移られた。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと=推古天皇)の世に東宮に住まわれ、萬の政を執り行われ天皇の業を行われた記録を豊御食炊屋姫天皇紀で見た。二人目は来目皇子(くめのみこ)と云う。三人目は殖栗皇子(えくりのみこ)と云う。四人目は茨田皇子(まむたのみこ)と云う。
蘇我大臣稲目宿禰(そがのおおおみいなめのすくね)の娘の石寸名(いしきな)を立てて嬪(みめ)とし、一男を生んだ。田目皇子(ためのみこ)である。またの名は豊浦皇子(とゆらのみこ)
葛城値磐村(かつらぎのあたいいわむら)の娘の廣子は一男一女を生んだ。男を麻呂子皇子(まろこのみこ)と云う。[當麻公(とうまのきみ)の先祖。]女を酢香手姫皇女(すかてのひめのひめみこ)と云う。
二年夏四月二日 磐余の河上で新嘗祭を行った。この日、天皇は病に罹られ宮に還られた。群臣はそばに居て、天皇は群臣に詔をして
「朕、思うに三宝を拝む事を欲する。卿等よ、これを検討しなさい。」
と言われた。群臣は朝廷に入り検討した。物部守屋大連と中臣勝海連(なかとみのかつみのむらじ)は詔に反する事を言った。
「どうして国神に叛き他神を敬う事が出来ようか。本よりこの様なことは聞いたことが無い」
と言った。蘇我馬子宿禰大臣(そがのうまこのすくねのおおおみ)は
「詔に従って、助け奉るべきで有る。誰が異なる結果が出せるだろうか」
と言った。
九日 天皇は大殿で崩御された。
秋七月に十一日 磐余池邊上陵(いわれのいけべのうえのみささぎ)に葬った。
天皇が生まれた皇子は七人。男六人、女一人。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀099 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 6日(日)17時40分38秒
◎本日分
本日は、崇峻天皇の事蹟です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
崇峻天皇
諱は泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと)である。天国排開廣庭天皇(あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと=欽明天皇)の第十五子である。母は、小姉君(おあねのきみ)と言い、稲目宿禰(いなめのすくね=蘇我稲目)の娘で有る。
用明天皇二年夏四月 橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)は崩御された。この時、穴穂部皇子(あなほべのみこ)等が謀反を行った。
秋八月二日 炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)と群臣とに天皇に推挙されて天皇位に登られた。
この月 倉橋に宮を造った。
元年春三月 大伴糠手連(おおとものぬかてのむらじ)の娘の小手子(おてこ)を立てて皇后とした。皇后は一男一女を生んだ。蜂子皇子(はちこのみこ)、次に錦代皇女(にしきてのひめみこ)を生んだ。
四年夏四月十三日 譯語田天皇(おさだのすめらみこと=敏達天皇)を磯長陵(しながのみささぎ)に葬った。その母の皇后が葬られた陵で有る。
五年冬十月四日 猪が献上された。天皇は猪を指差し
「猪の首を斬る様に、いつか朕が嫌う人の首を斬りたい」
と言った。多くの兵を設け常と異なる所が有った。大伴媛小手子を寵愛が衰えたことで恨んで、蘇我馬子宿禰に人を使わして
「最近、猪が献上される事が有りました。天皇は猪を指差して『猪の首を斬る様に、いつか朕が嫌う人の首を斬りたい』と言われました。かつ内裏に多くの兵を起こされています」
と言わせた。これを聞いた馬子宿禰は大いに驚いた。
十日 蘇我馬子宿禰は天皇の言われた事を聞いて、自分を恐れ嫌っているので、仲間を集め天皇を殺す事を謀った。
十一月三日 馬子宿禰は群臣を偽って
「今日、東の国の貢物を進めます。」
と言った。東漢値駒(やまとのあたいこま)により天皇を殺させた。その日に天皇を倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬った。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀100 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 7日(月)18時17分28秒
◎本日分
本日は、推古天皇の事蹟の前半です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
推古天皇
諱は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)である。天国排開廣庭天皇(あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと=欽明天皇)の娘で、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと=用明天皇)と同母妹である。幼少の時は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と言った。容姿は大変麗しく、進退も立派であった。十八歳の時に渟名倉太珠敷天皇(ぬなくらふとたましきのすめらみこと=敏達天皇)が立てて皇后とされた。三十四歳の時に渟名倉太珠敷天皇は崩御された。三十九歳の時に泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと=崇峻天皇)五年十一月に大臣馬子宿禰(おおおみのうまこのすくね)のために殺されたので、天皇の位は空位となった。群臣は渟名倉太珠敷天皇の皇后の額田部皇女に践祚するように要請した。皇后は辞退し譲られた。百寮は表を奉り進めた。三度繰り返され要請に従われたので、天皇の璽を奉った。
冬十二月八日 皇后は豊浦宮で天皇位に登られた。
元年夏四月十日 厩戸豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ)を立てて皇太子とした。政を束ね、萬の事をゆだねられた。橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと=用明天皇)の第二子である。母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)で有る。皇后が出産間じかの時、禁中を巡られ諸々の司を見て廻られた。馬の司の所に来た時に厩の戸に当たられ出産された。生まれながらに良く話し、聖の知恵が有った。壮年に成ると十人の訴えを一度に聞いて、過たずに良くわきまえられ、先の事も良く見通された。また、仏の教えを高句麗の僧の恵慈に習われ、外典を博士の覚哿に学び、悟られた。父の天皇は皇子を愛し宮の南の上の殿に居させたので、その名を称えて上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやどのとよとみみのひつぎのみこ)と云う。
秋九月 橘豊日天皇を河内磯長陵(かわちのしながのみささぎ)に改葬した。
二年三月一日 皇太子および諸臣に詔をして三宝の興隆を命じられた。この時、諸々の臣・連等は君親の恵みのために競って佛舎を造った。これを寺という。
九年春二月 皇太子は初めて宮室を斑鳩に立てられた。
十一年十二月五日 始めて冠位十二階を造られた。各々には差が有った。
十二年春正月一日 始めて冠位を諸臣に賜った。各々差が有った。
夏四月三日 皇太子は自ら憲法十七条を作られた。[別に記録有り。]
十三年冬十月 皇太子は斑鳩宮(いかるがのみや)に居られた。
十五年秋七月三日 大礼(だいらい)の小野臣妹子(おののおみのいもこ)を大唐に遣わした。鞍作福利(くらつくりのふくり)を通事とした。これが遣唐使の始まりである。
十六年夏四月 小野妹子は大唐の国から到着した。妹子臣(いもこのおみ)を名付けて蘇因高という。大唐の使いの裴世清(はいせいせい)以下十二人は妹子臣に従って筑紫に到着した。記録は別に有る。
秋九月十一日 唐の客の裴世清は還る事になった。大仁の小野妹子臣を大使とし、小仁の吉志雄成(きしのおなり)を小使とし、鞍作福利を通事として唐の客に副えて遣わした。
物部鎌足姫大刀自連公(もののべのかまたりひめのおおとじのむらじのきみ)を参政とした。
十七年秋九月 小野妹子等が大唐より到着した。
二十年二月二十日 皇太夫人の堅塩媛(きたしひめ)を檜隈大陵(ひのくまのおおみささぎ)に改葬した。この日、軽の衢で誄(しのびごと)を行った。初めに阿倍内臣鳥(あべのうちのおみとり)が天皇の命を誄した。霊を奉るための明器・明衣類を一万五千種。次に諸々の皇子等が次第に沿って誄をした。次に中臣宮地連烏摩○(人偏呂)(なかとみのみやどころのむらじおまろ)が大臣の辞を誄した。次に大臣が多数の臣等を率いて、境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)に氏姓の由来を誄させた。時の人は「摩理勢・烏摩○の二人は良い誄をした、ただ鳥臣(とりのおみ)だけは誄が良くなかった」と言った。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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先代旧事本紀101 投稿者:HISASHI 投稿日: 6月 8日(火)18時20分29秒
◎本日分
本日は、推古天皇の事蹟の後半です。本日で巻第九が終了です。
本日分ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
二十二年夏六月十三日 大仁の矢田部御嬬連公(やたべのみつまのむらじのきみ)に詔をして姓を改め造を命じた。大唐使に任命した。また、大礼の犬上君御田鋤(いぬがみのきみみたすき)を小使とした。これを遣わせられた。物部恵佐古連公(もののべのえさこのむらじのきみ)を大連とした。
二十三年秋九月 谷田部造御嬬と犬上君御田鋤等が大唐より還ってきた。
二十七年冬 制定して言うには、
「君に事るのに忠を尽くす臣を見れば、正に二親を愛しむ子に有る。なんとなれば、それは、父は天であり、これは天に従う孝と言う。また、君は日であり、これは君に従うのは忠と言う。その妃は月であり、亦母で有る。これに従うのは臣と言う。また親に従う事を言う。孝経に『これ、忠臣を求める時は、必ず孝行息子の居る家にある』と言う。これは孝道に至り兆しは霊泉の様で有る。辟は春雨の万物を成長させる。もし、この道に逆らえば大過をうけ、福を減じ落ちて水に入る事と同じである。総てこの事をいい、これを道と言う。別にこれを名付けて八義と言う。所謂、八義とは孝俤忠仁礼義智信を言う。また、天地日月星辰聖賢神祇を言う。人倫が重要とするのは寿称官爵福徳栄楽である。貧しく生まれるのは貴い所であり、言うべきは孝道を挙げて、栄祥を格し、礼儀を勤めて身を立ち獲る者で有る。これゆえ、八義になぞらえて、爵位を作る。それは孝は天で有り、紫冠を第一とする。忠は日であり錦冠を二とし、仁は月であり○繍冠を三とし、悌は星であり○冠を四とし、義は辰であり緋冠を五とし、礼は聖であり深緑を六とし、智は賢であり浅緑を七とし、信は神であり深縲を八とし、祇は祇であり浅縲を九とし、地は母であり、これを身を立てるのに名付けて、黄冠を十とする。今より後、永く常の式とせよ」
と言った。
二十八年二月十一日 上宮厩戸豊聡耳皇太子命・大臣蘇我馬子宿禰は勅を奉って先代旧事(さきつよのふること)天皇紀(すめらぎのふみ)およ国記・臣・連・伴造および八十部公民・本紀を選録した。
春三月1日 制定して、
「君后の為に不忠を言う者、亦母の為に不孝を称える者は、もし声を上げずこれを隠すは同じくその罪を担い重く刑法を科す。」
と言った。
二十九年春二月五日 夜半に皇太子の上宮厩戸豊聡耳尊が斑鳩宮で薨去された。この時諸王・諸臣および天下の百姓は皆、長老が愛児を失った様に塩辛いも酸いも判らないほどであった。幼いものは慈父を亡くした様に泣きはらす声が巷に満ちた。耕す人は鋤を手にするのを止め、杵を突くひとは杵の音をさせず、皆「日月が光を失ったかのようで。天地が崩れ落ちたようだ。今より後だれを頼りにすれば良いのか」と言った。
この月 皇太子を磯長陵に葬る。この時、高句麗の僧の恵慈は上宮厩戸豊聡耳尊が亡くなったのを聞いて、大いにこれを悲しみ、皇太子の為に僧を集め斎を設けて自ら経を説く日に請願をして
「日本国府に聖人が居た。上宮厩戸豊聡耳皇子と言う。天から優れた資質を授かって、大きな聖の徳をもって日本の国に生まれた。三統(中国三代の聖帝の意)を越えるほどの、大きな仕事をされ、三宝を敬い民の苦しみを救い、真の大聖である。今太子が亡くなられた。私は異国とはいえ、むつまじい心がある。私一人が生きて何の益が有るだろうか。私は来年二月二十五日に必ず死ぬ。上宮の太子に浄土で逢い共に衆生に教えを広めよう。」
と言った。恵慈は期日に死んだ。これをもって、時の人は誰もが
「独り上宮の太子だけが聖ではなく恵慈もまた聖である」
と言った。
本日分ここまでーーーーーーーーーーーーーーーー
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