2023年3月1日水曜日

秦の徐福伝説・詐欺師か亡命移民かユダヤの民か? - 神秘と感動の絶景を探し歩いて  Beautiful superb view of Japan

秦の徐福伝説・詐欺師か亡命移民かユダヤの民か? - 神秘と感動の絶景を探し歩いて  Beautiful superb view of Japan

秦の徐福伝説・詐欺師か亡命移民かユダヤの民か?

徐福伝説という興味深いテーマがあります。

司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衡山列伝」によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出しました。しかし「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとされます。

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『史記』の記述そのものに疑義があるという立場もありますが、私は、司馬遷の記述は一定信頼できると思っています。その論拠を簡単に述べます。

そもそも司馬遷の家系は、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるといいます。名門のインテリであることは間違いないでしょう。
司馬遷は、20歳頃から中国国内を大旅行しています。さらに仕官後には武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪しています。彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、知見を積みました。単に書籍で伝説を知ったのではなく、ほんの百年前の史実をその土地土地で確認しているのですから、かなり事実に近い記述だったのではないでしょうか。

さらにその内容を裏付ける資料として、朝鮮半島で書かれた『海東諸国記』には、徐福は孝霊天皇の時に不老不死の薬を求めて日本の紀州に至り、崇神天皇の時に死んで神となったと伝えられるそうです。

さて、日本各地に徐福に関する伝承が残されています。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県出水市、いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名なのですが、とりわけ新宮市付近は重要です。

新宮市に近い三重県熊野市波田須から、2200年前の中国の硬貨である半両銭が発見されています。波田須駅1.5kmのところには徐福ノ宮があり、徐福が持参したと伝わるすり鉢をご神体としているのです。

また新宮市には、徐福公園があり、徐福の墓もあります。

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ここには、徐福のお墓もあります。

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売店には、徐福グッズや書籍が置いてありました。

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この公園自体は比較的新しいのですが、すぐそばには阿須賀神社(あすかじんじゃ)があり、古くから徐福が祀られています。

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徐福の宮です。

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この阿須賀神社は、典型的な神体山である蓬莱山の南麓に鎮座しています。蓬莱山は南北100メートル、東西50メートル、標高48メートルの椀を伏せたような山容で、熊野権現はまず神倉神社に降臨し、61年後に阿須賀神社北側にある石淵勧請されました。さらに境内からは弥生時代の遺跡が発掘されており、熊野の歴史と信仰の起源にかかわる極めて重要な地です。

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さらに、すぐ近くには「宮井戸(みやいど)遺跡」があります。飛び地のようですが、阿須賀神社の社地です。磐座らしい巨石が目立つ小丘で、ここからも弥生~古墳時代の土器が見つかっています。

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ところで、徐福は3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出しました。誰もが疑問に思うのは、不老不死の薬は早く見つけて、早く始皇帝に届けないと意味がありません。現地でトラブルがあった時のために、屈強な兵士たちと、取引や和解のための金銀財宝を積んでいるならともかく、童男童女と百工と五穀の種というのは、どう見ても開拓移民です。

中国で見つかった「徐福村」では、
「私は皇帝の命によって薬探しに旅立つが、もし成功しなければ秦は必ず報復するであろう。そして必然的に徐姓は断絶の憂き目にあうであろう。我々が旅立った後には、もう徐姓を名乗ってはならない。」
という言い伝えがあったそうです。
これが事実なら、徐福はもともと不老不死の薬が見つかるなどと思っておらず、別の目的があったことが分かります。

徐福の系譜では、先祖は江北一帯を支配していた王侯だと言われます。そのプライドと使命感を持って、始皇帝の暴政から逃れるための集団移民だという解釈は、いくつかあるうちの重要な動機のひとつだったのではないかと私は思います。

三千人、あるいは一万人ともいわれる移民集団が、当時の最新鋭のテクノロジーとともに、日本の弥生時代初期に到来したというのが、徐福伝説の根幹かもしれません。もちろん一度に全員が同じ場所に住みつくのはキャパ的に無理があります。暴風雨で船団が分離したり、あるいは上陸してからさらに理想の地を求めて移動した人々もいたでしょう。そしてその一部分、おそらく徐福を含む本隊が、新宮付近にとどまって弥生文化を発展させ、後の熊野信仰に繋がる精神文化にも影響を与えたのではと思う次第です。


なお、下は京都府与謝(よさ)郡の伊根町にある新井崎(にいざき)神社で、ここにも徐福伝説があります。

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下は、その徐福が渡来したとされる、伝説の箱岩です。

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徐福とは、イスラエルの失われた10支族の一つであるヨセフ(ジョセフ)ではないかという説があります。さらに与謝郡のヨサとは、ヨセフからきているとか。


徐福という人物、なかなか奥が深いですね。


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