マルクス ユダヤ人問題に寄せて Zur Judenfrage 1844 光文社
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マルクス ユダヤ人問題に寄せて Zur Judenfrage 1844 光文社
310 a[sage] 2022/11/30(水) 23:55:47.10 ID:SRUs1ECT
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| |伊奈利| |
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\ ヽ | l│ , -─' ,/
\ `r'彡三ミミ-‐'´ ̄ _,. -‐'´
ヽjjリ',,`ヾゞ ト、〃/´
ヾi,へfjン' j
|.ト 。 l 。 、l
| トミ 主 彡'/
| l、 l ,〈
|ノ 、 ' , 1
/ゝ、__ __ノl
/ノ、ノ_,∠-= イ
T_,、_,jヽ、rソ
lj ヽ !ノ ノ
《彼らはこのことを意識はしないが、そうやっているのだ》
»Sie wissen das nicht, aber sie tun es. «
(Marx 1867 1:1:4, Karatani 2022 p.247)
»Jesus aber sprach: Vater, vergib ihnen sie wissen nicht, was sie tun! «
(Lukas 23:34 Luther 1534)
《重金主義は本質的にカソリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的で
ある。……しかし、プロテスタント教がカソリック教の基礎から解放されていないよう
に、信用主義も重金主義の基礎からは解放されていない。》
(『資本論』3:5:35、チカコー244頁2:3:④から孫引き。271頁3:1:④も参照。)
しかし重金主義がカトリックだとしたら、信用主義はユダヤ教、旧約に対応する。
ゾンバルトは『ユダヤ人と経済生活』で無記名証券の起源が紀元前のユダヤ人にあると
「トビト書」を根拠に書いている。新教はユダヤ教への回帰である。
《…わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の
親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントの
スコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか?
彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、
どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけの
ユダヤ教ではなかろうか?」
ピューリタニズムはユダヤ教である。 》
(ゾンバルト#11:383頁)
信用主義は幽霊とは違う。むしろマクベスにおける魔女のようなものだ。
《『マクベス』だと、二人で魔女の予言を聞く。バンクォーとマクベスが二人で聞く。》
(柄谷行人「文学の〈外部〉」『柄谷行人対話篇2』より)
https://i.imgur.com/Nrevaz7.jpg
ちなみにトビト書では天使が活躍する。
https://i.imgur.com/9jxkADv.jpg
ジンメル、クナップ、インガム、F・マーティンが示したように金属主義は信用主義に
内包される。「危機」においては金属主義ではなく信用主義の方こそ、国家の姿を
借りて抑圧されたものとして回帰する。
ヴェーバーはクナップを評価しつつもその国家主義を批判し、さらに『宗教社会学』
でゾンバルトを批判したが、無意識裏にドイツ的人格主義を前提にしてお
りホブズボームはそれを理解していた。(チカコー218頁参照)
《定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同
の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。》
(.スピノザ『エチカ』4:73より)
椎名重明 『マルクスの自然と宗教』 参照
マルクス ユダヤ人問題に寄せて Zur Judenfrage 1844 光文社
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《彼らはこのことを意識はしないが、そうやっているのだ》
»Sie wissen das nicht, aber sie tun es. «
(Marx 1867 1:1:4, Karatani 2022 p.247)
»Jesus aber sprach: Vater, vergib ihnen sie wissen nicht, was sie tun! «
(Lukas 23:34 Luther 1534)
《重金主義は本質的にカソリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的で
ある。……しかし、プロテスタント教がカソリック教の基礎から解放されていないよう
に、信用主義も重金主義の基礎からは解放されていない。》
(『資本論』3:5:35、チカコー244頁2:3:④から孫引き。271頁3:1:④も参照。)
しかし重金主義がカトリックだとしたら、信用主義はユダヤ教、旧約に対応する。
ゾンバルトは『ユダヤ人と経済生活』で無記名証券の起源が紀元前のユダヤ人にあると
「トビト書」を根拠に書いている。新教はユダヤ教への回帰である。
《…わたしは慧眼なハインリッヒ・ハイネが、ピューリタニズムとユダヤ教との間の
親近性をかなり以前に洞察していたことを想起したいと思う。 「プロテスタントの
スコットランド人は」と彼は『告白』のなかでたずねる。「ユダヤ人ではないのか?
彼らの名前は、いたるところで聖書からとられているし、その上信心深そうな言葉は、
どこかエルサレム的パリサイ人的だし、宗教もブタ肉を食べてもよいというだけの
ユダヤ教ではなかろうか?」
ピューリタニズムはユダヤ教である。 》
(ゾンバルト#11:383頁)
信用主義は幽霊とは違う。むしろマクベスにおける魔女のようなものだ。
《『マクベス』だと、二人で魔女の予言を聞く。バンクォーとマクベスが二人で聞く。》
(柄谷行人「文学の〈外部〉」『柄谷行人対話篇2』より)
https://i.imgur.com/Nrevaz7.jpg
ちなみにトビト書では天使が活躍する。
https://i.imgur.com/9jxkADv.jpg
ジンメル、クナップ、インガム、F・マーティンが示したように金属主義は信用主義に
内包される。「危機」においては金属主義ではなく信用主義の方こそ、国家の姿を
借りて抑圧されたものとして回帰する。
ヴェーバーはクナップを評価しつつもその国家主義を批判し、さらに『宗教社会学』
でゾンバルトを批判したが、無意識裏にドイツ的人格主義を前提にしてお
りホブズボームはそれを理解していた。(チカコー218頁参照)
《定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同
の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。》
(.スピノザ『エチカ』4:73より)
椎名重明 『マルクスの自然と宗教』 参照
ユダヤ教のなかの「自然」 についてふれたマルクスは、 「私的
所有と貨幣との支配下でえられる自然観は、自然に対する現実
上の無視、実際上の格下げ」だと書いた。そしてそれに対し、
「「いっさいの被造物、水中の魚も空中の鳥も地上の植物も財産
にされてしまっているのはがまんがならないと し······
「被造物もまたばならない」といったミュンツァーを
マルクス ユダヤ人問題に寄せて Zur Judenfrage 1844 光文社
貨幣はイスラエルの嫉妬深い神であり、この神の前には他のいかなる神も存在することを許されない。貨幣は人間のあらゆる神を引き摺り下ろし、それらの神々を商品に変えてしまうのである。貨幣はすべてのものの普遍的な、それ自体として構築された価値である。そのため貨幣は、人間の世界や自然を含めたすべての世界から、それほんらいの価値を奪ってしまったのである。貨幣は、人間の疎外された労働であり、人間の疎外された現実存在の本質である。そしてこの疎外されたものが人間を支配しているのであり、人間はこの貨幣に祈りを捧げているのである。
ユダヤ人の神は世俗化され、現世の神になったのである。ユダヤ人の現実の神とは手形である。ユダヤ人の神は幻想的な手形にすぎない。
私的な所有と貨幣が支配するようになると、自然についての見方も変わる。現実的な観点のもとで自然を軽蔑し、実利的な観点からみて、自然の価値を貶めるようになったのである。たしかにユダヤ教のうちにも自然は存在するが、ただ空想のうちに存在するだけである。
トマス・ミュンツァーはその意味で、「あらゆる被造物が、すなわち水の中を泳ぐ魚も、空を飛ぶ鳥も、地に生える草もすべてが、人間の所有するものとされてしまった。しかし被造物もまた解放されなければならない」と、こうした事態を耐えがたいものであると語っているのである。
私的な所有と貨幣が支配するようになると、自然についての見方も変わる。現実的な観点のもとで自然を軽蔑し、実利的な観点からみて、自然の価値を貶めるようになったのである。たしかにユダヤ教のうちにも自然は存在するが、ただ空想のうちに存在するだけである。
トマス・ミュンツァーはその意味で、「あらゆる被造物が、すなわち水の中を泳ぐ魚も、空を飛ぶ鳥も、地に生える草もすべてが、人間の所有するものとされてしまった。しかし被造物もまた解放されなければならない」と、こうした事態を耐えがたいものであると語っているのである。
…
キリスト教はユダヤ教から生まれた。今やキリスト教はふたたび、ユダヤ教のもとに解消されることになったのである。
ユダヤ人問題に寄せて
Zur Judenfrage 1844
マルクス
光文社
第二部 ブルーノ・バウアー「現代のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力」
…
ユダヤ教の神と貨幣
そもそもユダヤ教の基盤をなしていたのは何だっただろうか? 人間の実利的な欲求、すなわちエゴイズムである。
だから一神教たるユダヤ教とは実際には、さまざまな欲求から構成された多神教なのである。この多神教は、トイレに行く行為まで神による戒律の対象にする。実利的な欲求とエゴイズムは、市民社会の原理なのであり、市民社会が政治的な国家を完全に自己の外部に排出してしまうと、純粋にそのようなものとして姿を現す。実利的な欲求とエゴイズムの神は貨幣である。
貨幣はイスラエルの嫉妬深い神であり、この神の前には他のいかなる神も存在することを許されない。貨幣は人間のあらゆる神を引き摺り下ろし、それらの神々を商品に変えてしまうのである。貨幣はすべてのものの普遍的な、それ自体として構築された価値である。そのため貨幣は、人間の世界や自然を含めたすべての世界から、それほんらいの価値を奪ってしまったのである。貨幣は、人間の疎外された労働であり、人間の疎外された現実存在の本質である。そしてこの疎外されたものが人間を支配しているのであり、人間はこの貨幣に祈りを捧げているのである。
ユダヤ人の神は世俗化され、現世の神になったのである。ユダヤ人の現実の神とは手形である。ユダヤ人の神は幻想的な手形にすぎない。
私的な所有と貨幣が支配するようになると、自然についての見方も変わる。現実的な観点のもとで自然を軽蔑し、実利的な観点からみて、自然の価値を貶めるようになったのである。たしかにユダヤ教のうちにも自然は存在するが、ただ空想のうちに存在するだけである。
トマス・ミュンツァーはその意味で、「あらゆる被造物が、すなわち水の中を泳ぐ魚も、空を飛ぶ鳥も、地に生える草もすべてが、人間の所有するものとされてしまった。しかし被造物もまた解放されなければならない」と、こうした事態を耐えがたいものであると語っているのである。
〈貨幣人間〉
ユダヤ教のうちには抽象的な形で、理論や芸術や歴史や、自己目的としての人間を軽蔑する傾向が含まれている。これは〈貨幣人間〉の現実的で意識的な立場を表現したものであり、こうした人間の徳を表現したものである。男性と女性の関係のように、類としての人間存在に根差した関係すら、取引の対象となるのである! そして女性に値がつけられて売りにだされる。
ユダヤ人はキマイラ的な国籍をそなえているが、これは商人の国籍であり、一般的には〈貨幣人間〉の国籍である。
ユダヤ教の律法の意味
ユダヤ教の律法は根拠も基礎もないものであり、これはユダヤ人の道徳性や法一般に根拠や基礎がないことを宗教的な戯画として示したものである。そしてエゴイズムの世界が、みずからの身を装うために使う形式的な儀礼の宗教的な戯画にほかならない。
ここでも人間の最高の態度は、律法にふさわしい態度であり、さまざまな戒律にたいする態度である。信徒たちがこの戒律にしたがうのは、こうした律法が彼らの意志や本質となっているからではなく、こうした戒律が信徒たちを支配しているからであり、それに背くと罰せられるからである。
バウアーは、ユダヤ教の聖典のタルムードの中に、ユダヤ教のイエズス会的な[偽善的な]要素が存在することを指摘しているが、この実利的なイエズス会的な要素は、エゴイズムを重視する世界が、そうした世界を支配しているさまざまな律法にたいして示す態度であり、こうした律法を巧みにごまかすのが、この世界で生きるための大切な技なのである。
つまりこうした律法の内部での私利の世界の動きは、律法を必然的に絶えず廃棄せざるをえないのである。 ユダヤ教の限界 ユダヤ教は宗教としては、教義としては、それ以上に発展することはできなかった。実利的な欲求に基づくものであるかぎり、ユダヤ教の世界観はその本性からして制限されたものであり、数行で表現できるようなものだからである。
しかしユダヤ教のように実利的な欲求の宗教は、その本性からして教義のうちではなく、ただ実践のうちでだけ完成することができたのである。その宗教の真理は何よりも実践のうちにあるからである。
ユダヤ教は新しい世界を作りだすことはできなかった。ユダヤ教にできたことは、新しい世俗的な世界の創造物や世俗的な世界のさまざまな関係を、自分の活動領域のうちに取り込むことだけだった。それはユダヤ教のような実利的な欲求の態度は、私利を目指す知性しかそなえておらず、受動的な姿勢をとるために、みずからを自由に拡張することはできなかったからであり、ただ社会状態が進展するとともに、みずからが拡張されているのをみいだすしかなかったからである。
キリスト教と市民社会
ユダヤ教は市民社会の完成とともに、その頂点に到達する。しかし市民社会は、キリスト教的な世界において、初めて完成するのである。キリスト教は人間の国民的、自然的、道徳的、理論的な関係をすべて外的なものとしてしまう。そして市民社会はこのキリスト教の支配のもとにおいて初めて、みずからを国家生活から完全に切り離すことができたのだった。市民社会は、人間が類としてそなえているすべての絆を引き裂き、こうした絆の代わりにエゴイズムと利己的な欲求を提示し、人間の世界をたがいに敵対する原子としての個人の世界に解体することができたのである。
キリスト教とユダヤ教の関係
キリスト教はユダヤ教から生まれた。今やキリスト教はふたたび、ユダヤ教のもとに解消されることになったのである。
キリスト教徒はもともとは、教義を重視するユダヤ人だった。だからユダヤ人は実利的なキリスト教徒であり、実利的なキリスト教徒はふたたびユダヤ人になったのである。
キリスト教はかつて、現実のユダヤ教を克服したとされているが、これはたんなる見掛けにすぎなかった。キリスト教は、粗野な実利的な欲求を片づける方法としては、青い天空に飛翔することしかできなかった。それはあまりにも高尚であり、あまりにも精神主義的な教えでありすぎたからである。
キリスト教はユダヤ教からでた崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な応用である。そしてこの卑俗な応用が、一般的な応用になることができるためには、人間が自己から、そして自然から疎外されるありかたを、完成したキリスト教が宗教として、理論的に完成する必要があったのである。
それによって初めてユダヤ教は一般的な支配に到達し、外化された人間と外化された自然を譲渡し、売り渡すことのできるものにすることが、利己的な欲求の奴隷に、あくどい商売の手に落ちる商品にすることができたのである。
このようにして譲渡されることは、自己が外化されたことの実践的な帰結である。人間は宗教にとらわれているかぎり、自分の本質を自分の外部にある幻想的な本質とすることによってしか、自己の本質を対象化することができない。それと同じように人間は利己的な欲求に支配されているかぎり、自分の生産物や自分の活動を、ある外部の存在の支配下に置かないかぎり、そしてその意味をある外部の存在によって、すなわち貨幣によって評価しないかぎり、実践的に活動することも、実践的にさまざまな対象を作りだすこともできないのである。
キリスト教の救済の概念は、[自己の救済だけを目的とするという意味で]利己的なものであるが、これが完成した形で実行されるならば、ユダヤ人の肉体的な[現世的な]エゴイズムに転化せざるをえない。そして彼岸への欲求は此岸での欲求に転化せざるをえず、主観主義はエゴイズムの至上化に転化せざるをえないのである。ユダヤ人はたしかに欲求においても不屈であるが、わたしたちはこれをその宗教によって説明するのではなく、その宗教の人間的な基礎、実利的な欲求、エゴイズムから説明するのである。
ユダヤ教と市民社会
ユダヤ人の現実の本質は、市民社会において普遍的な形で実現され、世俗的なものとなった。そのために市民社会はユダヤ人にたいして、ユダヤ人の宗教的な本質がまさに実利的な欲求の理念的な直観にすぎない非現実的なものであることを説得することができなかったのである。そこでわたしたちは今日のユダヤ人の本質を、旧約聖書のモーセ五書やタルムードの中だけでなく、現在の社会の中にみいだすことになるのである。それもたんに抽象的な本質としてではなく、きわめて経験的な本質としてみいだすのであり、ユダヤ人の偏狭さとしてではなく、社会にそなわるユダヤ的な偏狭さとしてみいだすのである。
社会がユダヤ教の経験的な本質を廃棄することができたならば、あくどい商売とそのさまざまな前提を廃棄することができたならば、ユダヤ人というものが存在することはできなくなるだろう。というのもそのときには、ユダヤ人の意識はもはや、いかなる対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的な基礎である実利的な欲求が人間化されるからであり、人間の個人的で感性的な存在と類的な存在のあいだの対立も解消されてしまうからである。 ユダヤ人が社会的に解放されるということは、社会がユダヤ的なありかたから解放されるということである。
ユダヤ人問題に寄せて
Zur Judenfrage 1844
マルクス
光文社
第二部 ブルーノ・バウアー「現代のユダヤ人とキリスト教徒の自由になりうる能力」
…
ユダヤ教の神と貨幣
そもそもユダヤ教の基盤をなしていたのは何だっただろうか? 人間の実利的な欲求、すなわちエゴイズムである。
だから一神教たるユダヤ教とは実際には、さまざまな欲求から構成された多神教なのである。この多神教は、トイレに行く行為まで神による戒律の対象にする。実利的な欲求とエゴイズムは、市民社会の原理なのであり、市民社会が政治的な国家を完全に自己の外部に排出してしまうと、純粋にそのようなものとして姿を現す。実利的な欲求とエゴイズムの神は貨幣である。
貨幣はイスラエルの嫉妬深い神であり、この神の前には他のいかなる神も存在することを許されない。貨幣は人間のあらゆる神を引き摺り下ろし、それらの神々を商品に変えてしまうのである。貨幣はすべてのものの普遍的な、それ自体として構築された価値である。そのため貨幣は、人間の世界や自然を含めたすべての世界から、それほんらいの価値を奪ってしまったのである。貨幣は、人間の疎外された労働であり、人間の疎外された現実存在の本質である。そしてこの疎外されたものが人間を支配しているのであり、人間はこの貨幣に祈りを捧げているのである。
ユダヤ人の神は世俗化され、現世の神になったのである。ユダヤ人の現実の神とは手形である。ユダヤ人の神は幻想的な手形にすぎない。
私的な所有と貨幣が支配するようになると、自然についての見方も変わる。現実的な観点のもとで自然を軽蔑し、実利的な観点からみて、自然の価値を貶めるようになったのである。たしかにユダヤ教のうちにも自然は存在するが、ただ空想のうちに存在するだけである。
トマス・ミュンツァーはその意味で、「あらゆる被造物が、すなわち水の中を泳ぐ魚も、空を飛ぶ鳥も、地に生える草もすべてが、人間の所有するものとされてしまった。しかし被造物もまた解放されなければならない」と、こうした事態を耐えがたいものであると語っているのである。
〈貨幣人間〉
ユダヤ教のうちには抽象的な形で、理論や芸術や歴史や、自己目的としての人間を軽蔑する傾向が含まれている。これは〈貨幣人間〉の現実的で意識的な立場を表現したものであり、こうした人間の徳を表現したものである。男性と女性の関係のように、類としての人間存在に根差した関係すら、取引の対象となるのである! そして女性に値がつけられて売りにだされる。
ユダヤ人はキマイラ的な国籍をそなえているが、これは商人の国籍であり、一般的には〈貨幣人間〉の国籍である。
ユダヤ教の律法の意味
ユダヤ教の律法は根拠も基礎もないものであり、これはユダヤ人の道徳性や法一般に根拠や基礎がないことを宗教的な戯画として示したものである。そしてエゴイズムの世界が、みずからの身を装うために使う形式的な儀礼の宗教的な戯画にほかならない。
ここでも人間の最高の態度は、律法にふさわしい態度であり、さまざまな戒律にたいする態度である。信徒たちがこの戒律にしたがうのは、こうした律法が彼らの意志や本質となっているからではなく、こうした戒律が信徒たちを支配しているからであり、それに背くと罰せられるからである。
バウアーは、ユダヤ教の聖典のタルムードの中に、ユダヤ教のイエズス会的な[偽善的な]要素が存在することを指摘しているが、この実利的なイエズス会的な要素は、エゴイズムを重視する世界が、そうした世界を支配しているさまざまな律法にたいして示す態度であり、こうした律法を巧みにごまかすのが、この世界で生きるための大切な技なのである。
つまりこうした律法の内部での私利の世界の動きは、律法を必然的に絶えず廃棄せざるをえないのである。 ユダヤ教の限界 ユダヤ教は宗教としては、教義としては、それ以上に発展することはできなかった。実利的な欲求に基づくものであるかぎり、ユダヤ教の世界観はその本性からして制限されたものであり、数行で表現できるようなものだからである。
しかしユダヤ教のように実利的な欲求の宗教は、その本性からして教義のうちではなく、ただ実践のうちでだけ完成することができたのである。その宗教の真理は何よりも実践のうちにあるからである。
ユダヤ教は新しい世界を作りだすことはできなかった。ユダヤ教にできたことは、新しい世俗的な世界の創造物や世俗的な世界のさまざまな関係を、自分の活動領域のうちに取り込むことだけだった。それはユダヤ教のような実利的な欲求の態度は、私利を目指す知性しかそなえておらず、受動的な姿勢をとるために、みずからを自由に拡張することはできなかったからであり、ただ社会状態が進展するとともに、みずからが拡張されているのをみいだすしかなかったからである。
キリスト教と市民社会
ユダヤ教は市民社会の完成とともに、その頂点に到達する。しかし市民社会は、キリスト教的な世界において、初めて完成するのである。キリスト教は人間の国民的、自然的、道徳的、理論的な関係をすべて外的なものとしてしまう。そして市民社会はこのキリスト教の支配のもとにおいて初めて、みずからを国家生活から完全に切り離すことができたのだった。市民社会は、人間が類としてそなえているすべての絆を引き裂き、こうした絆の代わりにエゴイズムと利己的な欲求を提示し、人間の世界をたがいに敵対する原子としての個人の世界に解体することができたのである。
キリスト教とユダヤ教の関係
キリスト教はユダヤ教から生まれた。今やキリスト教はふたたび、ユダヤ教のもとに解消されることになったのである。
キリスト教徒はもともとは、教義を重視するユダヤ人だった。だからユダヤ人は実利的なキリスト教徒であり、実利的なキリスト教徒はふたたびユダヤ人になったのである。
キリスト教はかつて、現実のユダヤ教を克服したとされているが、これはたんなる見掛けにすぎなかった。キリスト教は、粗野な実利的な欲求を片づける方法としては、青い天空に飛翔することしかできなかった。それはあまりにも高尚であり、あまりにも精神主義的な教えでありすぎたからである。
キリスト教はユダヤ教からでた崇高な思想であり、ユダヤ教はキリスト教の卑俗な応用である。そしてこの卑俗な応用が、一般的な応用になることができるためには、人間が自己から、そして自然から疎外されるありかたを、完成したキリスト教が宗教として、理論的に完成する必要があったのである。
それによって初めてユダヤ教は一般的な支配に到達し、外化された人間と外化された自然を譲渡し、売り渡すことのできるものにすることが、利己的な欲求の奴隷に、あくどい商売の手に落ちる商品にすることができたのである。
このようにして譲渡されることは、自己が外化されたことの実践的な帰結である。人間は宗教にとらわれているかぎり、自分の本質を自分の外部にある幻想的な本質とすることによってしか、自己の本質を対象化することができない。それと同じように人間は利己的な欲求に支配されているかぎり、自分の生産物や自分の活動を、ある外部の存在の支配下に置かないかぎり、そしてその意味をある外部の存在によって、すなわち貨幣によって評価しないかぎり、実践的に活動することも、実践的にさまざまな対象を作りだすこともできないのである。
キリスト教の救済の概念は、[自己の救済だけを目的とするという意味で]利己的なものであるが、これが完成した形で実行されるならば、ユダヤ人の肉体的な[現世的な]エゴイズムに転化せざるをえない。そして彼岸への欲求は此岸での欲求に転化せざるをえず、主観主義はエゴイズムの至上化に転化せざるをえないのである。ユダヤ人はたしかに欲求においても不屈であるが、わたしたちはこれをその宗教によって説明するのではなく、その宗教の人間的な基礎、実利的な欲求、エゴイズムから説明するのである。
ユダヤ教と市民社会
ユダヤ人の現実の本質は、市民社会において普遍的な形で実現され、世俗的なものとなった。そのために市民社会はユダヤ人にたいして、ユダヤ人の宗教的な本質がまさに実利的な欲求の理念的な直観にすぎない非現実的なものであることを説得することができなかったのである。そこでわたしたちは今日のユダヤ人の本質を、旧約聖書のモーセ五書やタルムードの中だけでなく、現在の社会の中にみいだすことになるのである。それもたんに抽象的な本質としてではなく、きわめて経験的な本質としてみいだすのであり、ユダヤ人の偏狭さとしてではなく、社会にそなわるユダヤ的な偏狭さとしてみいだすのである。
社会がユダヤ教の経験的な本質を廃棄することができたならば、あくどい商売とそのさまざまな前提を廃棄することができたならば、ユダヤ人というものが存在することはできなくなるだろう。というのもそのときには、ユダヤ人の意識はもはや、いかなる対象ももたなくなるからであり、ユダヤ教の主観的な基礎である実利的な欲求が人間化されるからであり、人間の個人的で感性的な存在と類的な存在のあいだの対立も解消されてしまうからである。 ユダヤ人が社会的に解放されるということは、社会がユダヤ的なありかたから解放されるということである。
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