2022年12月21日水曜日

苗族(ミャオ族)<その2> | 散歩道

苗族(ミャオ族)<その2> | 散歩道

DNA鑑定の結果、現代の苗族は、中国華北漢族がほとんど保有しない、長江文明人Y-O2a系(11%)とチベット系Y-D1(7%)を保有しており、黄河文明人(Y-O3系)に滅ぼされた華北先住チベット系民族(Y-D1)が神話の蚩尤族かもしれないという説があります。

また、東アジアでYAP+というY遺伝子を持っているのは、チベット人と日本人だけで、中国・韓国にはおりません。  これは、YAP+をもたない漢民族が中国・朝鮮を支配し、対抗勢力の男子を虐殺し、YAP+のY遺伝子が残らなかったと思われます。  YAP+はアフリカや中近東に多く見られ、チベットの山奥の逃れた人々が、中国南部を経由し、日本にやってきた、そして中国南部の長江文明の人々は漢民族に滅ぼされ、極東の島国の日本ではガラパゴスの如く、様々な民族のルツボになったという事でしょう。
https://ameblo.jp/314416tg/entry-12286907406.html

苗族(ミャオ族)<その2>

Renaissancejapnより

1.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html

2010/12/14

邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族  邪馬台国と卑弥呼


苗族の少女

東アジアの人々の顔は似ていますが、日本人とちょっと違うなと感じる事が多くありますが、苗族の人たちに違和感を感じません


苗族の少女

苗族は、中国の少数民族で、貴州省はじめ、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住んでいます。  そのルーツは、稲作発祥の地である長江中流域とされ、米食を主食とし、塩や酢で味付けした魚などの副食とともに1日3食とります。 また日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆、赤飯、餅、なれ鮨、味噌、醤油があり、さらに高床式倉庫、鳥居、鵜飼など極めて日本の風習に近いものがあり、我々日本文化のルーツではないかとされています。

BC2000年頃、寒冷期を迎え、黄河文明(=漢民族=龍信仰)が南下し、長江文明(=太陽・鳥信仰)は破壊され、一部の人々がボートピ-プルとなって日本に流れ着き、次にBC800年頃にまた寒冷期を迎え、黄河文明の漢民族は東南アジアからポリネシアにまで進出し、三苗(苗族=太陽族・鳥族・蛇族)が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れ、また一部の人々は、海を渡って日本に流れ着き(天孫降臨)、蛇(=三輪山)・鳥(=鳥居・天鳥船・八咫烏・白鳥:日本武尊)・太陽信仰(天照大御神=卑弥呼)をもたらしたと考えられます。

また、苗族は精霊信仰(アニミズム)で、女性中心の母権制社会で、女性のシャーマンもいたことからも、日本の邪馬台国に近いものがあり、魏志倭人伝にも江南人と倭人との習俗の共通性が記述されております


日本周辺の海流

日本周辺を流れる海流を考えても、中国南部から海を渡ってやってきたといのは、極めて自然であると思います。  出雲は出っ張っているので、対馬海流に乗って、この地にたどり着き文明が発達したのも自然で、鹿児島・宮崎に降り立ち(天孫降臨)、また北九州から瀬戸内海を渡ったルートもあるでしょう。  

それが、古代米(熱帯ジャポニカ米)の炭化米が発掘された地域は、日本の海人族の拠点と一致しており、海を渡って稲作が広がっていったと思われます。

邪馬台国と卑弥呼-24  稲作と海人族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1271.html
邪馬台国と卑弥呼-23  日本人新羅王 脱解王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html
稲作伝来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1247.html

また、中国南部では、越が呉をBC473に滅ぼし、呉の一部の人々は、海を渡って日本に逃れ、
広島県の呉市などは、呉の人がつくった町ではないか
と私は考えていますが、その後、BC334には越が楚に滅ぼされますが、この時にも越の人々が日本に逃れてきて、越国(福井県・石川県・富山県・新潟県・山形県)の米どころをつくったのではないでしょうか

米に関わりのある越の国、また苗族(ミャオ族)の苗という漢字も気にかかるところです。

苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
汤灿家乡美 Tang Can : My Beautiful Hometown 
http://www.youtube.com/watch?v=pQ3bSfr48u4&feature=related

2.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1274.html

2010/12/16

邪馬台国と卑弥呼-27  苗族の天岩戸伝説  邪馬台国と卑弥呼


天の岩戸伝説

中国南西部の苗族(みゃおぞく)にも、天の岩戸伝説があります。  苗族は、日本民族のルーツとも考えられており、太陽・鳥・蛇信仰をもち、稲作と漁業をなりわいとし、その食生活も極めてよく似ており、
米食を主食とし、塩や酢で味付けした魚などの副食とともに1日3食とります。 また日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆、赤飯、餅、なれ鮨、味噌、醤油があり、さらに高床式倉庫、鳥居、鵜飼など極めて日本の風習に近いものがあります。

苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
汤灿家乡美 Tang Can : My Beautiful Hometown 
http://www.youtube.com/watch?v=pQ3bSfr48u4&feature=related
美丽苗乡 Beautiful Miao Villages / 汤灿 Tang Can 
http://www.youtube.com/watch?v=fSZGSaQphtI&feature=related
苗族歌舞(蛇舞) 
http://www.youtube.com/watch?v=M6HledNO3aY

苗族の天岩戸伝説

昔は10個の太陽がありましたが、暑くてたまらないので、人々は9個の太陽を射落としました。 すると最後の太陽は、山に隠れ二度と昇ってこようとはせず、この世は闇となり、賢者達は相談し、太陽を呼び戻す使者を立てることにしました。  いろいろな動物が、次々に太陽に訪れ、二度とあなたを傷つけないから空に昇ってほしいと伝えましたが、太陽はしらんぷりをします。  最後に、雄鶏が大声で鳴くと、太陽はようやく姿を現します。 太陽は、鶏の時の声が大好きで、理詰めで相手を説得するより、相手の好きなものをあげる事が神(人)を容易に動かすという事で、雄鶏はこのときの功績で赤い冠が与えられたというものです。

鶏の原産地は、中国南部から東南アジアのあたりと考えられており、人が鶏の飼育をはじめて間もなくこのような話がつくられ、鶏の広まりとともに各地に伝播したものです。  

日本の天の岩戸伝説でも、神々が天安河に集まり、天照大御神を呼び出す相談をし、常世の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて一斉に時の声をあげさせており、話のストーリーが極めてよく似ております。

祭祀支族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1076.html

やはり、貴州や雲南省の人々が、戦乱を避けて、海を渡り、南九州にたどり着いたのが、天孫降臨だと思います。  ちなみに天=海(あま)であって、天(=海:あま)津族は、海人族であり、天の岩戸は、海の岩戸であり、海岸にある横穴であると考えるべきでしょう。 現在でも伊勢神宮の近くに、「天岩戸」と呼ばれる海食洞があります。

苗(みゃお)族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html
蛇信仰
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1273.html

稲作と海人族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1271.html
稲作伝来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1247.html

新嘗祭 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1253.html

稲作と桜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1264.html
富士山と桜
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1265.html

3.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1275.html

2010/12/17

邪馬台国と卑弥呼-28  自ら太伯の後と謂う  邪馬台国と卑弥呼


三国志 魏志 倭人伝

中国では日本人を「呉の太伯の子孫」とする説があり、「魏略」逸文や「梁書」東夷伝には、倭人は「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)と記されています。

太伯(たいはく)は、中国周王朝(BC1046-BC256)の古公亶父(ここうたんぼ)の長男ですが、権力闘争に嫌気が差し、中国の南方に移り住み呉を建国した人です。

やはり、邪馬台国や大和朝廷をつくったのは、中国南部から海を渡ってきた、稲作と漁業をなりわいとする海人族だと思われます。

そして由緒ある官幣大社である鹿児島神宮には、太伯が祭神として祀られています。
社格 : 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社 

邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html
邪馬台国と卑弥呼-26  蛇信仰 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1273.html
邪馬台国と卑弥呼-27  苗族の天岩戸伝説
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1274.html

長江文明の担い手である苗族の祖は蚩尤とされていますが、漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤の民族の討伐作戦を行い、敗れた蚩尤族の一派、九黎族は敗走し、三苗族と分派しながら四散、長江文明の華南へと逃げ込みます。  そして黄帝は三苗族を追撃する余波で長江文明まで滅ぼしてしまいました。 

三苗族の末裔ミャオ族は長江文明の遺臣(Y-O2a系)と協力して呉・越・楚を興し華北漢族と対抗します。 

苗家美
http://www.youtube.com/watch?v=_hLaJFjqjPQ&feature=related
汤灿家乡美 Tang Can : My Beautiful Hometown 
http://www.youtube.com/watch?v=pQ3bSfr48u4&feature=related
美丽苗乡 Beautiful Miao Villages / 汤灿 Tang Can 
http://www.youtube.com/watch?v=fSZGSaQphtI&feature=related
苗族歌舞(蛇舞) 
http://www.youtube.com/watch?v=M6HledNO3aY

DNA鑑定の結果、現代の苗族は、中国華北漢族がほとんど保有しない、長江文明人Y-O2a系(11%)とチベット系Y-D1(7%)を保有しており、黄河文明人(Y-O3系)に滅ぼされた華北先住チベット系民族(Y-D1)が神話の蚩尤族かもしれないという説があります。

また、東アジアでYAP+というY遺伝子を持っているのは、チベット人と日本人だけで、中国・韓国にはおりません。  これは、YAP+をもたない漢民族が中国・朝鮮を支配し、対抗勢力の男子を虐殺し、YAP+のY遺伝子が残らなかったと思われます。  YAP+はアフリカや中近東に多く見られ、チベットの山奥の逃れた人々が、中国南部を経由し、日本にやってきた、そして中国南部の長江文明の人々は漢民族に滅ぼされ、極東の島国の日本ではガラパゴスの如く、様々な民族のルツボになったという事でしょう。


Geographic map showing the Frequencies of the DYS199T(Blac),the DYS199C(open),and YAP+(grey)alleles in the 20 Asian and nine New world samples in the survey

このグラフは、アメリカの形質人類学誌(American Journal of Physical Anthropology)に、1977年に掲載された「Y染色体の印を持つ者とベーリング海峡からの分散(Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispersals)」という論文にある図を紹介したものですが、半円の黒の部分がY染色体のDNA塩基配列で、YAP+という特殊な塩基を持っている人の割合を示しています。

"Y Chromosome Markers and Trans-Bering Strait Dispers"
http://www.familytreedna.com/pdf/Karafet_et_al.1997.pdf

イスラエルの調査機関「アミシャブ」が行ったDNA検査によって、チベットに住む少数民族がユダヤの失われた10支族の末裔である事が判明しましたが、同じ遺伝子を持つ苗族が日本に渡ってきて(天孫降臨)、日本を建国したならば、日本に数多く残るユダヤ(イスラエル)の痕跡は理解できます。


失われた十支族


日本神話の神武天皇と旧約聖書のエフライム族 系図と話が全く同じ

日ユ同祖論
http://wave.ap.teacup.com/applet/renaissancejapan/msgcate45/archive?rev=1
天皇家の紋章
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/242.html
天皇家 もう一つの紋章
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/244.html
相撲は古代イスラエルの神事だった 
http://www.youtube.com/watch?v=U9NqwW6Bka8

4.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1276.html

2010/12/18

邪馬台国と卑弥呼-29  苗族の芦笙祭   邪馬台国と卑弥呼


貴州 苗族の芦笙祭

毎年旧暦9月26日から28日まで、黄平県の周辺にある苗族の村でほとんど毎日芦笙祭りがあります。 芦笙祭りは苗族が集中している村で行いますが、別の苗族の村の人たちも大勢やってきて、芦笙を吹き、もっとも賑やかなのは重安鎮の芦笙祭りです。

芦笙は六本の竹と共鳴管からなる楽器で、日本の雅楽で使われる笙(しょう)の原型とされています。

尚、雅楽は現存する合奏音楽(オーケストラ)としては、世界最古のものです。

ミャオ族舞踊 芦笙舞を舞う 
http://www.youtube.com/watch?v=BxCqFTrZZTU&feature=related
【民歌中国 720HD视频】芦笙舞 Lusheng Matching Making Dance / 绥宁苗族舞蹈 Jing Miao Dance 
http://www.youtube.com/watch?v=pbIOP45vNpA&feature=related
雅楽 越天楽
http://www.youtube.com/watch?v=BZ0lcZKFQ5M&feature=fvw
五節の舞 
http://www.youtube.com/watch?v=IRFLSyzQ13Y&feature=related
王朝の舞
http://www.youtube.com/watch?v=eT9Zo8bQX2I&feature=related

5.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1277.html

2010/12/18

邪馬台国と卑弥呼-30  倭人と刺青  邪馬台国と卑弥呼


刺青をしたニュージーランドのマオリ人  

魏志倭人伝によると、倭人は「皆面黥面文身」というように男子はみな顔や体に入れ墨し、墨や朱や丹を塗っており、古くから、中国に来た倭の使者はみんな自らを太伯の子孫と称していると記されています。

黥面とは顔に刺青を施すことであり、文身とは身体に刺青を施すことであり、南方の海洋民族によくみられる特徴のようであります。

漁師なら分かりますが、何故に魏への使者が刺青者?と思われると思いますが、倭人の祖が苗族と考えれば話があいます。  

中国の伝説によれば、BC26世紀頃に漢民族の原型である華夏民族の君主・黄帝が蚩尤(しゅう)を破り、敗れた蚩尤民族は苗(みゃお)族と黎(リー)族に分裂。  周王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚や呉を建国します

苗族の、頭飾りのデザインと、蚩尤の漢字が良く似ているようにも、私は思います。



太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物です。 

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいましたが、末子の季歴の息子の昌が文武に優れており、古公亶父は我が家を興すのは昌だと言っていた為、

これを推し量って、太伯と虞仲は季歴に後を継がせるために荊蛮の地へと自ら出向きました。 周の者が二人を迎えに来たたものの、二人は髪を切り、全身に刺青をして中華へと帰るに相応しくない人物としてこれを断ります。

太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従い、この国は呉とされています。

このように、呉の初代王である太伯は髪を短く切り、全身に刺青をしていたため、太伯の末裔と自ら称する倭人の身分の高い者も刺青をしていた可能性があります。  

実際、魏志倭人伝には「男子皆黥面文身以其文左右大小別尊之差」と刺青の位置や大小によって社会的身分の差を表示していた事や、当時の倭人諸国の間で各々異なったデザインの刺青が用いられていた事が述べられており、

魏志倭人伝では、これら倭人の刺青に対して、中国大陸の揚子江沿岸地域にあった呉越地方の住民習俗がよく似ているとしています。

苗族は、中国の少数民族で、貴州省はじめ、湖南省、雲南省、四川省、広西チワン族自治区、湖北省、海南省に住んでいます。  そのルーツは、稲作発祥の地である長江中流域とされ、米食を主食とし、塩や酢で味付けした魚などの副食とともに1日3食とります。 また日本の納豆菌と遺伝的に同種の納豆、赤飯、餅、なれ鮨、味噌、醤油があり、さらに高床式倉庫、鳥居、鵜飼など極めて日本の風習に近いものがあり、我々日本文化のルーツではないかとされています。

BC2000年頃、寒冷期を迎え、黄河文明(=漢民族=龍信仰)が南下し、長江文明(=太陽・鳥信仰)は破壊され、一部の人々がボートピ-プルとなって日本に流れ着き、次にBC800年頃にまた寒冷期を迎え、黄河文明の漢民族は東南アジアからポリネシアにまで進出し、三苗(苗族=太陽族・鳥族・蛇族)が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れ、また一部の人々は、海を渡って日本に流れ着き(天孫降臨)、蛇(=三輪山)・鳥(=鳥居・天鳥船・八咫烏・白鳥:日本武尊)・太陽信仰(天照大御神=卑弥呼)をもたらしたと考えられます。

また、苗族は精霊信仰(アニミズム)で、女性中心の母権制社会で、女性のシャーマンもいたことからも、日本の邪馬台国に近いものがあり、魏志倭人伝にも江南人と倭人との習俗の共通性が記述されていることからも、

天孫降臨とは、彼ら(天津族=海津族=海人族)が、海流に乗って南九州にたどり着き、稲作(陸稲・水稲)の技術を日本に伝え、稲作により豊かになり、国力が増したのが邪馬台国で、卑弥呼が神功皇后で、朝鮮を支配下に置き、神功皇后の息子が応神天皇(=神話では応神天皇、地上界では仁徳天皇で同一人物)=仁徳天皇で、仁徳天皇が大和政権をつくったと考えるべきではないでしょうか。

何より、由緒ある官幣大社である鹿児島神宮には、太伯が祭神として祀られている事と、魏志倭人伝での、倭人と太伯の記述の事実は決定的であります。
社格 : 官幣大社>国幣大社>官幣中社>国幣中社>官幣小社>国幣小社>別格官幣社 

さらに、BC800年頃に大挙して日本にやってきた時期は、神武天皇の即位がBC660年の話のつじつまが合い、さらに新羅を征服し、応神天皇の時代に新羅から秦氏が大挙してやってきて、大型土木工事である古墳の巨大化がはじまるのも話があっています。

稲作伝来
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1247.html
邪馬台国と卑弥呼-24  稲作と海人族
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1271.html
邪馬台国と卑弥呼-8  神功皇后と台与
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1255.html
邪馬台国と卑弥呼-7  武内宿禰(たけうちのすくね)
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1254.html
邪馬台国と卑弥呼-11  二人の卑弥呼
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1258.html

邪馬台国と卑弥呼-23  日本人新羅王 脱解王
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html

邪馬台国と卑弥呼-17  稲作と桜 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1264.html
邪馬台国と卑弥呼-18  富士山と桜 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1265.html

邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html
邪馬台国と卑弥呼-27  苗族の天岩戸伝説
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1274.html
邪馬台国と卑弥呼-28  自ら太伯の後と謂う
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1275.html
邪馬台国と卑弥呼-29  苗族の芦笙祭  
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1276.html

宇佐八幡宮
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1038.html

6.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1278.html

2010/12/19

邪馬台国と卑弥呼-31  苗族の結婚と日本神話  邪馬台国と卑弥呼


伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)

日本神話の国産みで、イザナギ神とイザナミ神が天(海)の御柱を回って、「あなにやし」と声をかけて結婚し、日本の島々を産んでゆきますが、

このような習慣は、古くからイスラエルでおこなわれていたのと同じで、ユダヤ人の風習として、結婚式綺麗に飾った花の柱を中央に置き、新郎新婦が柱を廻り、出会った所で結婚成立とする風習があります。  アナニヤシとはヘブル・アラム語で「私は結婚する」という意味です。

雲南省の苗族は、春祭りに豊饒の柱を山上に立てて、男女がその回りをまわり、結婚を祝福します。  

イザナギとイザナミの話では、右回りにまわって蛭子ができたので、船に乗せて流し、ニ神は天に昇り、神々の教えを請うたところ、「まわりかたを逆にして声をかけよ」といわれ、左回りにまわり、「あなやにし」といったところ、次々と良い子が産まれました。

中国では、左回りは天のまわりかた、右回りは地のまわり方とされ、より高貴なものが左回りをすべきだとされています。  やはり、日本神話のイザナギとイザナミの結婚の話も、雲南省の苗族が日本に伝えたものであると考えられます。

The Miao Kingdom Special Collection 
http://www.youtube.com/watch?v=nUUMm_5if54&feature=related
Miao/Hmong Girl Li Yumei Performing Miao Song on National Television 
http://www.youtube.com/watch?v=j-MCHtsF7Zo&feature=related

そして、イザナギとイザナミに流された蛭子は、兵庫県西宮に着き、成人します。  日本には古くから海岸に流れ着いた奇妙なものを「えびす様」つまり夷の地からの贈り物として祀る習慣が在り、「えびす神」は異様な形をしいなければならず、えびす様を祀る神社の総本社である西宮神宮では、ご祭神として、「えびす大神(蛭児大神)」を祀っています。

不具者の姿をした神が、福の神になるなら、蛭児にも金儲けのご利益があるだろうと考えられ、恵比寿神社の末社で蛭児が祀られ、さらに蛭児を「えびす様」として拝む神社まで出来ました。


えびす宮総本社 西宮神社
http://nishinomiya-ebisu.com/index.html

また、蛭子が海に流され、立派に成人した話には、丹後から新羅に流され、第4代新羅王となり、「昔」王朝をつくった日本人の話が、朝鮮の正史「三国史記」に史実として記されています。 

丹後の「籠神社」には、古代にこの地から一人の日本人が新羅に渡って王様になったという話が残っており、間違いないでしょう。

邪馬台国と卑弥呼-23  日本人新羅王 脱解王 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1270.html

イザナギとイザナミが最初に創ったのは、淡路島の南にある、おのころ島(沼島)で、次に淡路島、四国、隠岐島、九州、壱岐島、対馬島、佐渡島 、本州 という順序で産んでゆきます。  また、日本の国宝や重要文化財の約80%を保管する、愛媛県今治市の大三島に日本総鎮守と呼ばれる大山祇神社が鎮座していることからも、日本建国に、瀬戸内海地方が大きく関与している事は間違いありません。

呉を建国した、雲南省の苗族が、最初に住み着いたのが淡路島や呉市なのかも知れません。
着物のことを呉服といいますが、苗族の派手な衣装と、日本の派手なデザインな着物には共通点
があるように思います。

邪馬台国と卑弥呼-30  倭人と刺青
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1277.html

邪馬台国と卑弥呼-25  苗(みゃお)族 
http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1272.html


大山祇神社の大杉  樹齢2600年  根周り20m、高さ16m

大山祇神社
http://www.genbu.net/data/iyo/ooyamadumi_title.htm


いざなぎ神宮
http://www.genbu.net/data/awaji/izanagi2_title.htm

7.http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/1279.html

2010/12/20

邪馬台国と卑弥呼-32  安曇(あずみ)氏  邪馬台国と卑弥呼


志賀島

黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは、体に付いたケガレを落とす為に、九州の日向の海に入って身を清めますが、

海の底で身体を清めた時に産まれたのが「底津少童命」と「底筒男命」、
海の中ほどで生まれたのが「中津少童命」と「中筒男命」、
海面で産まれたのが「表津少童命」と「表筒男命」、

底津少童命・中津少童命・表津少童命の三神をあわせて「綿津見三神」
底筒男命・中筒男命・表筒男命の三神をあわせて「住吉三神」 といい、

綿津見三神は、「漢委奴国王」と刻まれた金印が発見された福岡県の志賀島にある、志賀海神社の祭神であります。

志賀島は、古くから玄界灘沿岸の水上交通の要地として知られており、1世紀~3世紀にかけて、邪馬台国のライバルである奴国の領域で、奴国の航海民が祭っていた海神が、綿津見三神です。

4世紀になり、大和朝廷が九州を制圧したとき、志賀島を本拠地とする航海民は、大和朝廷に従い、安曇氏と呼ばれるようになります。  

安曇という名将は、「あま(海)つみ(津見)」が訛ったものですが、大王の下で、海の神を祭る豪族が安曇氏であります。

安曇氏は、4世紀初頭に九州から近畿地方に進出し、摂津国阿曇江(現在の大阪市)を本拠とし、それ以来、大和朝廷の水軍として活躍し、その功績が認められ、全国各地の航海民の支配者としての地位を授けられました

当時の人々は、航海民のことを「海人(あま)」と呼んでいましたが、安曇氏の配下に組み込まれた航海民は、「海部(あまべ)」と呼ばれるようになってゆきます。

阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美半島・阿積・泉・熱海(伊豆)・安曇野市(長野県)・飽海郡(山形県)などの地名は、安曇一族が移住したことからきています。

また、安曇氏の起源は、中国大陸の揚子江流域に住む舟の上で生活する種族であったとされ、奴国を建国したとする説があります。  BC5世紀に呉越戦争に敗れた呉の国の人がボートピープルとなって日本にやってきたのでしょう。

ちなみに住吉三神を祭った豪族は津守(つもり)氏ですが、津守の名称は、摂津の住吉(現在の大阪市)の津を守ったことから名づけられたものです。

 

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