2022年12月25日日曜日

【魏志倭人伝】【古代史の謎】邪馬台国は阿波にあった!? きーへチャンネル

 【魏志倭人伝】【古代史の謎】邪馬台国は阿波にあった!?













邪馬台国「四国・徳島説」 | 古代日本まとめ
https://kodainippon.com/2019/05/03/post-12/

邪馬台国「四国・徳島説」

邪馬台国

2019.05.03

四国説を考える上での前提

邪馬台国・四国説を考える上での前提を以下のページで紹介している。
こちらを予め読んでおいてほしい。

邪馬台国「四国説」

その上で、今回は「四国・徳島説」を紹介する。

Products from Amazon.co.jp

邪馬台国は徳島にあった

邪馬台国が徳島にあったと考える説がある。
ウィキペディア「邪馬台国四国説」
*群昇(郷土史家)編集:『邪馬壱国は阿波だった魏志倭人伝と古事記との一致』新人物往来社
*山中康夫(元テレビプロデューサー):『高天原は阿波だった』講談社

四国説を紹介した番組も放送されている。
2009年には、テレビ東京の『新説!?みのもんたの日本ミステリー!失われた真実に迫る』が放送された。

日本最古の前方後円墳が徳島で確認されたことがその理由である。
中でも徳島は、邪馬台国が登場する時代以前から、古墳を作るような重要な都市国家であったことが分かっている。

また、魏志倭人伝では邪馬台国からは水銀丹(朱)が出るとしているが、弥生時代に水銀を採掘していたのは徳島県(若杉山遺跡)だけとしている。
(実際には、三重県の「丹生鉱山」などが縄文時代から採掘されている)

この徳島の邪馬台国が、拠点を海を東に渡って畿内に移したのがヤマト王権という趣旨だ。

邪馬台国=女王国(卑弥呼のいる場所、首都)ではない

邪馬台国「四国説」
でも解説しているが、そもそも、「邪馬台国」は魏志倭人伝には1回しか記述されておらず、どのような「国・都市・集落」なのかも不明である。
ここから、邪馬台国を「連合国家」と見做す説もたくさん出ている。

その一方で、あたかも「邪馬台国」と同一視されているのが「女王の都・国」の記述だ。

原文:南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月  官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸

日本語訳:南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。

このような記述から、一般的には、

「邪馬台国女王の都」

だと解釈されるわけだが、しかしこれは、

「女王の都邪馬台国にある」

と解釈することもできる。

すなわち、邪馬台国と女王国は別物とも読める。
つまり、魏志倭人伝にある「邪馬台国」とは、「女王国」を含む連合国の可能性もあるのだ。

このことは、魏志倭人伝における書き分けとして、以下が考えられる。

倭国=日本列島にある国々
倭人=日本列島に住んでいる人々
邪馬台国=倭国における有力な連合国であり、投馬国や狗奴国はその他の連合国
女王国=卑弥呼が統治している国々
女王の都=卑弥呼が住んでいる首都

そのように読めば、魏志倭人伝の記述から有力視されている「九州説」だけでなく、近畿説やその他の場所も十分に検討に値する。

事実、魏志倭人伝では邪馬台国の人口を、
「推計7万余戸(約30万人)」
としているが、これはあまりにも莫大な人口規模である。
当時(3〜4世紀)の中国(魏)の首都・洛陽でも20万人(後に50万人)ほどであるから、
ましてや平地の少ない日本の国土で、一か所に何十万人も暮らすというのは考えにくい。
参考:歴史上の推定都市人口(ウィキペディア)

魏志倭人伝を素直に読むのであれば、邪馬台国は広域連合国家と解釈するのが自然である。

そして、その首都である「女王の都」「女王国」は日本おける最大都市である必要はなく、「鬼道(呪術)によって民衆を惑わした」とされる卑弥呼にとっては、神聖な場所であればいいのだ。

そう考えれば、いわゆる「邪馬台国(事実上の首都「女王の都」)」は徳島にあったと考えるのも無理な話ではない。

四国・徳島説の行程

一般的に考えられているルート

よく知られている「四国・徳島説」の行程は以下のようになる。

研究者によっては、高知県西部の投馬国から先は「南へ水行10日、または陸行1ヶ月」と読む人もいるが、高知県西部から徳島まで水行10日では無理があるし、徒歩で1ヶ月という速度も速すぎる。

平安時代に書かれた紀貫之『土佐日記』には、土佐から京に帰る様子を伝えているが、その移動期間は水行で約50日だ。
土佐日記によれば、土佐(高知)から阿波(徳島)まで約1ヶ月かかっている。
とてもじゃないが、それ以前である弥生時代の航海技術と道路整備では厳しいことが分かるだろう。

逆に言えば、土佐日記がこの行程を補完してくれるとも言える。
まず、土佐日記が書かれた時代には徳島・大阪方面には船で移動しているが、実はこのルートが出来たのは平安時代から。
それまでは退避地や宿場となる船着き場が無く、弥生時代には船で移動できなかったのだ。
ゆえに、高知市付近から徳島までを1ヶ月かけて陸行したというのは辻褄が合う。

次に、「瀬戸内海を通ればいい」という批判もあるが、これは外国・使節団にとっては自殺行為だ。
瀬戸内海は思っているほど簡単に通れる海ではない。
潮流が速く複雑であるし、何より瀬戸内海は「海賊」が跋扈している危険地帯なのだ。
よそ者が瀬戸内海で船を漕げば、まともに航行できない。それを狙ったのが瀬戸の海賊である。
これを討伐・平定し、神戸・福原に遷都しようとしたのが平清盛の時代である。

たしかに瀬戸内海は、古代日本で交易によって栄えたとされている。
つまり、経済活動は活発であった。
しかし、この海域を航行するのは、地元漁師や海賊とコネのある者、もしくは高い操舵技術と兵士を持つ上級者コースなのである。
倭国の案内人としても、上級者コースより初心者コースで使節団を案内しようと考えたのかもしれない。

別ルートを考えてみる

邪馬台国・四国説を唱える上で課題となるのが、魏志倭人伝にある「邪馬台国は帯方郡から1万2000里にある」という記述だ。
そして、都市の規模が投馬国5万戸、邪馬台国7万戸という途方もない大きさも課題となる。

これを妥当な人口規模として解釈するために、「邪馬台国・四国説」のページでは、瀬戸内海の四国側を邪馬台国として解釈することを試みた。
以下の図である。

この考え方を用いれば、上述したような「瀬戸内海は危険地帯」ではなく、瀬戸内海は邪馬台国にとっての庭になる。
よって、勢力図や移動ルートも以下のようになるのではないか。

なぜ邪馬台国ルートだけが水行10日なのか?
それは、邪馬台国・女王国へは来島海峡から陸行した可能性があるからだ。

来島海峡は、日本で最も潮流が速い場所として知られている。
古来、「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と呼ばれるほどの海の難所、超危険地帯なのである。

それゆえ、九州側から来た要人が四国側に移りたければ、ここで船を降りるのが安全ではないだろうか。
逆に、本州側は潮の流れが比較的穏やかなため、そのまま船で移動できたはずだ。
向かう先は、吉備王国があったとされる「投馬国の中心地」岡山だったかもしれない。

周防大島から広島にかけてのルートは不明である。
大小様々な島があるため、当時の人たちが効率的と思われるルートを使ったのだろう。
来島海峡を中心とした図を以下に示す。

「来島海峡を越えたところから水行に戻せばいいのでは?」
と考えられるかもしれないが、実際のところ、当時の航海は基本的には「危険」なのである。

それよりも、今治から新居浜、四国中央市にかけての海岸線はなだらかな土地が続くため、陸行した方が天候に左右されずに移動できたのかもしれない。

一大率は女王国(徳島)の北(鳴門)に置いた?

原文:自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之、常治伊都國。

和訳:女王国より北に特に一大率という官が置かれ、諸国を検察し、諸国は之を畏れており、伊都国に常駐していた。

魏志倭人伝・日本語訳はウィキペディアによるnone

伊都国から出張してくる一大率は、徳島説では鳴門あたりに配置されていたものと思われる。
理由としては、一大率の仕事内容が、

日本語訳:倭王が魏の都や帯方郡、韓の国に使者を派遣したり、帯方郡の使者が倭国に遣わされた時は、いつも港に出向いて荷物の数目を調べ、送られる文書や賜り物が女王のもとに届いたとき、間違いがないように点検する。

というものであるため、倭王たちの船が行き来する港に近く、女王国に入国する荷物の点検がしやすい場所にあると考えられる。
その点、鳴門海峡に陣取っておけば、女王国からほど近いところであり、そこから瀬戸内海における海上交通の要衝である、高松、小豆島、児島の港を監視していたものと思われる。

おそらく、本州側にあったと思われる倭国の諸国は、一旦、小豆島や児島に船をつけて一大率による検察を受けるよう義務付けられていたのではないだろうか。
そこで得られた許可証を、伊都国でもう一度見せる必要があったのかもしれない。
伊都国を出れば、ようやく朝鮮半島に向けて出港できるからだ。
わざわざ伊都国から一大率を出張させる意義は、そこにあったと思われる。

逆に、伊都国の人間が不正を働けば、女王国に出張している一大率が人質になるわけだ。

Products from Amazon.co.jp


“徳島の歴史を塗り替える考古学発見” 「加茂宮ノ前遺跡」は、縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点地 | 一般社団法人 忌部文化研究所
http://www.awainbe.jp/tsuushin/katsudo/hokoku/h024/

“徳島の歴史を塗り替える考古学発見” 「加茂宮ノ前遺跡」は、縄文後期から国内最大の水銀朱生産の拠点地

邪馬台国と水銀朱と阿波

 弥生中期から終末期に至る水銀朱の生産を支えたのが、阿南市水井町の「若杉山遺跡」であった。3世紀の『倭人伝』には、邪馬台国には「其の山に丹(たん)あり」として、丹を産出する山があると書かれるが、「若杉山遺跡」がその最有力地となる。水銀朱を用いた卑弥呼による鬼道の演出に、阿波の水銀朱は欠かせない存在であったに違いない。「若杉山遺跡」は、1世紀初頭から3世紀後半にかけての遺跡で、採掘が最も活発であったのは2世紀後半から3世紀前半。まさしく卑弥呼の時代、邪馬台国の時代と重なっている。2018年(平成30年)2月には水銀朱を採掘する日本最古の坑道跡の横穴が発見されたとの新聞発表(阿南市・県教育委員会)があった。吉野川下流域を中心に展開されたその水銀朱祭祀は、『魏志倭人伝』の報告どおりに展開されていた。そして「若杉山遺跡」で採掘された水銀朱は、畿内各地へと搬出された。その積出港となった遺跡は、板野郡板野町大寺の「黒谷川郡頭遺跡」で、それは弥生後期後半からの大規模な朱の精製集落でもあった。
 2017年(平成29年)2月には、「若杉山遺跡」の近く、阿南市加茂町の「加茂宮の前遺跡」(弥生中期~古墳前期、1~3世紀)で、水銀朱の原料となる辰砂や精製の石器が発見され、それは水銀朱の精製工房跡であった。若杉山で生産された辰砂は鮎喰川下流域から板野郡の郡頭遺跡に運ばれ、そこから畿内へと搬出されていったと考えられている。


縄文期における国内最大の水銀朱精製遺跡「加茂宮ノ前遺跡」

 2019年(平成31年)2月19日に徳島県教育委員会、及び徳島県埋蔵文化財センターの発表によると、阿南市加茂町の「加茂宮ノ前遺跡」で、古代の祭祀に使用された赤色顔料である水銀朱を生産した縄文時代後期(約4000年前)の石臼や石杵が300点以上。また、水銀朱原料としての辰砂原石が大量に出土した。水銀朱の関連遺物の出土量としては国内最多、生産拠点としては国内最大かつ最古級であることが確認された。石臼の大きいものは直径30㎝、石杵は約10㎝、生産した水銀朱を貯める土器や耳飾りはじめ関連遺物は1000点以上。これまで縄文期、国内最大の水銀朱生産の拠点とされた三重県の天白遺跡、森添遺跡などは数十点の出土物に留まる。「加茂宮ノ前遺跡」は、その数十倍の規模となる。また、縄文後期の竪穴住居跡、石を円形状に並べた祭りや儀式用とみられる遺構300点以上が見つかっている。さらに畿内で縄文期から信仰された阿波の結晶片岩製の石棒が数多く出土していることも興味深い。
 阿波地域は、縄文後期より弥生時代、そして邪馬台国時代にかけて継続的に水銀朱の精製・生産・祭祀を行った日本における水銀朱祭祀の先進地であった。

天皇の即位「大嘗祭」と阿波忌部と安房館山
<忌部文化研究会「安房館山支部」設立&出版記念講演会>

○開催趣旨: 2019年、新たな元号とともに新天皇が即位され、11月には天皇即位の大嘗祭が古式に則って斎行されます。その中で徳島の阿波忌部氏は歴代天皇の大嘗祭で麁服(あらたえ)を調進する役目がありました。今回の大嘗祭でも古慣習に則り、麁服が調進される予定です。その阿波忌部が黒潮で到達し東国(関東)を拓く礎となったのが房総半島南端の古代安房国(館山市)の地でした。館山市や南房総市には阿波忌部ゆかりの「安房神社」「布良崎神社」「洲崎神社」「洲宮神社」「下立松原神社」「莫越山神社」などが残されています。今回のイベントを機に忌部研究や 忌部文化経済交流の拠点の一つとして安房館山支部を置くことになりました。新時代を迎えるこの時期に、忌部研究の第一人者である林博章氏を阿波忌部ゆかりの館山にお招ねきし、阿波忌部をテーマに聴講する機会をもちたいと思います。多数のご来場をお待ちしております。

○日 時: 平成31年2月23日(土曜日) 13:30~16:30 受付:13:00

○テーマ: 天皇の即位「大嘗祭」と阿波忌部と安房館山

○定 員: 150名

○講 演:

講 師: 須恵 泰正 氏

「阿波・麻植・忌部」:三木家のある旧麻植郡木屋平と忌部神社のある吉野川市山川町の紹介

講 師: 林 博章 氏 (忌部文化研究会 会長)

第1部「天皇即位の大嘗祭と阿波忌部」
大嘗祭の歴史的経緯と意義を語り、阿波忌部と大嘗祭の関係をスライドで説明

第2部「阿波忌部が拓いた安房館山」
新史料に基づき館山市における阿波忌部との関わりを説明、関東全体への動きを新史料で説明し、今後の展開を提案

○会 場: 芳喜楼(ほうきろう)中華レストラン会館(館山市) セミナールーム

○懇親会: 17:00より芳喜楼にて

○主 催: 忌部文化研究会 安房館山支部(支部長 丸 淳一)

○団 体: 館山市・館山市教育委員会・南房総市・南房総市教育委員会

挨拶する鈴木馨氏
司会を務める高野啓子さん

 阿波忌部が黒潮で上陸した千葉県館山市で歴史的な講演会が開催された。当日は、館山市だけでなく、千葉県や関東各地より大嘗祭における阿波忌部の麁服調進を間近に控え、興味を示す方々が約150名、大勢集い立見となる盛況となった。講演会後の懇親会も約50名が参加、今後の忌部交流に思いを寄せた。



卑弥呼の改葬前と後の墓(邪馬台国阿波説) | 次世代に遺したい自然や史跡
https://ameblo.jp/kochi-romp/entry-12747084202.html

卑弥呼の改葬前と後の墓(邪馬台国阿波説)

<金印を墳墓に納めたことが古文書に>

全国には卑弥呼の墓とされるものがいくつもあるが、比定するにあたり、重要な三つの条件がある。一つ目に墳墓の径が百歩余り、ということ、二つ目に墳墓周辺から中国(魏)製の三角縁神獣鏡が出土していること、三つ目は当該墳墓周辺や卑弥呼の居住地域に金印がかつてあったこと。全国に卑弥呼の墓と呼ばれるものは多いが、これらの条件を全て満たす地はなかなかない。

一つ目の条件はあまりにも有名だから補足する必要もないと思うが、魏志倭人伝には「卑弥呼以て死す、大いに冢(塚)を作る。径百歩余」とある。つまり、直径140~150mほどの墳墓ということ。


二つ目の条件については、魏志倭人伝に記述されている、卑弥呼が景初3年(239)、魏へ使者を送ったところ、魏から「銅鏡百枚」を与えられた、という、その銅鏡が三角縁神獣鏡なのである。

三つ目については、上記の遣いを送り、貢ぎ物を献上したことについて、魏の皇帝は卑弥呼を親魏倭王に任じ、金印を授けた、となっている。

この三つの条件、全てを満たす地が徳島市にある。式内大社、天石門別八倉比売神社(あまのいわとわけやぐらひめじんじゃ)周辺である。

神社背後には御神体となっている八倉比売神社一号墳(上図)があるのだが、古文献「天石門別八倉比売大神御本記」によると、祭神である大日孁命(おおひるめのみこと)を埋葬しているとのこと。

大日孁命は天照大神の別名である。つまり、多くの邪馬台国説同様、天照大神=卑弥呼とした上で、八倉比売神社一号墳を卑弥呼の墓と見做しているのである。

考古学関係者は、一号墳築造推定時期(4世紀代)と卑弥呼の生きた年代とが合わない旨、よく言うが、この古墳は御本記によると元々、背後に聳える気延山(212.3m)の「東の峯」にあった。小治田御宇元年(593)、現在地に改葬しているのである。


その東の峯にあった墳墓について御本記には「神陵の径百八歩」と記されているのである。更に大日孁命の葬儀の様子も記述されているのだが、驚くことに墳墓に金印を納めたことも記されているのである。但し、この金印の詳細については分からない。

ところで卑弥呼が授かった金印は公的なものなのだが、古代中国では皇帝から金印その他の印を授かった場合、その者が亡くなった時は印を皇帝に返却するのが通例だった。

但し、特に遠方在住者はこの限りではなかった。例えば都から遠く離れた雲南省在住者の場合、返却せず、当該者の墓に納めている。まさに大日孁命の場合と同じである。

そもそも、金印を墳墓に納めるケース等、日本に於いては極めて稀なことである。尚、金印は卑弥呼から次の時代の男王やその次の台与へ引き継がれた、という論者もいる。

三角縁神獣鏡については、一号墳は神陵ということもあり、発掘は行われていないので有無は不明だが、近くの宮谷古墳側から3枚出土している。平成元年の出土時、朝日新聞(全国版か徳島版かは不詳)では「卑弥呼の鏡が出土」と報じられた。

それは青銅の質が良く、鋳上がりもきれいなことから、中国製である舶載鏡と見做されたからである。神獣鏡は何も卑弥呼の墓から出土する必要はない。卑弥呼の生活圏にあれば問題ないのではないかと思われる。

以前紹介した、天岩戸伝説地や天照大神が休憩していた岩屋、卑弥呼の住居跡等、徳島県内には天照大神(卑弥呼)や関連人物の伝承地、比定地が非常に多い。だからこそ、八倉比売神社一号墳=卑弥呼の墓説も真実味を帯びているのである。


その一号墳側へは現在、車道が通じているため、墳丘にも2分あれば登ることができる。気延山最短コース登山口(山頂との高度差は百十数メートル)の駐車スペースから南東に上がる狭い道路が、神社まで繋がっている。

一号墳は徳島市教育委員会の「八倉比売神社古墳群測量調査概要」によると径約35mの円墳で、円墳としては県内第3位の規模ということだが、元々は前方後円墳で、藩政期、前方部を崩して社殿を新築している。墳丘の隅には、藩政期に造られた五角形の石積み祭壇があり、その上に祠が祀られている。

祭壇は高さ60cm、一辺約2.5m。この奇妙な形から、雑誌「ムー」でも複数回取り上げられた。陰陽道やユダヤ民族との繋がりを説く者もいる。

このすぐ西には一辺約20mの方墳、八倉比売神社二号墳がある。更に気延山登山道を登っていくと、次々と尾根に気延山古墳群が現れる。どれも大きく、標柱がなければただのピークに思える。

山頂東の200mピークが東の峯で、堀切のような箇所に「東の峯展望台」(実際には展望台はない)の石柱が建っている。ここは人工的に尾根を掘り切ったように思える。元の卑弥呼の墓の築造時によるものか。

石柱が示す道は方向感覚がやや可笑しくなりそうだが、墳丘跡から墳の際を走っており、平石の石積みが露出している箇所もある。

墳丘の端には石造の祠が祀られている。御本記にここが元の神陵跡(上の写真と下図)である旨の記述があるから祀ったものと思われる。ここに朽ちた木製の展望台道標があることから、かつては展望が良かったのだろう。


気延山山頂にも祠と、役行者や弘法大師等の石像がある。彼らはこの山が神域であるから、修行したのだろう。

句碑もあり、そこには源義経の名も記されているが、屋島への進軍途次、この山で休止した伝承がある。

その時、弁慶が平石を麓へ向かって投げたということだが、それが麓の田へ突き刺さった。後世、その石を成形して刻字したのが、「内谷の板碑」(上の航空写真と下の写真)だと言われている。

気延山山頂も展望はないが、すぐ北西の航空障害塔からは辛うじて平野部や遠方の山並みを何とか望むことができる。

帰路、標高140mの五差路から南東に下ると、井戸を信仰対象にした大泉神社に行けるが、この真名井という井戸も五角形である。ただ、特に謂われ等はない。

大泉神社のすぐ下は前述の気延山登山口に通じる道路。この山は回遊コースもあるので、ネット等で調べられたい。下山後は麓の徳島市立考古資料館や内谷の板碑へ寄られたい。

今後も古代や超古代遺跡記事を投稿して貰いたい、という方は下のバナーを是非。


人気ブログランキング




0 件のコメント:

コメントを投稿