3. サッカーの起源と伝播
【スポーツの歴史を知る スポーツとは】
世界で最も盛んなスポーツは?と問われたら、サッカーと答える人が少なくないはずだ。国際サッカー連盟(FIFA)加盟の国・地域は208を数え、国際オリンピック委員会(IOC)加盟の205カ国・地域をうわまわる。むろん、国際連合加盟国数よりも多い。
しかし、答えはバスケットボールである。バスケ約4億5000万人に対し、約2億6000万人と引き離されてサッカーは2位。4年に1度のFIFAワールドカップの盛り上がりが、サッカー人気を印象づけているのだろう。
ボールひとつあれば、ゲームができる。ルールを定めた競技規則は17項目。それも7つは競技場等の規則で、プレーにおけるルールは10項目と、極めてわかりやすい。
サッカーのリフティングのように見える、紀元前4世紀頃のギリシャのレリーフ
複雑な競技ではないから、きっと起源は古いだろう。確かに古代エジプトや古代ギリシャ、古代ローマの遺跡から、足で丸いボール状の物体を蹴る仕草のレリーフが発見されている。また、南米のインダス文明やメキシコのマヤ文明の遺構からも、ボールを足で扱っている壁画などが見つかっている。
世界4大文明の1つ古代メソポタミアでは、馬に乗った男たちが球体を棒で打ち合い、奪い、抱えて目的地に運ぶ遊びがあったという。いや、これにより、勝者が王の娘を
ポロのようであり、サッカーやラグビーにも似たこの身体活動は古代ローマを経てヨーロッパに流布していく。
一方、東方の中国にも伝えられ、球体を蹴り合う「
中国・宋の時代の蹴鞠
それがほんとうにサッカーの起源といえるのか、疑問を持つ人も少なくない。
サッカーの起源については諸説ある。FIFAの蹴鞠容認以前、中世のイングランドを起源とするのが定説であった。
8世紀頃のイングランドでは、戦争に勝利すると敵の将軍の首を切り取って蹴りあい、勝利を祝ったという。それが大衆の間に広まり、王の首に見立てた球体を蹴って決められた地点まで運ぶ「遊び、祭り」となった。村どうしの"対抗戦"となる場合が多く、しかし参加人数も手の使用制限も、場所もさまざまでルールなどない状態であったという。
17世紀のカルチョ
また、8世紀以前のイタリアには、宮廷の門でボールを蹴りあい金を賭ける遊びがあった。「カルチョ」と呼ばれ、数名の男が球を蹴り合い格闘技の要素もあった。メソポタミアから伝えられた遊びである。イタリアでは現在もサッカーを「カルチョ」と呼ぶが、少なくともイタリアにおける起源であろう。
11世紀から12世紀のフランスには「ラ・シュール」と呼ばれる球体を蹴り合うサッカー、ラグビー、ホッケーに似た遊びがあった。復活祭やクリスマスに階級を超えて行われ、けが人もでる激しい活動であった。
中世イングランドで行われていた危険な競技「モブ・フットボール」
ラ・シュールが英国に渡り、その後、オックスフォードやケンブリッジなどの名門大学に進むためのエリートを養成するパブリックスクールでルールが工夫、改良されていき、フェアアプレーやチームワークなどを学ぶ側面も加味され、近代スポーツに開花する。
こうしたサッカーの前身ともいうべき遊戯が発展していく中世ヨーロッパは、政治・軍事をしきる騎士、農民、商人、都市生活者など身分が固定された封建社会でもあった。階級社会のなかでスポーツは、階級による発達を遂げながら、しかし、異なった社会間の交流の場ともなっていった。
貴族の子弟は騎士となるための厳しい教育をうけ、水泳、競走、跳躍、乗馬、剣術、馬上のヤリ試合と格闘、射撃(狩猟)、
農民の身体活動は農業生産を
中世の都市は商人、手工業者、金融業者などで構成された共同体で、自治、自決、自衛の意識が高かったという。とりわけ自衛の必要性から身体訓練が流布し、フェンシングやレスリング、射撃などがもてはやされ、ダンスや球戯が楽しみとして取り入れられた。
やがて、貨幣経済の発展は農村から都市への人口流入を招き、いきいきとした都市型スポーツとなっていく。それらは、民衆のスポーツへの
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- 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員
1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。
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