2022年12月15日木曜日

ゾンバルト『独逸社会主義』



ゾンバルト『独逸社会主義』

ゾンバルトは邦訳109頁でエンゲルス「共産主義の原理」全集④393頁を引用。
★★



Ueber die Gestaltung in der kommunistischen Gesellschaft läßt

sich Engels, wie folgt, aus:

,,Der gemeinsame Betrieb der Produktion kann nicht durch

Menschen geschehen, wie die heutigen, deren jeder einem einzigen

Produktionszweige untergeordnet, an ihn gekettet, von ihm aus-

gebeutet ist, deren jeder nur eine seiner Anlagen auf Kosten aller

anderen entwickelt hat, nur einen Zweig oder nur einen Zweig

eines Zweiges der Gesamtproduktion kennt.... Die gemeinsame

und planmäßig von der ganzen Gesellschaft betriebene Industrie

setzt.... Menschen voraus, deren Anlagen nach allen Seiten

hin entwickelt sind, die imstande sind, das gesamte System der

Produktion zu überschauen (!). Die durch Maschinen schon jetzt

untergrabene Teilung der Arbeit (das ist der schon oben

erwähnte Lieblingsgedanke von Marx, W.S.) wird also

gänzlich verschwinden. Die Erziehung wird die jungen

Leute das ganze System der Produktion rasch durchmachen las-

sen können, sie wird sie in den Stand setzen, der Reihe nach von

einem Produktionszweig zum anderen überzugehen, je nachdem

die Bedürfnisse der Gesellschaft oder ihre eigenen Neigungen (!)

sie dazu veranlassen... Auf diese Weise wird die kommunistisch


https://archive.org/details/werner-sombart-deutscher-sozialismus/page/90/mode/2up?q=engels


https://play.google.com/books/reader?id=IIUuAAAAYAAJ&pg=GBS.PA24&hl=ja


Grundsätze des Kommunismus: eine gemeinverständliche Darlegung

Friedrich Engels

19141 · Buchhandlung Vorwärts P. Singer


電子書籍


共産主義の原理:常識的な解説

フリードリヒ・エンゲルス

19141 - P. シンガー出版社

電子書籍



原著
Deutscher Sozialismus by Werner Sombart, 1934


《社會主義を以て、大體に於て社會的「進歩」の意味に解する見解は、私の知るかぎりでは、プルードンに帰する。 彼はあるとき裁判會議に於て、議長が「それぢやあ、そもそもその社會主義とは何ですか」と問ふたに對し、「それはすべて社會の改善を念願することです」と答へた。 そして裁判官がこれに對して、「それぢやあこの場合、われわれみんなも社會主義者である」といつたとき、プルードンは「私の考へもまさしくその通りです」と答へた。》


ゾンバルト『独逸社会主義』邦訳1936年

53頁


https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1256107

https://twitter.com/slowslow2772/status/1605039514098941953?s=61&t=Q87ORoMy7XRkFStrQmo4zA

以下反ユダヤ、親ナチと言われる問題の部分、
★★★★




232~4

ゾムバルト 獨逸社會主義 

第十三章 國民

子孫をつくり出した。 ゆゑに知らないものは、この混血兒が純獨逸的な子孫でないとは思ひもかけなかったほ

どである」と。

 またチェムバレンは、「純文明化したユダヤ人は、......もはやユダヤ人ではない。けだし、 ユダヤ精神の理念を

拒むことによつて、諸観念の複合體、即ち一つの「信仰」によつて聯闘が生ずるこの國民性から脱け出してゐる

からである」 (Grundlagen, 1, S. 458.) といつてゐる。

 だがしかし、いま一つの重要な決定がある。それは、ユダヤ精神は決してユダヤ人の人間と結び合はされてお

るものではなく、最後のユダヤ人、最後のユダヤ人の子孫が絶滅せられたとしても、なほ生きつづけうるといふ

こと、これである。このことは、二つの事柄と關係がある。第一は、ユダヤ精神がユダヤ的ならぬ血統の人間に

根を下しうること、そしてまた経験が逐一立證する如く、事實上もしばしば根を下してみること、これであ

る。 チェムバレンによれば、「内面的ユダヤ人」なるものがゐる。 これについて彼のいひ表はすところによれ

ば「ユダヤ人たるためには、何も證據となる鉤鼻をもつ必要はない。むしろそれは特殊の感じ方、特殊の考へ

方を示してある。ひとはイスラエル人たらずとも、速やかにユダヤ人たりうる。人々はたゞ熱心にユダヤ人と交

際し、ユダヤ人の新聞を読み、 ユダヤ人の人生観、文學藝術に通暁しさへすればよいのである。...... われわれ

は使徒パウロとともに『けだし外面上ユダヤ人たるものはユダヤ人にあらず。 内面に潜むものこそ、 ユダヤ人た

れ』といふことを洞察しなければならない」 (Grundlagen, 1, S. 457,458) と。 ユダヤ精神は現代の大部分を支配

してみるではないか。 けだし經濟時代の精神としてわれわれが第一章で學び知ったものは、しばしばユダヤ精神

そのものに他ならないからである。そしてこのに關するかぎり、カール・マルクスが、「實践的ユダヤ精神は、

キリスト教民族の實践的精神となった」といひ、「ユダヤ人は、キリスト教徒がユダヤ人になったかぎりに於て

「解放せられた」といひ、また「ユダヤ人の眞の本質は、市民社會に於て實現する」といつてゐるのは、たしかに

正しいのである。

 しかしこの最後の言葉には、いま一つの關係が暗示されてゐる。大抵の場合この關係は看過されてゐるが、

それは、ユダヤ精神の影響をうけて、われわれの存在の外的構造全體が一定の意味に形成され、したがってユダ

ヤ人の在ると否とに拘はらず存在してゐること、いひかへれば、ユダヤ精神は幾千の制度、慣習中に、たとへば

われわれの法律、われわれの憲法、われわれの生活様式、われわれの經濟のうちに沈澱し、「客観化」されてゐ

ること、これである。とりわけ私のユダヤ人に關する著作中にも證明せられてゐるやうに、われわれの經濟は少

なからずユダヤ人によって特徴づけられてゐる。たしかにさうにちがひない。とはいへ一たび形成され終った

いまでは、制度や事業形態はユダヤ人からも、ユダヤ人ならぬものからも保護されてゐる。爲替、有價證券、取

引所、百貨店、銀行、金融資本などは、大なり小なりユダヤ人のなせるわざではあらう。しかし一たび存在する

に到った上は、もはやユダヤ人には介意しない。世界最大の金融資本家たちは、アリヤン系のものである。取引

所や投機の多くの騒ぎには、非ユダヤ的な人名が結びつけられてゐる。

 ゆゑにユダヤ精神から解放されんがためには そしてそれは獨逸民族、とくに社會主義の主要課題であら

ねばならぬ全ユダヤ人を排斥するだけでは十分でない。 非ユダヤ的な心構への涵養だけでは足らない。むし

制度的文化を改變し、もはやそれが「ユダヤ精神」の防波堤として役立たないやうにすることこそ、肝要で

ある。


ユダヤ精神は幾千の制度、慣習中に、たとへばわれわれの法律、われわれの憲法、われわれの生活様式、われわれの經濟のうちに沈澱し、「客観化」されてゐる…》

という指摘はフロイトを想起させる。



ゾンバルト再考
https://love-and-theft-2014.blogspot.com/2022/09/blog-post_3.html 


マルクス ユダヤ人問題に寄せて Zur Judenfrage 1844 光文社 

https://freeassociations2020.blogspot.com/2022/12/zur-judenfrage-1844.html 


ヴェルナー・ゾンバルト (Werner Sombart)
1863-1941 
Deutschen Socialismus: A New Social Philosophynone, 1934.

ゾムバルト 獨逸社會主義
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1256107


書誌情報

タイトル
独逸社会主義
著者
ゾムバルト [著][他]
出版者
三省堂
出版年月日
昭11
請求記号
716-2
書誌ID(国立国会図書館オンラインへのリンク)
000000722753

目次・巻号
独逸社会主義 [224]
標題
目次
譯者序言
原著者序言

第一篇 經濟時代/1
第一章 バベルの塔/3
第二章 社會及び國家の改構/18
・  第一節 社會内部の破壞/18
・  第二節 生活形式の變化/21
・  第三節 公共生活の變化/26
第三章 精神生活/31

第四篇 獨逸社會主義とは何ぞや/142
第十章 この言葉の異る意味/142
第十一章 何が獨逸的であるか/144
第一節 肉體/145
第二節 心情/159
第三節 精神/181
第十二章 獨逸社會主義の目的と手段/191
第一節 一般原則/191
第二節 社會秩序/197
第三節 目的への途/201

第五篇 國家/204
第十三章 國民/210
第一節 その槪念と本質(國民と民族)/210
第二節 人口政策/221
一 槪說/221
二 量的人口政策/223
三 質的人口政策(人種問題)/225 ★★★★
第三節 國民主義/238
第十四章 公共體/247
第一節 國家と社會/247
第二節 國家の外的構造/251
第三節 國家の内的構造/257
一 分業社會の「自然的」秩序/257
二 獨逸民族の傳統的秩序/258
三 現存秩序の批判/260
第十五章 共同體/275
第一節 個人と國家/275
第二節 共同體の本質と意味/280
第三節 如何にして個人を國家のものとするか/286
第六篇 經濟/289
第十六章 技術/290
第一節 何が技術であるか/290
第二節 近代技術の個性/292
第三節 「技術時代」/299
第四節 技術の影響/303
第五節 技術の評價/306
第六節 技術の抑制/313
第十七章 財の消費/316
第十八章 生產/329
第一節 計畫經濟の本質一般/329
第二節 生產の構成/336
一 國土(國民)による構成/336
二 經濟領域(經濟部門)による構成/346
三 經濟組織(及び經營の大さ)による構成/350
第三節 生產の調節/360
一 經濟指導の原理/360
二 經濟政策の指導觀點/375
三 經濟生活の再興(勞働供與計畫)/383


★★★
《マルクス発展理論の中心に位みするものは、大経営が疑ひもなく優越的であるといふドグマである。かゝる優越性は自由競争の支配下、即ち資本主義時代にあっては、一般的な経営の集中(増大)によって達成せられてみる。 この現象に應じて、既に見た如くマルキシストは、あらゆるに中小經營的存在が消え去り、つひにはたゞ一握りの僅かな 「大資本家」 が残留するにすぎなくなると想像するのである。》
邦訳134~135頁

《大経営の空想とともに、平等の要求を正統観するための最も有効な證拠なもまたなくなる。すでに見た如く、マルキシズムに於ては、質的労働を破壊してこれを質の差なき部分に分解することにより、平等の要求を基礎づけてみたのであるが、その論拠がなくなるのである。》
邦訳136頁



以下解説より

かつてはマルクスの最もよき理解者として知られ、エンゲルスをして、 「マルクス系の綱要の全として
優れたるを興
してマルクスの著述中にマルクスの前にいるところを見るに成功」したといはし
め (Die Neue Zeit, XIVY したがってそのゆゑに多くのとくにわがに於ける人々から言讃せられてみ
たゾムベルトが、次第に国家主義に傾いて行ったことは、早くから人々の注目するところであり、またゾムバル
トが大であればあるだけ、人々の非難するところであった。 岩版
辭典」の如きは全くこののみを
して ツムバルトの著 「社会主義及び社會問題」 (Sozialismus und soziale Bewegung im 19. Jahrhundert)
vev
が、版を重ね、名を改める (同書第十版は「プロレタリヤ社會主義」 (Proletarischer Sozialismus) と改名せられ
た) にしたがって、如何にマルキシズムに対して批判的になって行ったかといふのみを論じてみるほどであ
マルクス主義を脱したソムベルトは、その後、「近代社會の経済的運動法則をあらはならしめる」ことを目的
としたマルクスの「資本論」に対抗して、資本主義の生成発展を論究した。 この論究の成果が、彼の主著とし
て知られる 「近代資本主義」 (Der moderne Kapitalismus) である。
 しかるにこの労作に対しては、「理論がない」といふ非難があった。この非難に対して答べたものが、これま
た經濟上の最近の名著として知られる「三つの経済」 (Die drei Nationalökonomien) である。彼はこの書
に於て、彼の著書が「理論」の書であること、三つの
(verstehende Na-
中の所謂「了解する經済學」
tionalökonomie) であることをしたのである。
「獨逸社會主義」を著はすまでのゾムバルトは、以上の如くであった。即ち彼は、マルクスに極めて接近してみ
た時代から、これを離れて、「了解する經濟」の立場に立った時期へと展して来たわけである。 ところが、
いま彼の「三つの経済」をみると、マルクス主義の経済理論は「整頓する經済學」 (ordnende Nationalökono-
mie) のなかに數へられてゐる。かくて彼は、第一の たる「整頓する經濟」から、第二の「了解する
として来たともいふことができる。
では、最後の第三の「方向を示す経済」 (richtende Nationalōkonomie) は、どうなったのか。この問ひに
答へるものが、われわれの「獨逸合主義」に他ならない。 巨匠ゾムバルトはこの書に於て、さらに第三の展


















ゾムバルト 獨逸社會主義

くしてこのことから、資本主義の代りに、かる不公平の避けられる如き經濟組織が現はるべきであるとす
ることによって、これらの理論を通常の倫理
る點に於て、それは頂に達する。彼らは同じこの役割
的見地から反駁しようと試みたのである。
しかしながらかる考へ方は、マルキシズムと相去ること極めて違い。 マルクス慣値論を批判せんとする
ならば、それはたゞこの値論が陥った矛盾、とくにそれが擬制と事實解との別をいたことにもとづ
矛盾を発見することのみによって、可能であらう。 しかし私はこの問題の論究に入ることを止める。かく
てはあまりにも理論的、方法論的研究に深入りしすぎることになり、本書の趣旨に反するからである。
それにまたかくの如き研究は、マルクス系の脆弱さを設するためには分のことである。マルクスの
系が政治的意義を有するものであるかぎり、 慣値論がそのうちに占める地位は表面的なものである。だから
私はこの系を概観するときにも、それを述べなかったのである。また同じ理由によって、値論を反駁し
したとて、決してマルクス系の存績をゆるがすことはできない。マルクス系の核心に突き當るには、その
種なる理論の支持し得ざることを説明しなければならない。このことを次に試みよう。
すでにわれわれが學び知ったマルクスの展理論に対しては、批判は主としてその具體的誤謬 (tcln cis-
rigkhUehenithtita) の説明を以てなされるであらう。

 一、マルクス発展理論の中心に位みするものは、大倉が疑ひもなく優越的であるといふドグマである。
かゝる優越性は自由競争の支配下、即ち資本主義時代にあっては、一般的な経営の集中(大)によって達成
せられてみる。 この現象にじて、既に見た知くマルキシストは、あらゆるに中小経的存在が消
え去り、つひにはたゞ一握りの僅かな 「大資本家」 が残留するにすぎなくなると想像するのである。
 社會主義と大經營といふ二つの概念が、如何に密接にマルキシストの中で融け合つてゐるかは、ロシヤの例
がこれを設する。ロシヤでは、「プロレタリヤ獨裁者」は、レニンの次の言葉にしたがって年の間的に、あ
らゆる方面に大經營をとり入れようと努力してみる。 レニン曰く、家獨占資本主義は「社会主義への入口
に他ならない。 けだしそれは、歴史の椰子のなかでは、それとその夫の段階ち所謂主義との間に、もは
や中間の段階の存在しない段階を意味するからである」と。
この説に対しては、夫の如き根據が主張せられる、
イ、大經營の優越性は、決して一般的ではない。 それは極めて重要な経済部門(農業)に存在しない。
大の優越性は絶対的ではなく相対的である。 大きいほどよいといふことはできない。むしろいひうる
ことは、各経済領域ごとに、それぞれ「適雷」なの大さがあつて、これを超えると、利益は却って不利
に浸る。
高度資本主義時代に於ける事實上の展は、決して経営の一般的集中なる結果をもたらしはしなかった。
それは後に(一五三頁)示す獨逸の統計字によって明かである。 これによれば、農業に於ては何らの集中
も起らなかったし、他の経済門に於ても、大内に働く人の数は、 決して小に従事するものより多くはな
かった。
経営の集中には、資本所有の集中がしない。したがってまた決して「大資本家」の数も減少しない。 け
だし資本の所有は、株式会社によって分類したからである。しかしまた同じく株式の原理により、資本の所有と
企業活動との分離が起って、「企業家のデモクラシー化」をもたらすため、資本主義的集中には「大資本家」の減
少ないのである。
ホ實際上起った集中(大)は、多くの場合して上合理的なものではなく、一部分は(とくにコンツェル
を構成する場合には) 純資本主義的な利、即ち銀行の信用政策、取引所の掛引に帰せられるものである。
集中が「經營上合理的」であるところでも、それは決して大経営が民経済上の優越性を有することを
明しない。 資本主義的のうちに於てのみ支配的な収益性の見地は、国民経済上の利益にとつて決して決定的
ではないからである。

しての無件的優越性が打破せられるとともに、いまやまたマルクス系の他の要素も、その対象
をふ。とくに
かいいかりや主義、即ち産業プロレタリアートと結合し、かゝるプロレタリヤの利金を目的とする主義が
さうである。 社會主義運動、 したがってプロレタリヤ運動は、 「多數者のための多者の運動である」とマルクス
はいつてゐるが、かくの如き假定の誤謬であることは、 獨逸の如く強度に工業化せるに於てすら、銀労働者
のが人口の半ばにもせず、大産業「プロレタリアート」の数が人口の三分の一をわづか超えるにすぎない
とき、明かとなるであらう。 そしても
、必ずしも経済的にすら優越せる形態でないとす
るならば、ひとはかる
それにも
のみの支配する如き經濟組織に向って努力する必要はないわけである。
かゝはらずかる努力をするならば、それはやがて別のところで示すやうに、何によっても是認されることのな
い、何れにしても合理的考察の方によって認されることのない味の涙まりに他ならないであらう。


三、大経営の空想とともに、平等の要求を正統観するための最も有効な論拠なもまたなくなる。すでに見た如く、
マルキシズムに於ては、質的労働を破壊してこれを質の差なき部分に分解することにより、平等の要求
を基礎づけてみたのであるが、その論拠がなくなるのである。


四、同様にしてマルキシズムの一主義もまた、成立し得ない。 あらゆる
あらゆる資本主義文
マルクスの搾取理論が示した如き方向に於けるであったとす


第九章 マルキシズムに於ける

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