2022年12月28日水曜日

レオン・バッティスタ・アルベルティ Leon Battista Alberti、1404 - 1472

レオン・バッティスタ・アルベルティ - Wikipedia

ゾンバルト
『ブルジョワ』
#8

第二部 市民精神
 第八章 市民の美徳  
 われわれが今日、資本主義の精神として言い表わしているもののなかには、企業精神と営利衝動のほかにも、私が市民の美徳の概念のもとに一定の複合体としてまとめた他の多くの精神的特性がある。そのなかに私は、よき市民と家父長、堅実で「思慮に富む」実業家を形づくるすべての見解と原則(それに、これらにしたがってつくられた態度や、ふるまい)がふくまれていることを理解している。別の表現をすれば、あらゆる完成された資本主義的企業家、あらゆるブルジョワのなかに、「市民」がひそんでいる。彼はどんな様子をしているのか? 彼はいかにして世に現われたか?  私の知るかぎりでは、「市民」は完成された姿では、十四世紀になるころ、フィレンツェに登場した。こうした人物は明らかに、十三世紀中に誕生した。これによって私は、「市民」をどこかの都市の全住民とか、商人、手工業者ではなく、表面的には市民として出現したグループをはじめて発展させた母体、もちろん、とくに括弧つきの「市民」以上にうまい表現方法がない特別の精神状態をもつ人物であると自分が理解していることをすでに表明した。今日でもわれわれは「彼は『市民』である」といっているが、それは階級ではなく、タイプをさしているのだ。
  われわれが「市民」の誕生を問うたとき、着眼点をまさにフィレンツェにおいたのは、すでに十五世紀にあの都市に彼らがいたことを明らかにする豊富な証言があったからである(141)。実業家や、とにかくそのころの実業生活となじみの深い一連の人々(十四世紀のニューヨークともいえるこの都市で、その種の人物でない者があっただろうか!)は、彼らの見解を、価値の高い回想録あるいは信仰告白書のなかに書き記した。これらの著作からは、完全にはっきり、市民原則の化身であるアメリカのベンジャミン・フランクリンの姿がわれわれに向かって歩み寄ってくるのだ。十七、十八世紀にはじめて多様に発生したとみられているもの、すなわち、はっきりした謙譲と礼儀正しさのすべての特徴をそなえた秩序立った市民生活の根本原則は、すでに一四五〇年ごろフィレンツェの羊毛商人と両替業者のたましいのなかで生き生きとした実体をつくっていた。

 十四世紀を通じての「市民」の完成されたタイプであり、その著作が、市民的世界観の早い時期における精神状態について判断するために、われわれにとってきわめて貴重な資料となっている人物は、L・B・アルベルティである。彼には、有名な家族や家政に関する著作、たとえば『家族論』などがある。これらの著作のなかには、実際にデフォーとベンジャミン・フランクリンがのちに英語で述べたことがすべてのっている。しかしアルベルティの家政に関する著作は、これらがすでに書かれた時代に称讃され愛読されたこと、出版されるとすぐに他の家父長たちが、一部は原文どおり、また一部は抜粋の形で、彼らの年代記や回想録のなかに引用したことからも明らかなように、なによりもまず文献として、われわれにとって絶大な価値をもっている。
  そのためアルベルティが家族や家政に関する本のなかで述べたもろもろの見解(これは教訓書および信仰告白書ではあるが)は、すでに広い層の人々のあいだにゆきわたり、もちろん実業界の内部にひろがっていただけにせよ、一種の時代精神をなしていたという結論を出してもよいだろう。
  そこで私は、これからアルベルティの見解や意見の骨子を紹介し、これを補足する意味であのころの他の人々の意見も引用してみよう。当然のことながら、私は、アルベルティが経済生活に対するおのれの立場について述べた著作の部分にだけ言及することにする。他方、彼の他の生活観は、それが特別の経済思想の形成に意味がある場合にのみ、観察の対象にする。
  もろもろの見解のなかでも、二つの群が主として考慮される。それは、経済の内面的な発達に関連する見解と、経済人を外界一般とくに顧客との関係において規制することになる見解である。第一群のもろもろの規則を私は(すぐに明らかにされる根拠から)、「聖なる経済性」と記し、第二群のそれを「実業道徳」の見出しの下にまとめることにする。 

1 聖なる経済性
 「神聖」とアルベルティは、経済性、あるいはすぐれた経営を、普通、家財道具masseriziaと翻訳されているものであらわしている。「聖なる物 家財道具」、彼はこの言葉masseriziaのもとに、何を理解したのだろう? 彼はさまざまな場所で説明しているが、それらがすべて一致しているわけではない。アルベルティが自分の家族に告示したすべての経済規則を包含しているとして、この概念をもっとも広い意味において理解したならば、おおよそ次のような意味となるだろう。
  よい経済に属するのは、
  1、経営の合理化だ。
  良い主人は経営を熟考する。「これらの事物、すなわち家財道具のことを心配し、配慮する」。このことはこまかく言えば、まず主人は経済の成行きを意識し、経済的な諸問題に取り組み、それらに関心を向け、何か不潔なものを語るときと同様、これらについて語るのを恥じたりせず、そればかりかおのれの経済的行動を誇りとすることを意味する。これは前代未聞の、何か新しいことである。しかも、いまやこのように思考するのが富者であり、権力者である。貧弱な荷物かつぎの労働者が常に手持ちの金銭のことで苦労していることや、零細企業の店主が、おのれの生涯の大部分を費やして収入と支出の兼ね合いで悩んでいるのは、自明の理である。しかし、富者や権力者が! まるで以前の貴族と同様に多量の財貨を消費した人が、なんと経営の諸問題をおのれの熟慮の対象にするとは!  私は慎重に、経営の諸問題を述べよう。経済の分野に入り込んできた他の諸問題は、すでに以前から合理化されていた。われわれはすでに、あらゆる大企業において十分に考慮された計画が完全に実施されたことを見てきたが、これは根本的な熟考、目的と手段の広い視野の下における関係づけなくしては、一言でいえば根本的な合理化なくしては、できなかった。しかし、いまや問題になるのは、とりわけ経営の合理化であり、このことを私は本質的に、収入と支出の間の合理的な関係の樹立、つまり特別な家政術だと理解している。
  しかし問題を提起することは、同時に問題をまったくきまった意味で解決する。この意味、すぐれた経営についてのこの新しい考え方は、まずはじめに貴族流の生活形成のすべての格率を根本的にしりぞけること以外の何物をも意味することはできない。われわれがすでに見てきたように、領主や貴族の経済は支出経済であった。貴族は、階級に即した生計の維持のために多くのものを必要とした。あるいは彼は消費し、浪費した。ただちに彼は多額の収入を得なければならなかった。この支出経済がいまや収入経済に転換された。アルベルティが第三の経済哲学を包含した彼の論説書のなかでまとめた最高の法則、パンドルフィーニの著作のそもそも最後の言葉、すべてのすばらしい家政術のアルファにしてオメガ、あらゆる誠実な「市民」の信条、いまや台頭してきた新時代の標語、すべての能率的な人々の世界観の本質、それはすべて次の文章のなかに要約される(142)。
  「わが息子たちよ、このことをしっかりと記憶しておけ。すなわちお前たちの支出をけっしてお前たちの収入より多くするな」
  この文章によって、市民的─資本主義的経営の基礎が築かれた。なぜなら、この言葉を守ることによって合理化は、
  2、経営の経費節約となるからである。しかもこれは、強制ではなく自由意志によって行なわれる。なぜならこの経費節約は、「食うや食わずで勝手元が不如意の」零細企業の人々のあわれな経済に関係するのでなく、やはり富者と結びついているからである。
  だれか資産のある者が節約するということ、これは前代未聞の新しいことであった。それというのも、支出を収入より多くするなというあの根本原則に、もっと高度の原則が即座に付加されたからである。それは、節約するために収入より支出を少なくせよという原則である。節約の理念が世界に登場したのだ! これもまた、強制されたのではなく、自ら望んだ節約である。欠乏としての節約ではなく、美徳としての節約である。節約する家長は、富者が市民となってからは富者の理念ともなった。億万長者のジョヴァンニ・ルチェライは、次のようなある同国人の発言を座右の銘とした。 「ある人が節約した銀貨一個は、彼が支出した一〇〇個の銀貨よりもっと貴重である(143)」

(141) 十四および十五世紀においてフィレンツェの業界を支配した精神を認識するための独特でしかも価値ある資料は、いわゆる随想録で、それが多量にあることは知られている。たとえば、『ブルネッティ・ラティーニの宝庫』、ファツィオ・デリ・ウベルティの『ディタモンド』、それにジョヴァンニ・ルチェライの『随想録』などがある。私の知るところによれば、残念ながら、これらの作品は出版されていない。三つのうち最後の作品の抜粋が、マルコッティ『十五世紀のフィレンツェのある商人とその家族』(一八八一年)の中にのっている。これについては、新アンソロジー(詞華集)(一五、七、八一)中の「アンコーナ」(壁龕)参照。これらの随想録は一種の年代記で、その中で著者は、国や家族のもっとも重要なすべての出来事、彼らの読書体験、それからさらに、商人として業界についての諸経験を記し、正しい業務遂行のための根本原則などをかかげている──主たる文献を形成しているのは、いまやすばらしい版で出ているアルベルティの『家族論』だ。レオン・バティスタ・アルベルティ『家族論』(ジロラモ・マンチーニ編、フィレンツェ、一九〇八年)。アニョーロ・パンドルフィーニの書『家族の指導』(一八二八年版、それ以後もしばしば出版されている)は、ブルクハルト(『イタリア・ルネサンスの文化』第一章の三、一六四ページ)の意見によると「完成され熟成された個人的生存の最初のプログラム」とされているが、実はアルベルティの著作をほとんど逐語的に書き写したものである。マッテオ・ダ・パンツァーノ(一四〇六~六一年)作『ルカ家の回想』については(質の悪い!)カルロ・カルネセキの論文(『十五世紀のあるフィレンツェ人』イタリア史文庫、第五巻、第四部一四五と次ページ以下)が教えてくれる。あまりすぐれた内容ではないが、『ラポ・マツァイ殿』(二巻、フィレンツェ、一八八〇年)と題し、チェザーレ・グアスティが刊行した、十四世紀のある公証人からある商人への手紙がある。 
(142) 「わが息子たちよ、次の言葉を覚えておくように。出費はけっして収入を越えてはならない」─アルベルティ『家族論』。このくだりに、ほとんど逐語的にパンドルフィーニの文章が一致する。
 (143) ジョヴァンニ・ルチェライ「ジバルドーネ」(一四五九年)、マルコッティ『あるフィレンツェ商人』一〇六ページに伝えられている。


家族論 Kindle Edition 

家の納屋を食べ物でいっぱいにすることは、父親の務めだが、それ以上に、一家の長たる者はすべてに目を配り、同居する者みんなを監督し、知っていなければならない。家の内外での平生の行動を吟味し、家族のなかの誰であれよからぬ習慣を持っていたら、感情的に怒るよりもむしろ理を説いて、それをいちいち正し、改めさせなければならない。一方的に命令するより、何が役に立つかを助言してみせ、謹厳実直、必要とあらば厳格でもなければならない。家族のひとりひとりが美徳と賞賛に恵まれるように導く努力をし、また助言を怠らないが、つねに家族全体の福利・安寧・平穏に気を配らなければならない。父親は世間の風向きや好意や潮流、同輩の市民たちの厚情をうまく読んで、名誉や尊敬や権威という港に入る術を知らなければならない。――<「第1書」より抜粋>




Reviewed in Japan 🇯🇵 on November 28, 2010
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 15世紀イタリアで活躍した人文主義者、レオン・バッティスタ・アルベルティの作品です。
 彼は『絵画論』や『建築論』もものしており、また音楽、科学、数学、法学等についても造形が深いという所謂「万能の天才」の一人です。

 内容としては、『家族論』という表題が示すように、主として家族の家族による家族のための、家族についての対話編となっています(「友情」は少しはみだしてますが)。
 プロローグ、第1章「父親の義務と子どもの教育について」、第2章「結婚生活について」、第3章「家政について」、第4章「友情について」の4章で構成されています。巻頭にはアルベルティ家の人物紹介も付いていて親切。しかし実際に登場する人数はそんなに多くはなく、大体2〜3人での議論ですのでご安心を。

 本書はほぼ全編、アルベルティ家の人間による対話形式で書かれており、訳文もかなり現代人向けに噛み砕かれているため、500ページの大部ながら非常に読みやすい仕上がりになっています。一人の発言がもの凄く長い(数ページに亘るのは当たり前)ので、泣きそうになる瞬間がまま訪れはしますが(笑)。
 また、作中ではジャンノッツォという老人の発言になっているので、それがアルベルティ本人の意見なのかどうかは分かりませんが、女性に対する軽視と取れる意見が肯定的に展開される場面があったのは少し気になりました。時代の制約かとも思いますが、1世紀ほど先に生まれているダンテがあんなにベアトリーチェを崇拝して自分を高みに導いてくれる存在としていた事や、アリオストが『狂乱せるオルランド』の中で、ヒロイン・アンジェリカや女性騎士を一廉の尊厳を持った存在として描いていたのを考えると、おや?という感じはします。

 本書で論じられている内容は時代や国は違っても、人間としての根本的な問題であり私たちにも身近なものばかりなので、読み始めればぐいぐい引き込まれます。アルベルティは非常に潔癖で清潔な考え方の人物だったのでしょう、本書の雰囲気は全体に、極めて正統派というか、まっすぐで真面目です。そして、理想を掲げる一方非常に現実的で、いわゆる処世術的な内容もあります。
 アルベルティ家は当時政治的な理由で故郷から放逐されて長い不遇の時代にあり、バッティスタも人生の逆風の中で相当の辛酸を舐め苦労を重ねて来たのですが、苦難も彼の心まで卑しくはできなかったようです。混乱の時代に一方ならず苦労をしてきた上での、この堂々たる理想主義。運命の転変という炎にも焼かれない志。むしろ苦難はアルベルティの強き一念の前で試練の溶鉱炉となって、彼を鍛え上げたのです。これぞ真金の英雄というものです!
 当時の知識人階級が使用していたラテン語ではなく、一般の間で使われていたトスカナ語(ダンテが『神曲』をこの言葉で書いたことで有名ですね)で本書を執筆したことに対する非難への反駁文も収録されているのですが、その反論の口ぶりにも純粋なものが感じられます。

 個人的に重要だと考えているだけによく悩むテーマ「友情について」では色々考えさせられました。この章は厳密には純粋な「友情」だけでなく、権謀術数的というか、自分と家族の身を守るための社会的交際術についても語られます。この辺りのシビアさは、祖国追放の憂き目に合ったアルベルティ家が、確かな地盤のない不案内な土地でいかに辛酸を舐めたか、ということを思わせます。
 それにしても、「真の恋愛は稀であるが、それでも真の友情よりは稀ではない」とラ・ロフシュコーが述べていましたが、この世知辛い世の中で、本当に誠実な友人であるということはつくづく難しいことです。

 ともあれ、一部時代的な内容になってはいますが(特に第3章。倹約生活の推奨はいいとしても、現代の多くの読者はアルベルティ家と違って農地とかなかなか経営しないですし)4章の内どのテーマを取っても、人類の永遠の悩みについて扱っている本だと思いますので、この本を読み内容についてよく思索して、仲間と意見を述べ合うなどすると面白いのではないかと思います。

レオン・バッティスタ・アルベルティ

アルベルティ像(ロレンツォ・バルトリーニ作)

レオン・バッティスタ・アルベルティLeon Battista Alberti1404年2月14日 - 1472年4月25日[1])は、初期ルネサンス人文主義者、建築理論家、建築家である。専攻分野は法学古典学数学演劇作品、作であり、また絵画彫刻については実作だけでなく理論の構築にも寄与する。音楽と運動競技にも秀で、両足を揃えた状態で人を飛び越したと伝えられる。

彼は多方面に才能を発揮し、ルネサンス期に理想とされた「万能の人」の最初の典型と言われた天才。確実に彼に帰属するとされる絵画、彫刻は現在のところ伝わっておらず、建築作品についても少数ではあるが、深い芸術理論は様々な分野で後世に影響を与えた。

生涯

アルベルティ家はフィレンツェにおいて銀行を営む有力商人貴族であったが、グエルファ党に属していたため、ギベリン党との抗争によって1387年に国外追放された。レオンはロレンツォ・アルベルティの庶子として亡命先のジェノヴァに生まれ、1414年にはヴェネツィアに移住した。早くから英才教育を受け、パドヴァで古典学と数学を学んだ後、1421年ボローニャ大学に進んだ。彼はそこで教会法で学位を取得し、1428年に卒業。以後は1432年に教皇庁の書記官となるまでヨーロッパを歴訪した。 1428年には、アルベルティ家への追放命令が解除されたためフィレンツェを訪れ、1434年にはエウゲニウス4世とともに再訪するが、そこでフィリッポ・ブルネレスキドナテッロマザッチョと親交を結んだ。1436年には、彼らに『絵画論(Della pittura)』を献呈している。

1432年頃、ローマに移住し、親友であったフラーヴィオ・ビヨンドの仲介により、教皇庁の記念物監督官となった。エウゲニウス4世は、すでに建築事業顧問であったベルナルド・ロッセリーノにアルベルティの助言を仰ぐことを指示し、1453年から断続的にアクア・ヴェルジネの水路修復とトレヴィの泉の造営を行った。しかし、トレヴィの泉は1732年から全面的に改修されたため、彼らの作品をみることはできない。教皇庁において、アルベルティはキケロなどの古代ローマ時代の人文学に傾倒した。特に彼の目を引いたのは、ウィトルウィウスの『建築について』であったと考えられる。アルベルティは、そこに書かれている人体比例と建築比例の理論に着目し、これを基礎として、1451年までに著書『建築論(De re aedificatoria)』を完成させた[2]。彼は、この論考に死ぬまで手を入れており、1485年になってフィレンツェで刊行された(原本・初版ともにラテン語である。イタリア語訳のものは、1546年にヴェネツィアで発刊された)。

De re aedificatoria

アルベルティは、フィレンツェの有力な商人であったジョヴァンニ・ディ・パオロ・ルチェッライと親しく、1446年に起工されたパラッツォ・ルチェライの設計を行っている。これは全面的にオーダーを用いた最初の例で、ファサードは明らかにローマのコロッセウムを参考にしている。その後、彼はルーカ・デッラ・ロッビアとともにリミニシジズモンド・マラテスタ公に召喚され、1446年10月31日に、サン・フランチェスコ聖堂を改装してテンピオ・マラテスティアーノとする工事が起工する(これはシジズモンド・マラテスタ公の失脚と死により未完に終わった)。 フィレンツェに戻った彼は、パオロ・ルチェッライからサンタ・マリア・ノヴェッラ教会正面の設計を委託された。アルベルティは、正方形の組み合わせと単純な比例関係を構築し、総大理石のファサードを設計したが、これが完成したのは彼の死後、1477年である。フィレンツェでは、1460年ミケロッツォ・ディ・バルトロメオの設計によるサンティッシマ・アンヌンツィアータ聖堂の建築を引き継ぎ、後陣部分の設計にも携わっている。

1459年ピウス2世に従ってマントヴァを訪れたアルベルティは、1470年に再びここを訪れ、二つの教会、サン・セバスティアーノ聖堂とサンタンドレア聖堂の設計を請け負った。前者の設計は1460年に構想されており、1470年に修正、起工された。後者は1470年に構想された、彼の最も影響力の大きい建築である。ラテン十字の平面を持つこの教会堂には、古代ローマ神殿と凱旋門のデザインを適用しており、内部はブルネレスキのデザインしたトスカーナのロマネスク的バシリカ型とは異なる、堂々としたトンネル型ヴォールトを用いた。

1471年にもマントヴァに滞在するが、ローマに戻った1472年に死去した。彼は、親切で礼儀正しく、紳士的であったため、生涯を通じて尊敬された。

影響

彼は芸術のみならず、科学的分野においても足跡を残している。暗号アルファベットを交互に使用する多アルファベット換字式暗号(Polyalphabet substitution cipher)(ヴィジュネル暗号の原型)を発明したことはよく知られているが、その思考は数学論だけではなく、力学、家庭経済にも及ぶ。

アルベルティの『絵画論(De pictura)』は、西洋絵画を確立したものであると言っても過言ではない。彼は遠近法の手法を構築し、絵画は遠近法と構成と物語の三つの要素が調和したものであると考え、これによって絵画の空間を秩序づけた。彼は、芸術作品について常に調和を重んじ、それを文法化することに腐心した。そのため、彼の芸術論は非常に優れたテキストであった。

ルネサンス最初の建築理論となる『建築論』は、ウィトルウィウスの『建築について(建築十書)』と、ローマ建築の遺構を調査して書き上げられたものであるが、ウィトルウィウスのラテン語能力の低さと、用いられているギリシャ建築の用語が全く知られていなかったため、『建築について』の理解は多難を極めた。しかし、彼は建築比例と5種類のオーダーを再発見し、その要素を『建築論』にまとめた。アルベルティの紹介した人体比例は、レオナルド・ダ・ヴィンチの有名なスケッチ、『ウィトルウィウスによる人体比例図』に図式されている。建築論を書いた後に設計をはじめたという点が独特であるが、その建築作品は教条的ではなく、自らの『建築論』にしたがわない部分もしばしば見受けられる。また、ローマ建築を懐古的に処理することもなく、むしろ自由に、実験的に操作した。

気象の測定

アルベルティは風力の定量的な測定器を作った初めての人とされている。彼は1450年頃に板の傾きで風圧を測る風力計(swinging-plate anemometer)を考案した[3]。レオナルド・ダ・ビンチが考案したとされる風力計より約20年早く、しかもレオナルドはアルベルティの風力計にも言及しているので、アルベルティの風力計が記録が残っている中で世界で最も古いとされている[4]。また、彼は最も古い湿度計も作ったとされている。それは1452年に「建築論(De re aedificatoria libri decem)」の中に記されたもので、海綿(スポンジ)が湿ると重さが変わることを利用したものである[3]

主要作品

サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード
マントヴァのサンタンドレア教会
  • 『重量・挺・牽引法(Trattato sui pondi, leve e tirari)』
  • 『数学的遊戯(Ludi matematici)』
  • 『家族論(Della famiglia)』
  • 『市民生活論(Teogenio)』
  • 1435年に執筆 『絵画論(De pictura)』 
  • 1443年から1451年に執筆 『建築論(De re aedificatoria)』(初版は1485年
  • 1446年頃起工・1451年完成 パラッツォ・ルチェッライ(フィレンツェ)
  • 1446年起工・1468年中断(未完) テンピオ・マラテスティアーノのファサード(リミニ)
  • 1456年起工・1470年完成 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサード(フィレンツェ)
  • 1460年頃設計 サン・セバスティアーノ教会(マントヴァ)
  • 1472年起工・1494年完成 サンタンドレア教会(マントヴァ)

日本語文献

  • 『絵画論』 三輪福松訳、中央公論美術出版、新装版1992年
  • 『芸術論』 森雅彦編訳、中央公論美術出版、1992年、新装版2011年
  • 『建築論』 相川浩訳、中央公論美術出版、1982年
  • 『家族論』 池上俊一・徳橋曜共訳、講談社、2010年
  • 『モムス あるいは君主論』 福田晴虔、建築史塾あるきすと、2018年

伝記研究

  • 相川浩 『建築家アルベルティ クラシシズムの創始者』 中央公論美術出版、1988年
  • 池上俊一 『イタリア・ルネサンス再考 花の都とアルベルティ』 講談社学術文庫、2007年
  • 福田晴虔 『アルベルティ イタリア・ルネサンス建築史ノート2』 中央公論美術出版、2012年8月 - 横書き表記
  • アンソニー・グラフトン 『アルベルティ イタリア・ルネサンスの構築者』 森雅彦ほか訳、白水社、2012年9月

脚注

関連項目[編集]

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