https://note.com/ai_auwa/n/nc9f67b576f26
卑弥呼の出身地について見ていきます。
卑弥呼の出身地については[晋書四夷伝倭人条]に書かれていますので、早速見ていきます。
原文⬇︎
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
「その王家は古くは男子を君主としていた。漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣して朝貢し、聘貢は絶えず、晋の文帝が政治をとるようになるとまた数回来た。」とあります。
ここで注目すべき箇所は"女王卑弥呼は宣帝が平した公孫氏なり"ということです。
原文を抜き出すとこのような漢文になっています。➡︎⦅名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也。其女王遣使至帯方朝見》
この一文によって、卑弥呼の出自が遼東の公孫氏一族だったことがわかります。
…
では卑弥呼が公孫氏なら卑弥呼は漢民族なのかというと、それは違います。
卑弥呼の一族はフェニキア人を先祖とした古代インドのアンガ国やボルネオ島にルーツがあります。中国側が公孫氏=漢民族としているのは中華思想の幻想です。
📖参考書籍📖
鹿島曻著書「倭人興亡史」「邪馬壱国興亡史」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
房玄齢等著書「晋書」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
佐治芳彦「邪馬臺国抹殺の謎」
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」「日本古代史の展開」
宮崎康平著書「まぼろしの邪馬台国」
藤間生大著書「日本古代國家」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
卑弥呼は公孫氏: 史說の妄誕を衝く古朝鮮・楽浪・帯方は満州倭は半島の古称!1991 - 175 ページ |
卑弥呼は公孫氏 : 史説の妄誕を衝く 古朝鮮・楽浪・帯方は満州 倭は半島の古称!
山形明郷 著 1991
卑弥呼は○○族だった!〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます
こんにちは、今回は卑弥呼についてお話させて頂きます。宜しくお願い致します。
卑弥呼という人物は239年魏によって親魏倭王という封号を与えられた人物です。
日本側の正史ではアマに繋がる歴史は7世紀~8世紀に消されてしまったので、卑弥呼に関する記述は残っていません。
卑弥呼という名前は、"ヒメミコ"のことであると竹内睦泰氏や出雲口伝の伝承ではあります。
卑弥呼が姫巫女だという理由は、卑弥呼が信仰していた"鬼道"の歴史を調べていくとわかります。
魏志倭人伝の《女王の名は卑弥呼といい、鬼道に仕え、よく衆を惑わす》という文は有名ですが、魏志張魯(ちょうろ)伝にも鬼道についての記述があります。《魯、遂に漢中に拠り、鬼道を以て民を教え、自ら師君と号す》とあります。
倭人伝と張魯伝の鬼道は同じもので、これは九鬼神道が鬼神を参拝していることにも繋がります。
"鬼道"というのは卑弥呼だけのものでは無く、古代の華南、華北、満州、朝鮮半島や林邑(りんゆう)という現在のベトナムでも鬼道は信仰されていたことがわかります。このような広域宗教であった鬼道が日本では神道になり、朝鮮では檀君教(大倧教)に変化していったという歴史を知る必要があります。
魏書高句麗伝には《高句麗は宮殿をつくると両側に大きな建物を建てて鬼神を祭り、霊星と社稷を祭っている》とあります。
※ 社稷(しゃしょく)=神を祀る祭壇
後漢書韓伝には《毎年五月耕作が終わると鬼神を祭り、昼夜集まって酒盛りし、村人は群れ集まって歌舞する…蘇塗をつくり大木をたて、鈴や鼓をかけている。鬼道に仕えている》とあります。
※ 蘇塗(そと)=馬韓族が行う宗教行事
晋書馬韓伝には《馬韓の人は鬼神を信仰し、五月に耕して種蒔を終え、群れ集まって歌舞し神を祭りこれを天君といった。別邑をおき名づけて蘇塗といった。大木をたてて鈴や鼓をかけた。西域の浮屠と似ているが、行われることの善悪は異なるところがある》とあります。
※ 浮屠(ふと)=寺院
魏書弁辰伝には《鬼道を祭る仕方は辰韓と異なっているところがある。竈を戸の西側につくる》とあり、辰韓も鬼神を祭っていたことを間接的に述べています。
現在のベトナムである林邑という国名は中国名で世界史ではチャンパ王国といいます。ベトナムの史書[大南寔録]の中の[大南列伝水舎火舎列伝]には水王と火王がともに鬼神の加護を求めるという物語があり、(※かなり端折ってます🙇♀️)
ここでチャンパ王国のチャム族と鬼道が繋がります。チャム族は古代のメコン河下流を支配していた民族ですが、メコン河の上流にいたのがクメール族の大来目です。
卑弥呼は姫巫女であり神道は鬼道にルーツを持ち、その鬼道をさらに遡るとバアル信仰に繋がります。
では卑弥呼に話を戻して、次は卑弥呼の出身地について見ていきます。
卑弥呼の出身地については[晋書四夷伝倭人条]に書かれていますので、早速見ていきます。
原文⬇︎
其家舊以男子為主 漢末倭人亂功伐不定 乃立女子為王名曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帯方朝見 其後貢聘不絶 及文帝作相又數至 泰始初遣使重譯入貢
「その王家は古くは男子を君主としていた。漢の末に倭人は乱れて世情が定まらなかったので、ひとりの女子を立てて王とした。名は卑弥呼という。その女王は晋の宣帝が平らぐる公孫氏なり。この女王は帯方に使者を派遣して朝貢し、聘貢は絶えず、晋の文帝が政治をとるようになるとまた数回来た。」とあります。
ここで注目すべき箇所は"女王卑弥呼は宣帝が平した公孫氏なり"ということです。
原文を抜き出すとこのような漢文になっています。➡︎⦅名曰卑弥呼。宣帝之平公孫氏也。其女王遣使至帯方朝見》
この一文によって、卑弥呼の出自が遼東の公孫氏一族だったことがわかります。
大半の歴史学者はこの漢文を、卑弥呼という女王は宣帝が公孫氏を滅ぼすと、帯方郡に使者をよこして朝貢してきた。などと読んで解説していますが、漢文をそのまま読むと卑弥呼は宣帝の平した公孫氏なり。となります。
晋の宣帝という人物は、魏の将軍である司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)という人物が死後贈られた尊号です。
彼は西暦238年6月に遼東平定に乗り出し、当時の遼東の覇者、公孫淵を討ち華北の統一を行なった人物です。
では卑弥呼の出身一族である公孫氏とはどのような氏族なのでしょうか。
公孫氏は三国時代の中国において栄えた氏族です。この時代は蜀漢の初代皇帝である劉備や諸葛孔明などによって広く識られていますが、公孫氏については教科書でちょろっとやるくらいなので、あまり記憶にない、という方が多いと思います。
後漢の末期、西暦184年、華北の農民が黄巾の乱を起こし、各地に反乱が拡大したため西暦220年漢は滅びます。その後曹丕(そうひ)が魏国を立て、初代皇帝になります。
後漢の地方官だった公孫度は黄巾の乱の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立しました。
三国時代は魏・蜀漢・呉の三国が争った時代区分のことだと云われていますが、実際には遼東の公孫氏が独立していたため正しくは四国時代であったという学者もいます。
公孫度が遼東に半独立又は独立政権を立てたのは中平六年、西暦189年です。公孫度、公孫康、公孫恭、公孫淵と続きましたが、景初二年の西暦239年、魏の司馬懿(い)によって滅びました。
[魏志倭人伝]には公孫氏についてこの様にあります。《度、中平六年を以て遼東に拠る。淵に至るまで三世なりと述べる。凡そ五十年にして滅ぶ》とあります。
この時代、遼東、遼西から満州南部にかけて、公孫氏、鮮卑、高句麗、扶余という4つのグループが互いに争っていました。
当時魏と国境を接していた公孫度は魏の圧迫に対して背後を固めるため、扶余と同盟することを決めます。
この時のことを[三国志]夫餘伝には次のようにあります。
《漢の末、公孫度海東に雄張し、外夷を威服す、夫餘王仇台更めて遼東に属す。時に勾麗・鮮卑強し、度、夫餘が二虜の間に在るを以て夫餘の女をめとる》とあり、
※ 雄張=盛んに勢をのばすこと
公孫氏と扶余の同盟の様子がわかります。
当時の同盟といえば婚姻関係を結ぶことですが、公孫度と仇台について[隋書]百済伝を見ていきます。《東明の後に仇台という者有り。仁信に驚く、始め其の国を帯方の故地に立つ。漢の遼東太守公孫度、女を以て之に妻わす。漸昌盛なるを以て東夷の強国となる…》とあり、扶余王仇台に公孫度の女性が嫁いだことが書かれていてこの女性こそが卑弥呼です。
[三国志]の魏志韓伝を見ると
《建安年間(196年~220年)に、公孫度が屯有県以南の荒地に帯方郡を建てた。公孫模・張敞(ちょうしょう)等を遣わして残留していた遺民を収集して兵を興し、韓・穢を伐つ。旧民たちも出てきて是の後、倭・韓は遂に帯方に属するようになった》とあります。
公孫度が建てた帯方郡とは平壌の南方にあったとされています。
公孫模という人物は公孫康の部下です。公孫度は204年に死去しており、後を継いだのは息子の公孫康で、彼は扶余王仇台の妹を妃に迎えていています。韓と穢を武力で鎮圧し、その結果韓人と倭人が帯方郡に属したとありましたが、その倭人の中には邪馬壱国建国以前の倭人も含まれていたと考えられます。
189年に遼東に半独立政権を建てた公孫度はその後、196年頃南方に移動して帯方郡を建てたことがわかりました。
この時、同じ帯方郡の地に扶余王仇台が伯済国を建てていることから、公孫康と扶余王仇台は遼東から帯方郡へ同じ時代に移動していたことがわかります。
次に[魏書東夷伝倭人条]を読んでいきます。
原文⬇︎
《其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑彌呼 事鬼道能惑衆 年已長大無夫壻 有男弟佐治國》
その国はもとは男子をもって王としていた。
住んで七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐して年を歴る。
すなわち、共に女子を立て王となす、名は卑弥呼という、鬼道につかえよく衆をまどわす、年はすでに長大で夫壻はない、男弟がいて佐けて国を治めている、とあります。
《その国はもとは男子をもって王としていた》とありましたが、なぜ女性の卑弥呼が王になると倭国の乱れが治まったのでしょうか。
倭国は70年以上も争っていたということは、国内の力関係は常に拮抗していた、ということがわかります。誰も抜きん出る人物がいなかったため、攻伐が長年続いていたのです。
このような状態の国を鎮めるには、2つの手段があります。
1つ目は国内にはまだ無い兵器を他国から買い付けて周囲の部族を鎮圧させる方法です。
2つ目は、倭国に突如何者かが現れて圧倒的な力によって抗争を鎮めるという方法です。前者の場合、その国のトップは国内から輩出されますが、後者の場合、鎮圧した外部の人間が国のリーダーになります。
先程の[三国志]魏志韓伝には公孫模が兵を興して韓・穢を討ち、倭人と韓人は遂に帯方に属したとありました。この記述から、倭国の抗争が止まった理由は外部の人間が抗争を鎮めたパターンであることがわかります。
ここでいう外部の人間というのは公孫氏と扶余王家です。両家は同じ時代に(後の)帯方郡へ侵入し、公孫度は韓・穢を伐ち倭人を従えていて、扶余王仇台は帯方郡の土地に伯済国を建てています。
両家は遼東にいた時代からの同盟国であり、帯方郡でも共存していたことがわかります。
魏志倭人伝にある《共に女子を立て王となす》の共にというのは公孫氏と扶余王家が共に立てた女王卑弥呼だということです。
卑弥呼は公孫氏出身の扶余一族だったので彼女であれば、公孫氏の一族と扶余の一族どちらからのバックアップを受けられる存在であり満場一致で倭王になることが出来たのです。つまり男ではなく女王でなければ成立しなかったのです。
この時代、倭人は半島南部の弁辰地域と九州に群居していたので、公孫氏と卑弥呼を加えた扶余の2国が倭人の支配者になったことは、後の邪馬台国が公孫氏の帯方郡に属していたことにも繋がります。
では卑弥呼が公孫氏なら卑弥呼は漢民族なのかというと、それは違います。
卑弥呼の一族はフェニキア人を先祖とした古代インドのアンガ国やボルネオ島にルーツがあります。中国側が公孫氏=漢民族としているのは中華思想の幻想です。
今回は卑弥呼の出身は公孫氏一族だということと、遼東から帯方郡に移動したところまでを見ていきました。
卑弥呼は嫁ぎ先の扶余一族として帯方郡から朝鮮半島の南部、さらに海を越えて日本の九州に到着します。
そして日向で邪馬台国を建てるのですが、実は帯方郡から一緒に南下してきた重要な人物がいます。その人物の名はイワレヒコです。
全然時代が違うのでは…?と思われて当然ですが、イワレヒコ、つまり記紀の云う神武天皇は紀元前660年には存在していません。
この部分のお話を次回してから、卑弥呼の九州上陸と邪馬台国の歴史を見ていきたいと思います。
古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて是非皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍も読んでみて下さい、最後までご覧頂きありがとうございました☆
📖参考書籍📖
鹿島曻著書「倭人興亡史」「邪馬壱国興亡史」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
房玄齢等著書「晋書」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
佐治芳彦「邪馬臺国抹殺の謎」
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」「日本古代史の展開」
宮崎康平著書「まぼろしの邪馬台国」
藤間生大著書「日本古代國家」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
公孫氏 (遼東)
公孫氏(こうそんし)は、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立した。
民族・風習とも、まったくの漢民族であるが、その領土は朝鮮半島中西部の帯方郡を境に、南は韓と接し、東北は高句麗、 西北は烏丸・鮮卑と接するなど、異国・異民族との関わりが深かった。公孫氏の勢力圏である遼東以北の地はいわば中華圏の北東端にあり、漢・魏など時の中華王朝からは絶域とみなされ、それが公孫氏の勢力圏を半独立的な地方政権としての地位を確立する上で大きな意味を持った。公孫康の時代以後、韓や倭は帯方郡に帰属したとされる。
歴史
189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至る(『魏志韓伝』)。父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、曹操により再び後漢の勢力が強まったため、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。
公孫康の後継にはその弟である公孫恭が立ったが、228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が崩壊して魏・呉・蜀の三国に分立し、互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど、密かに独立を謀っていた。 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻し、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ軍事衝突は決定的となった。
公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けたものの、238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、一族ともども処刑されたために公孫氏の勢力は消滅した(遼隧の戦い)。公孫恭は魏への忠義を貫いたとして処刑されなかったが、子がおらず、公孫恭の死により公孫度の子孫は滅亡した。
日本との係り
『魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使まで、倭に関する記事が途絶えており、かつ公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されていることから、公孫氏が倭の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っていたことになり、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もある。
『新撰姓氏録』は、「常世連」なる大陸から日本へ土着した帰化人の氏族について、公孫淵の末裔であると記述している。
0 件のコメント:
コメントを投稿