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古事記~三種の神器 原文対訳
原文 | 書き下し (武田祐吉) | 現代語訳 (武田祐吉) |
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爾 天兒屋命。 | ここに 天あめの兒屋こやねの命、 | かくて アメノコヤネの命・ |
布刀玉命。 | 布刀玉ふとだまの命、 | フトダマの命・ |
天宇受賣命。 | 天の宇受賣の命、 | アメノウズメの命・ |
伊斯許理度賣命。 | 伊斯許理度賣いしこりどめの命、 | イシコリドメの命・ |
玉祖命。 | 玉たまの祖おやの命、 | タマノオヤの命、 |
并五伴緒矣。 | 并せて五伴いつともの緒をを | 合わせて五部族の神を |
支加而。 | 支あかち加へて、 | 副えて |
天降也。 | 天降あもらしめたまひき。 | 天から降らせ申しました。 |
於是副賜 其遠岐斯 〈此三字以音〉 | ここに その招をぎし | この時に 先さきに天あめの石戸いわとの前で 天照らす大神をお迎えした |
八尺勾璁鏡。 | 八尺やさかの勾璁まがたま、鏡、 | 大きな勾玉まがたま、鏡 |
及草那藝劔。 | また草薙くさなぎの劒、 | また草薙くさなぎの劒、 |
亦常世思金神。 | また常世とこよの思金の神、 | 及びオモヒガネの神・ |
手力男神。 | 手力男たぢからをの神、 | タヂカラヲの神・ |
天石門別神 而詔者。 | 天の石門別いはとわけの神を 副へ賜ひて詔のりたまはくは、 | アメノイハトワケの神を お副そえになつて仰せになるには、 |
此之鏡者。 | 「これの鏡は、 | 「この鏡こそは |
專爲我御魂而。 | もはら我あが御魂として、 | もつぱらわたしの魂たましいとして、 |
如拜吾前。 | 吾が御前を拜いつくがごと、 | わたしの前を祭るように |
伊都岐奉。 | 齋いつきまつれ。 | お祭り申し上げよ。 |
次思金神者。 | 次に思金の神は、 | 次つぎにオモヒガネの神は |
取持前事。 | 前みまへの事ことを取り持ちて、 | わたしの御子みこの治められる |
爲政。 | 政まつりごとまをしたまへ」 とのりたまひき。 | 種々いろいろのことを取り扱つて お仕え申せ」と仰せられました。 |
此二柱神者。 | この二柱の神は、 | この二神は |
拜祭 佐久久斯侶。 伊須受能宮。 〈自佐至能以音〉 | 拆く釧くしろ 五十鈴いすずの宮に 拜いつき祭る。 | 伊勢神宮に お祭り申し上げております。 |
次登由宇氣神。 此者坐外宮之 度相神者也。 | 次に登由宇氣とゆうけの神、 こは外とつ宮の 度相わたらひにます神なり。 | なお伊勢神宮の外宮げくうには トヨウケの神を祭つてあります。 |
次天石戶別神。 | 次に天の石戸別いはとわけの神、 | 次にアメノイハトワケの神は |
亦名謂櫛石窓神。 | またの名はくしいはまどの神といひ、 | またの名はクシイハマドの神、 |
亦名謂豐石窓神。 | またの名は豐とよいはまどの神といふ。 | またトヨイハマドの神といい、 |
此神者。 | この神は | この神は |
御門之神也。 | 御門みかどの神なり。 | 御門の神です。 |
次手力男神者。 | 次に手力男の神は、 | タヂカラヲの神は |
坐佐那那縣也。 | 佐那さなの縣あがたにませり。 | サナの地においでになります。 |
故其 天兒屋命者。 〈中臣連等之祖〉 | かれその 天の兒屋の命は、 中臣の連等が祖。 | このアメノコヤネの命は 中臣なかとみの連等むらじらの祖先、 |
布刀玉命者。 〈忌部首等之祖〉 | 布刀玉の命は、 忌部の首等おびとらが祖。 | フトダマの命は 忌部いみべの首等おびとらの祖先、 |
天宇受賣命者。 〈猿女君等之祖〉 | 天の宇受賣の命は 猿女さるめの君等が祖。 | ウズメの命は 猿女さるめの君等きみらの祖先、 |
伊斯許理度賣命者。 〈作鏡連等之祖〉 | 伊斯許理度賣の命は、 鏡作の連等が祖。 | イシコリドメの命は 鏡作かがみつくりの連等の祖先、 |
玉祖命者。 〈玉祖連等之祖〉 | 玉の祖の命は、 玉の祖の連等が祖なり。 | タマノオヤの命は 玉祖たまのおやの連等の祖先であります。 |
解説
三種の神器は一般に、
①八咫鏡(やたのかがみ。伊勢)、
②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ。熱田)、
③八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま。皇居)とされる。
しかしこれらは、いずれも古事記の表記から離れている。
古事記における神器は、八尺勾璁(やさかのまがたま)、鏡、草那藝劔(くさなぎのつるぎ)。
一般の呼称と古事記の表記の関係性
一つの考え方は、一般の①②③が先で、古事記がそれを物語仕様にしたというもの。
もう一つは、上記が古事記の表記をずらしたというもの。
しかし①②③類似の名称は、古事記より後に成立した日本書紀では出現しない。
したがって、後者と見るのが自然。つまり日本書紀ではそれを記すに足りる根拠がなかった。つまり根拠が古事記しかなかった。
では古事記は一般の学者が見るように、何かの伝承をひたすら調べて参照して書いたのだろうか?
稗田阿礼と安万侶は民俗学者か何かだったのだろうか。それは神話の理解からすると違うし、ナンセンス。
もしそれを貫徹するなら、冒頭で参照したのは創世記でしかありえない。それをどう見る。
体裁もそれにならっているが(最初の主、物語~由来説明~系譜)、それともこれは一般の書き方か。それは創世記が一般の書き方というのと同義だろう。
創世記=聖書の大元は極めて特別な霊感。それは西では広く受け入れられている(エイブラハム=リンカーン)。それが神の国の歴史の違いで実力の違い。
「八咫鏡」とあるが、ヤタにつくのは、古事記ではカガミではなくカラスのみ(八咫烏)。
訪れる不吉を周囲に知らせる眷属。それがヤタの烏。
これが古事記の文脈に即し、かつ象徴の素直な理解。
こういうことが認められないから偽書という説があるし、古事記の表記をずらしていると言える。
そしてこういう文脈は一貫している。最初が天照がスサノオ(野蛮で幼稚な男)の剣を折ること。つまりそういう権力を認めない。
古事記における神器の表現は以下の通り。
「八尺勾璁 鏡。及草那藝劔」。
八尺勾璁
八尺勾璁は、天照を象徴する神具。
スサノオのいわゆる誓約の時から連続して用いられている。皇室がこれを重視しているのには、まずその意味がある。
玉は魂の例え。これについて現状の理解はどこにもない。伊勢や源氏の古典の解釈でも全く示されない。
誰も知らないのだから、そこから独立して古典を研究しているのでなければ、宮中が知っていることにはならない。
鏡にヤタをつけることも、玉と鏡の場所が逆転していることもそれを裏づけている。
鏡
鏡は、天照と一緒に出現した高木の神(タカムスビ)。紫の歌った三つの「鏡の神(神々の神)」。これが彼女の信仰(理解)。そして庇護。
玉についているが、八尺の表記を独自に持つわけではない。
そこで鏡だけ特別に言及され、我が魂として祀れとしていることから、この我は高木の神(タカムスビ)。
したがって玉ではなく鏡が上位。普通の神社の鏡。玉はどこかにあるだろうか?
玉だけ皇居内にあるという話は、スサノオが天照の玉をバラバラに噛み砕き、息を吹き込んだ子達といえる。
草薙剣
草薙剣は、その権威を象徴。切るものではなく裁くもの。
草薙は、いわばなぎ払う。これも物理的ではない。草は秘密。クソかもしれない。
物語中では八俣大蛇の中から出現し、スサノオから天照に献上された。
スサノオの剣を刃こぼれさせたので、スサノオ以上の剣。したがって八俣大蛇も八咫烏同様の眷属。
蛇の中にあることなどありえないので、物理的な剣ではない。象徴表現。
折られた剣・権力
天照はその威光を欲して寄ってきたスサノオの剣を折っている。
これは参拝きどって神を吹いて利用する、武力(威嚇)に基づく権力行使(※)は認めないという意味。
※ 加牟加是能 伊勢能宇美能…宇知弖志夜麻牟
神風かむかぜの 伊勢の海の…うちてしやまん
誰でも出来る参拝程度で愛国きどれるなら、誰でも統治を担える。
だから良くても凡人(すぐ力に流される)、悪くて前例権威至上主義の役人、最悪ボンボン。
そしてこの国の統治の根幹にむらがっているのは、もちろん三番目。
専ら周囲を利用する私的動機、個人の名誉追及で生きてきた民は、突如公民(本来の市民)とはならないし、そういう民の代表も同じ。それを賎民という。
何の考えもなく、民が主で先進国だと自尊し続ける以上、根本的に私利私欲追及、私的動機での統治・国家権力の私的占奪は免れない。
この国における統治レベルの主体性は、一方的で高圧的な傲慢とほぼ同義。それがこの国の民度。
無知の野蛮に足蹴にされ破滅するまで追従する民度。反対から反対にふれただけ。
それは蒙昧といい、そういう国が国レベルで発言が重んじられ、名誉ある地位を占めることはない。
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