2022年12月15日木曜日

歴史上の気になる人物(2)- 秦河勝(はたのかわかつ) | まほらにふく風に乗って

歴史上の気になる人物(2)- 秦河勝(はたのかわかつ) | まほらにふく風に乗って

8、河勝の最後

大避神社縁起によれば、皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の迫害を逃れて摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した。
河勝はこの地(赤穂)で千種川の開拓を進め、大化3年(647年)に亡くなったとされる。
そして、この大避神社に大避大明神として祀られている。(兵庫県赤穂市坂越で死亡説)
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓(古墳)がある。また、大阪府寝屋川市にも秦河勝の墓と伝えられる五輪塔があるという。
その他に、京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、「秦河勝終焉之地」の碑があるそうです。
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歴史上の気になる人物(2)- 秦河勝(はたのかわかつ)

秦河勝は朝鮮半島より渡来した最大の渡来集団であるとされる秦氏(はたうじ)の出身とされ、飛鳥時代に聖徳太子の側近として京都太秦(うずまさ)に現在の広隆寺を建てた人物として知られますが、神楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の元を創った人物とも言われています。ここでは数々の逸話などを含め今後の考察に必要な情報を集めてみました。

1、出生について
山背国(山城国)葛野(かどの)(現,京都市西部 太秦近郊)の秦氏の族長的地位にあったとされる秦丹照または秦国勝(丹照の弟)の子供とされています。 
ただしこれらの系図は古いためあまり正確とは言えないようです。
河勝は秦氏の軍事力や経済力を背景にはやくから厩戸皇子(聖徳太子)の側近として活躍していったようです。

2、出生と名前の伝承

ある日、天皇(欽明天皇)は「私は秦の始皇帝の再誕である。
縁あって この国に生まれた」と名乗る子供と出会う夢を見た。
そしてその後で、初瀬川が氾濫した時に三輪大神(神社)の前に壺に入った一人の童子が流れ着いて、自ら「私は秦の始皇帝のうまれかわりである」と名乗ったという。
そこで、この童子を殿上に召しかかえ、童子に「秦」の姓(かばね)を与え、川の氾濫より助かったことから「河勝」と称したとされています。
ハタというのは古代朝鮮語で「大(おお)」とか「多(おお)」と同じ意味を持ち、古代日本の種族とされる大氏、多氏(オオ氏、オホ氏)などと通じるものがあります。

3、秦氏のルーツ

 応神天皇の頃(5世紀前半?)に秦の始皇帝の子孫という「弓月君(ゆづきのきみ)」が朝鮮半島(百済)より渡来して日本に援軍を求めたという。
弓月君の仲間の多くがまだ朝鮮半島の加羅(から:古代朝鮮南部の国、日本では「韓」を「カラ」と呼び、朝鮮全体をさし、「唐」を「カラ」と呼んで中国全体を指すようになったとされる)に取り残されているという。
天皇は部下を派遣し、3年後にこれらの多くの人々(数千人)を日本に連れ帰ったと言われています。
そしてこの一族は朝廷につかえ、養蚕や、機織り、酒造り、土木の技術などを日本にもたらしました。
これが日本の秦氏のルーツとされています。
河勝は秦氏の族長的人物であったとみられています。

4、丁未の乱(ていびのらん)で物部守屋を討つ

 用明天皇2年(587年)に発生した丁未の乱(仏教の礼拝を巡って大臣・蘇我馬子と大連・物部守屋の争い)では厩戸皇子(聖徳太子)に従って、物部守屋(もののべのもりや)の追討戦に従軍し、守屋の首を斬ったという。
この戦いにより物部は衰退し、仏教が国内に浸透していったとされます。

厩戸皇子(聖徳太子)はこの戦いの時はまだ14才で、蘇我軍の後方にいた。
そして白膠木(ぬるで)の木で四天王像を彫り、「この戦いに勝利したら四天王を安置する寺を建てる」と願掛けしたとされています。
そして戦いに勝ったため、大坂(摂津国)に四天王寺を建立(593年に建設開始)したとされています。
蘇我馬子が法興寺(飛鳥寺)の建立を始めたのはそれより少し前の588年頃と言われていますので、日本で最も古い寺院としては法興寺(飛鳥寺)だと言われます。

5、聖徳太子より仏像を賜る(広隆寺の建立)
 推古天皇11年(603年)聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像(現・国宝第一号、通称:宝冠弥勒(ほうかんみろく)))を賜り、京都市北区付近に、蜂岡寺(はちおかでら)を建てそれを安置した(安置したのはもう少し後か?)と言われています。
蜂岡寺は現在の広隆寺で、その他に秦氏の氏寺であることから、秦寺(はたのでら)、秦公寺(はたのきみでら)、葛野寺(かどのでら)、太秦寺(うずまさでら)などとも呼ばれてきました。
現存する伽藍は平安末期以降の再建です。また現在の太秦に移ったのは794年の平安遷都の頃とも考えられていますが、記録は焼失(818年)していてわかりません。
太秦(うずまさ)の地名は「聖徳太子の太」と、「秦氏の秦」からとったものとも言われます。

広隆寺弥勒

広隆寺 国宝 弥勒菩薩像(半跏思惟像)

6、新羅からの使節を迎える

推古天皇18年(610年)新羅の使節を迎える導者の任に土部連菟(はじのむらじうさぎ)と共に当る。

7、常世の神を打ち負かす

皇極天皇3年(644年)7月に駿河国不尽河(富士川)のあたりで、大生部多(おおうべのおおし)という者が、長さ4寸(約12cm)ほどの虫(蚕と似ている)を指して、「これは常世の神である。この神を祭る人は、富と長寿が得られる」といい、また巫女たちも神のお告げとして「常世の神を祭ると、貧しい人は富を得、老人は若返る」といったという。
そしてこの常世の神信仰が広まっていた。しかし、この虫を得ても何も利益は生まれず、損失を被る人々が増えていった。
そのため、秦河勝が大生部多を捕えて懲らしめると、巫女も恐れてこの祭りや騒ぎを勧めなくなった。
そして当時の歌に「太秦(うずまさ)は神とも神と聞えくる常世の神を打ちきたますも(常世の神を打ち負かしたのだから、太秦は神の中の神だ)」とうたわれたという。

8、河勝の最後

大避神社縁起によれば、皇極3年(644年)9月12日に蘇我入鹿の迫害を逃れて摂津国難波浦から出航し、播磨国赤穂郡坂越浦(現在の兵庫県赤穂市坂越)へ漂着した。
河勝はこの地(赤穂)で千種川の開拓を進め、大化3年(647年)に亡くなったとされる。
そして、この大避神社に大避大明神として祀られている。(兵庫県赤穂市坂越で死亡説)
神社の神域である生島には秦河勝のものと伝えられる墓(古墳)がある。また、大阪府寝屋川市にも秦河勝の墓と伝えられる五輪塔があるという。
その他に、京都市右京区西京極にはかつて川勝寺とよばれる寺があり、「秦河勝終焉之地」の碑があるそうです。

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(大避神社の河勝の姿を模したともいわれる能楽面:鼻が高く西洋人顔といわれる)

9、申楽、能狂言、歌舞伎などの芸能の祖

世阿弥の『風姿花伝』に申楽(猿楽)の起源がかかれており、「上宮太子(聖徳太子)、末代のため、神楽なりしを、<神>といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。
是日暦の<申>なるがゆえに<申楽>と名づく」として、猿楽は本来神楽であり、神の字の旁を用いて申楽と書くのが正しいと解説している。
これは聖徳太子が天下泰平のために、神代や天竺の吉例に倣って六十六番の物真似を河勝に仰せられ、六十六番の御作の面を河勝に与えた。
そして紫宸殿(明日香の橘の内裏)で翁の舞いを舞わせたものが「申楽」のはじまりと伝えています。(金春禅竹(こんぱるぜんちく)の著『明宿(めいしゅく)集』)

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(翁の舞 茨城県石岡市のじゃかもこじゃん)

広隆寺では10月には京都三大奇祭の一つという「太秦の牛祭り」が行われています。
三大奇祭はその他に「今宮のやすらい祭」、「鞍馬の火祭」が挙げられています。
この牛祭りは現在、毎年ではなく不定期に開催されています

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この祭りは、夜暗くなってから、白い仮面をつけ牛にまたがった摩多羅神(まだらじん)が、同じく仮面をつけ松明を掲げた四天王(赤鬼・青鬼)を従えて境内を一周し、祖師堂(薬師堂)前で変わった口調で祭文を読み上げ、終わると同時に堂内に逃げ込んで祭りが終わりとなります。

摩多神

摩多羅神は天台宗の常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の裏にひっそりと祭られている神様でほとんど公開されることはありません。
しかし能楽などの芸能の神様としても崇拝されています
上の写真の本は川村湊氏が書いた「闇の摩多羅神」という本の表紙ですが、これは日光輪王寺常行堂摩多羅神像の絵です。
不思議な笑みを浮かべた摩多羅神と2人の童子が踊る様子が描かれています。
この2童子は丁禮多(ちょうれいた)・爾子多(にした)」と言い、貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされるといわれます。
そしてこの摩多羅神が田楽や猿(申)楽になり能の発祥の起源になったともいわれているのです。

10、キリスト教との関係
秦氏は景教(ネストリウス派キリスト教)を信仰するユダヤ人一族(イスラエルの失われた10氏族の子孫)であったとする説があります。

11、稲荷社との関係

 全国に稲荷神社は多数ありますが、その総本山となるのが伏見稲荷(大社)です。
この社の創建に渡来人の秦氏族がかかわっているといわれているようです。

伏見稲荷大社のHPの「伊奈利社創祀前史」に書かれている内容をまとめると、

(1)欽明天皇が幼少のころ「秦の大津父(おおつち)という者を登用すれば、大人になられた時にかならずや、天下をうまく治めることができるでしょう」という夢をみた。 
早速方々へ使者を遣わされて探すと、山背国紀伊郡深草里に秦の大津父という人物がいた。

そこで、この大津父を宮廷に呼んで話しを聞くと次のような話をした。
「伊勢のほうへ商いに行っての帰り道、山(稲荷山南麓の大亀谷)にさしかかったところ、二匹の"おおかみ"が血を出しながら争うのを見つけましたので、馬より降り、口をすすぎ、手を洗って『汝は貴い神であるため荒い事などを好まれるが、もし狩人が来たならばたやすくとらわれてしまうから争うのはおやめなさい』と血をぬぐって山へはなしてやったので、その"おおかみ"は二匹とも命を全うできました」
この話を聞いた天皇は夢に見た人だと確信して天皇に即位したときに、この秦の大津父を重責に登用した。

(2)稲荷大神の鎮座は、秦の伊呂巨(具)(いろこ(ぐ))によって和銅四年(711)2月初午の日になったと伝えられている。
この秦の大津父との関係は?

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つかの間の秋空

近況 0 0
 昨日は結構忙しい日であった。
風の会の白井先生が亡くなられて、今までふるさと風の会HPの作成や自分の原稿だけを気にすればよかったが、今後は会報編集や、会員さんの原稿チェック、一部手書き会員さんの原稿のPCへの入力などの雑務が増えてしまった。

会報つくりは今年2月頃から少し手伝い始めていたが、これからは責任も伴ってくる。
果たして続けていけるのか?

昨日は会報印刷日で、先生の納骨日と重なってしまい少し人数も減って手が足りなくなっている。
少し早めに作業を始め、いつもより少し早く作業を終えることが出来た。
そしてその会報を八郷から筑波の北条まで車を飛ばし配ってきた。

その道中では、沖縄方面を通過した台風の影響がなくなり、青い秋の空が顔をのぞかせ、山々はかなりくっきりと眺めることができた。

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土浦市の小町の里でも空はあくまでも青く気持ちが良い。

北条でもまた会報をおいていただいているが、何時も気持ちよく迎えてくれる。
でも挨拶は
「暑いですね!」とつい口から出てしまう。

そして会報を配り終え、別な用事も済ませ、夕方から会社時代の同僚との食事会へ。

久しぶりに北千住へ電車でやってきた。

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都心からは少し離れているはずだが、若者の熱気がすごい。
やはり田舎暮らしが長くなってくると感じ方も違ってくるらしい。

OL風の女性が飲んだり食べたりしている姿がやけに目に付く。

ワインレストラン? 内部は若い女性ばかり・・・・
その前を通り過ぎていった年配のご夫婦の夫は「わー 女性ばかりだ。ここいいね・・・」
奥さんらしき人は「ここはワインだからじゃないですか・・・」と まあ仲はよさそうでしたね。

今回も目指すは宿場通り商店街の(個室)料理屋さんへ

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この通り近くには昔の千住宿本陣があった場所
今は繁華街になっている通りが、昔の日光街道だそうだ。
芭蕉が奥の細道へ門人たちと分かれて旅立ったところあたりといわれる。

今回石岡から北千住までJRは青春18切符を使った。

この切符年齢制限はなく、年寄りでも使える。
家内が7月に関西へ出かけたときに買ったものが、有効期限が迫り、未だ残り消化できていないというので使わせてもらった。
初めてだったが、結構いい。

出かけるときに石岡駅でその日のスタンプを押してもらう。
そして降りるときは見せるだけ、また途中の乗り降りは何回でも同じ日なら見せるだけ。

最初に丁寧に「行ってらっしゃい。お気をつけて」と声をかけてもらい、
途中ではスタンプの日にちを確認して「はいどうぞ!」と改札を通してくれる。
少し得した気分だ。

確かにこれならのんびりと旅へ行きたくなるかもしれないな。

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台風一過(1)

近況 2 0
 昨日朝の台風は思っていたよりかなり強烈だった様です。
台風が通過してもう安心と少しゆっくりと行方、潮来などを通って銚子の外れまで出かけてきました。

さて、途中信号が点いていないところがところどころ出てきて、最初のうちは幹線道路の信号の所に警察官もいないで危険だなどと思っていたのですが、それもそのはず、あちらこちら停電だらけ・・・・・

これでは警察官も対応できませんね。
それでも何とか無事に車を走らせることが出来ました。

信号の明かりが見えるとほっとしたり・・・・

今回の台風は大型とは思っていなかったのですが、中心付近や東側などは強烈な風が吹いたようです。
我が家も未明にはかなり風が吹き、あまりゆっくり眠ることも出来ませんでした。
市の防災放送が何度外で流されていましたが、あまり聞こえず、我が家の場所が余り心配な場所ではないので気にもせず・・・

ちゃんと戸締り、雨戸閉めなどもしておかなかったのはやはり怠慢でしたね。

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途中無人の神社などにも立ち寄りましたが、参道を歩くのは困難なくらい木の枝や倒木も・・・・

こちらは潮来の長勝寺の銀杏。
今の時期にたくさん実がついている銀杏は庭一面に黄色い玉を転がしたように広がっていました。
でも踏み潰しと匂いが・・・
でも意外なほどまだ若い銀杏は、あの強烈な匂いはそれほど感じませんでした。

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こちらは息栖神社の参道。

さすがに東国三社ということで宮司さんや庭掃きの人もいて賛同をお清め中でした。

そうこのころまでは、停電もそれほど深刻とは考えていなかったのです。

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