古本夜話613 ゾンバルト『ユダヤ人と資本主義』、長野敏一、国際日本協会
前々回に続いて、もう一冊ゾンバルトの戦前の翻訳があるので、これにもふれてみたい。それは昭和十八年に長野敏一によって訳された『ユダヤ人と資本主義』で、出版社は国際日本協会である。
奥付に「訳者略歴」が見えているので、それを記すと、「大阪出身、大阪高等学校、東京帝国大学に学ぶ。日満財政経済研究会、支那派遣軍総司令部嘱託などを経て、現在社団法人調査研究連盟に奉職。昭和十七年四月東京生活社より『支那の地方財政』を出版」とある。
版元の国際日本協会は発行者を五十嵐隆、住所を東京市麹町区内幸町一ノ二東拓ビルとするもので、国会図書館を確認すると、かなり多くの出版物を刊行していたとわかる。ただ本連載589で、やはり昭和十五年にナチス関連書を刊行していた出版社として、日本国際協会の名前を挙げておいたが、こちらは外務省調査部編纂を主として出していたと思われる。だが国際日本協会の詳細はつかめていない。ただ国際日本協会に関して印象的なのはその検印用紙で、左に中国大陸、中央に地方領土も含む日本列島、下に南洋諸島が描かれ、これは「大東亜共栄圏」を表象し、その真ん中に大きく長野の印が押されている。
おそらく長野の経歴や国際日本協会の名称からしても、満鉄調査部、軍部、各官庁などの近傍にあった研究者、出版社だったと見なしていいだろうし、その親ナチス、反ユダヤ的ポジションが翻訳にも投影され、それは「訳者序文」にも明らかである。長野は山岡光太郎の『アジアの二大運動―回教徒とユダヤ人』(渡辺事務所、昭和三年)や『血と銭』(植田印刷所、同十一年)を読むに至って、「ユダヤ人問題研究への異常な興味」をそそられたと告白している。山岡は本連載567でふれたおいた日露戦争の陸軍通訳官で、日本人としては最初のムスリムだった。それに彼がメッカに赴いた記録を残していることも既述しておいたけれど、ユダヤ人問題に関する論客であるとは認識していなかった。ただ日露戦争時の将校や通訳者が反ユダヤ論者となり、ユダヤ陰謀説も唱えるようになったことからすれば、山岡が回教徒の立場から反ユダヤ論者へと転回していったの驚くべきことではないかもしれない。
そのような山岡の著書に端を発し、長野はユダヤ人問題に目覚め、それはナチスの登場によって深みにはまっていく。長野は書いている。
ナチス政権によるドイツの大規模なユダヤ人征伐は、又訳者のユダヤ人問題研究熱を大いに掻き立てた。当時の我国のジャーナリズムや学者達は、ナチスのユダヤ人征伐を―ユダヤ人側の宣伝にのせられ―趣味か酔狂かといはぬばかりに、黙殺乃至冷笑的態度を持してゐた。しかしあの大規模なユダヤ人征伐が、そんなことでは出来るものではないと直観してゐた訳者は、徐々ながらユダヤ人問題の本格的研究にとりかゝつたのである。
そして昭和十三年のミュンヘン協定でドイツへの、チェコスロバキアのズデーテン地方割譲に端を発するボンド為替相場の暴落は、ユダヤ系巨大金融資本による陰謀で、イギリス国家と国民生活を犠牲にするものに他ならないという判断に至り、そのために渉猟した文献を五ページにわたって列挙している。
それらの「一般市販書」は山岡の他に、本連載110から113にかけて言及した酒井勝軍、北上梅石、安江仙弘、包荒子、四天王延孝たちが主として内外書房から刊行した著作である。また「翻訳書類」「ナチス関係(其外)翻訳書類」として、ヘンリー・フォード『世界の猶太人網』、ヒットラー『吾が闘争』、114のローゼンベルク『二十世紀の神話』、同582でふれたばかりの『新独逸国家大系』などが挙がっている。「雑誌類」としては国際政経学会の『猶太研究』、東亜経済調査局の『東亜』などに加えて、長野自身がユダヤ人問題論を寄稿している『国際評論』『文芸世紀』もリストアップされている。
[f:id:OdaMitsuo:20161205104920g:image:h120](『世界の猶太人網』)
これらの大半は私も本連載111を始めとして繰り返し書いてきたように、偽書である『シオン賢者の議定書』に基づくユダヤ人陰謀説の色彩が強い著作や論考だと見なしていい。このような「同じ分野に開拓の鋤を打ち揮ふ拓士として」、長野が「その第一に選んだのが本書の翻訳であった」のだ。原書は一九一一年刊行の『ユダヤ人と資本主義』だが、実際に翻訳されたのは第一篇の「近代的国民経済に於けるユダヤ人の役割」だけで、第二篇「資本主義に対するユダヤ人の適格性」、第三篇「如何にしてユダヤ的本質は成立したか」はその下巻として翻訳予定だったようだが、実際には刊行されなかったはずだ。
長野訳の「原著者序文」によれば、ゾンバルトは『近世資本主義』(岡崎次郎訳、生活社、昭和十七、八年)の増補改訂後、ユダヤ人問題へと突き進んだという。それはマックス・ウェーバーのピューリタニズムと資本主義との関係のよってきたるところが、「ユダヤ人の宗教の理念圏からの借り物」ではないかと思われたからだ。そしてユダヤ人の歴史がたどられ、近代資本主義経済、文化生活に対するユダヤ人が果たした影響が吟味されていく。しかし現在の資本主義経済体制にあっては非ユダヤ人もよりよくそれに適応し、ユダヤ的影響の減少を見ている。「即ち資本主義的企業は(今日の大銀行に就て考へても見よ!)も早や以前の特殊な商人的性質と同様には命令しない所の官僚主義的管理へと段々に変形されて行つたのである。即ち官僚主義は商業主義の地位に入り込んで来たのである」。
これがゾンバルトが示している原著『ユダヤ人と資本主義』のラフストーリーだと思われるが、邦訳は第一篇だけなので、後半のユダヤ的影響の減少から官僚主義への移行を伝えていないことになる。それゆえに邦訳では「近代的国民経済構成に於けるユダヤ人の役割」だけがクローズアップされる結果をもたらしている。長野にしてみれば、それが翻訳の目的であっただろうが、原書を等身大に捉えていなかったことを告げている。ゾンバルトは晩年に、マルキストからナチスへ接近したと伝えられているけれど、同書出版時にはそのような立場になかったはずだからだ。
戦後になって『恋愛と贅沢と資本主義』と同じ金森誠也訳で『ユダヤ人と経済生活』(荒地出版社)が出されているようだが、入手に至っておらず、『ユダヤ人と資本主義』の新訳であるのかを確認していない。
(講談社学術文庫)
なお本稿を書いた後で、金森訳『ユダヤ人と経済生活』が講談社学術文庫に収録されたことを知ったが、これは荒地出版社版の抄訳であるようだ。
(講談社学術文庫)
これも後に、木下半治編『現代ナショナリズム辞典』(酣燈社、昭和二十六年)に国際日本協会に関する立項を見出した。そこには「内藤民治、五十嵐隆、高橋忠作、大日本国家社会党の石川準十郎らが組織した国家社会主義的研究団体で出版を行った」とあった。
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