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このように、経済的下部構造=生産様式という前提に立つと、資本制以前の社会を説明できない。のみならず、それは資本制経済さえも説明できないのである。資本制経済はそれ自体、「観念的上部構造」、すなわち、貨幣と信用にもとづく巨大な体系をもっている。マルクスはこれを説明するために、『資本論』において、生産様式ではなく、商品交換という次元から考察を始めた。資本主義的生産様式、すなわち、資本と労働者の関係は、貨幣と商品の関係(交換様式)を通して組織されたものなのである。しかるに、史的唯物論を唱えるマルクス主義者は、『資本論』を十分に読むこともなく、「生産様式」という概念をくりかえしただけだった。
ゆえに、われわれは「生産様式」=経済的下部構造という見方を放棄すべきである。だが、それは「経済的下部構造」一般を放棄することではまったくない(4)。たんに、生産様式にかわって、交換様式から出発すればよいのだ。交換が経済的な概念であるとしたら、すべての交換様式は経済的なものである。つまり、「経済的」を広い意味で見れば、「経済的下部構造」によって社会構成体が決定されるといってもさしつかえない。たとえば、国家やネーションは、それぞれ異なる交換様式(経済的下部構造)に由来している。それらを、経済的下部構造から区別して、観念的上部構造とみなすのはおかしい。国家やネーションをたんなる啓蒙によって解消することができないのは、それがある種の交換様式に根ざしているからだ。もちろん、それらは観念的な形態をとる。だが、そのことは、商品交換に根ざした資本制経済に関しても同じである。資本主義システムは、「物質的」であるどころか、信用にもとづく観念的な世界である。だからこそ、それはたえず「恐慌」(危機)をはらむのだ。
(4)生産様式あるいは経済的下部構造という概念を疑ったのは、私が最初ではない。それはポストモダニズムにおける流行現象であった。たとえば、ジャン・ボードリヤールは『生産の鏡』(一九七三年)において、マルクスが「生産」というとき、資本主義社会において見出されるものを、それ以前の社会に投射するものだ、と批判した。《マルクス主義による批判は、資本主義経済の現在の構造に照らして、資本主義以前の社会を解明するのだと主張するが、資本主義社会とそれ以前の社会の差異をなくすために、経済学のスペクトル光線を資本主義以前の社会に照射していることに気づかない》(『生産の鏡』宇波彰・今村仁司訳、法政大学出版局、五四頁)。彼がこのように考えるにいたったのは、未開社会に関するモースやバターユの認識を通してである。未開社会に関しては、生産様式という概念を適用することができないからだ。ここから、ボードリヤールは、経済領域を「最終的な審級」とみなす考えを否定するにいたった。そこから彼はマルクス主義を否定することになる。しかし、私の考えでは、交換というものが広い意味で経済的であるといえるならば、基礎的な交換諸様式はすべて経済的であるということができるし、その意味で、それらはいわば「経済的下部構造」であるといってよい。ボードリヤールがいう「象徴交換」とは、互酬的な交換様式Aにほかならない。ゆえに、未開社会では、それが「経済的」な下部構造だといってもよい。一方、資本主義経済を支えているのは商品交換様式Cである。ボードリヤールはこれらの差異を見ない。「生産」の優位を否定したとき、彼がもってきたのは「消費」の優位である。だが、それはこの時期、顕著になった「消費社会」現象に適合することである。マルクスは資本主義経済を未開社会に投射したにすぎないと彼はいうが、バターユ以来、消費を強調する者は、ケインズ主義以後の資本主義経済を未開社会に投射したのである。それは、資本主義経済総体を見ることなく、たんにその一局面である「消費社会」現象のみに注目することである。
2交換様式のタイプ
交換といえば、商品交換がただちに連想される。商品交換の様式が支配的であるような資本主義社会にいるかぎ
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