2022年12月13日火曜日

大塚史学 時代背景のトピック(経済学史)

資本主義社会の形成

大塚久雄著

(大塚久雄著作集 / 大塚久雄著, 第4-5巻)

岩波書店, 1969.4-1969.5


4巻の内容:
欧洲経済史,『西洋経済史講座』 論文 絶対王制と近代社会の生誕,近代化と産業化の歴史的関連について-とくに比較経済史の視角から,
本邦における西洋資本主義発達史の研究について,資本主義発達史の基礎視点,経済再建期における経済史の問題,近代資本主義の特質,
経済史学の課題と視角-増田氏の三つの疑問に答えて 
対談 レンブラント(大塚久雄,嘉門安雄)
 書評・解説 

5巻の内容:
局地的市場圏 資本主義社会の形成, 
資本主義発展の起点における市場構造-経済史からみた「地域」の問題,近代化の歴史的起点-とくに市場構造の観点からする序論-,
リーランドの『紀行』に見えたる当時の社会的分業の状態-マニュファクチャー期開始点における国内市場の地域性について(大塚久雄,吉岡昭彦) 
紹介 アンリ・ピレンヌ「中世における大輸出商業・フランスの葡萄酒」 
農民層の分解 「農民層の分解」に関する基礎的考察 
解説 戸谷敏之著『イギリス・ヨーマンの研究』はしがき,
戸谷敏之氏の論文「イギリス・ヨーマンの研究」について マニュファクチャー論 マニュファクチャーの検出-いかにして史実のうちからマニュファクチャーを検出するか-マニュファクチャーの歴史的形態-,
マニュファクチャーの経営様式-とくに問屋制度との絡み合いについて- 書評・紹介 山口隆二著『日本の時計』,
レイストリック、アレン「南ヨークシャーの製鉄業者(一六九〇-一七五〇年)」 土地所有の歴史的性格 土地所有の歴史的形態,
綜画運動と農村工業-イギリス経済史上における工業と土地制度の交渉の一側面-,
農業史と貨幣経済の発達- 座談会 明治維新はブルジョア革命か -ソ連学者エイドゥスの報告をめぐって-,ネーデルラント革命の歴史的性格,寄生地主制論争の問題点,
エンクロウジャー雑感-空から見た経済史- 信用関係の展開 信用関係の展開 書評・紹介 ファン・ディレン編『公立銀行史、付録・銀行史に関する文献』,
ブロック「中世における金問題」,
レーデラー「世界経済恐慌における信用の問題」 産業革命 産業革命と資本主義-われわれはどのように産業革命を把握するか-,
産業革命の諸類型-社会の構造変革との関連において- 紹介 ネフ「一五四〇-一六四〇年の仏英における物価と工業資本主義」,
ヒートン「ベンジャミン・ゴットとヨークシャーの産業革命」 
後記
時代背景のトピック(経済学史)

大塚史学

大塚久雄(1907-1996)が打ち立てた歴史観は、「大塚史学」としてわが国の歴史学に大きな影響を与えている。大塚久雄『歴史と現代』(朝日選書)は、読みやすい概説書としてお薦めである。ここではその一部を紹介しておく。農村の中に生まれた毛織物を中心とした農村家内工業に近代化の原点を求める大塚史学では、「局地的市場圏(ローカル・マーケット・エリア)」というのがキー概念の一つである。その原初的なものは生産と消費の結合した小規模な市場圏である。

「農村工業地帯ではどこでも、五つか六つの村が一つのグループをなしているらしく、その中心の村には週に一回の市が立つ。しかも、その中心の村には大勢の職人や日雇が住みついている。それも、実にいろんな種類の職人なんですね。....そういう職人や日雇いたちが、農民たちも交えて、週に一度中心の村に立つ市に集まり、その生産物を商品として自由に売ったり買ったりする。その土地で生産されたものがその土地で商品として売られ、消費されていくというのですから、それぞれのグループの村々がいわば独自な経済圏を形作っていた、と言ってもよいわけです。」(67-68頁)

このような局地的市場圏はいくつも重なり合いながら大きな市場圏へと発展していく。大塚によれば、「イングランドでは局地的市場圏が方々にできたおかげで、十五世紀の前半には国内の地域間商業のみでなく、国際間の貿易までもがすっかりだめに」なってしまった。生産と消費の地域内での結合、そしてそれらがバランスをとって発展していくこと。これこそが健全な経済発展の姿であると見なされているのである。16世紀半ばにイングランドには3つの大きな局地的市場圏が成立し、さらに18世紀前半にイングランドは一つの市場圏へと統一されたというのが大塚の見解である。貿易依存型の経済発展ではなく、国内市場主導型の経済発展であったことが、イギリスが近代化に成功した理由とされるのである。それを可能としたのは、名誉革命を契機とした後期重商主義への政策転換ということになる。イギリスは国民国家として経済を発展させた後に、海外へと市場圏を広げていったという。

「国内市場主導の国民経済は、いままで話してきたことと一見矛盾するようですが、たとえば対外的な面では、毛織物工業のようないわゆる国民的産業の製品の輸出とそれに見合う国民的に必須な物質の輸入、そうした貿易関係を通じて他の弱小諸国をの経済を従属させ、いわゆる帝国経済圏を作り上げる傾向を生み出すことにもなるからです。」(87頁)

イギリスと対比されるのがオランダ型経済である。オランダはイギリスに先駆けて毛織物工業を発展させたにもかかわらず、広大な中継貿易を展開させた都市の貿易商人たちは、農村工業の展開を抑えこんでしまった。やがてオランダは純粋な中継貿易国となり、競争力を失い衰退していったとされる。貿易依存型の発展経路をたどりつつあった第二次大戦後の日本経済に対する警鐘として、大塚はオランダの衰退を語ったのである。

大塚の説明はイギリス資本主義の成立を分かりやすく語っている。経済学の発展を説明するのにもそれなりに便利であるので、講義でもその枠組みを利用した。しかし、今日では数多くの批判が大塚史学に向けられている。代表的な批判は、イギリス資本主義は最初から世界体制として成立したというものである。政策転換が図られたとする市民革命の時期に、東インド会社はより近代的な帝国支配の機関として再編されているし、ヨーロッパ諸国の成立を見るならば、局地的市場圏の発展としての国民経済の誕生という牧歌的な説明よりも、植民地獲得をめぐる競争こそが国民国家を誕生させる原動力であったとする方が自然であろう。つまり、バランスのとれた国民経済の発展の延長上にイギリスを中心とする世界経済が成立したのではなく、世界経済への参入・支配がイギリスの国内経済を発展させたという側面が強いのである。大塚史学に批判的なスタンスをとる河野健二『西洋経済史』(岩波全書)では次のように述べられている。

「民族的規模で農工分離を基礎として成立する自立的な再生産=流通圏を『国民経済』と名づけることができるとすれば、イギリスはむしろ初発から『国民経済』の枠組みをみずから外に向かって解放し、他民族、他地域の経済との連関を積極的に作り出すことで、はじめて自立し完結することができたのであり、したがってイギリス一国をとってみれば、あまりにも過小な農業と過大な輸出工業というバランスを失した構成であり、その姿は十九世紀全体を通じて構造的に固定化する。逆にいえば、イギリスは『国民経済』的な条件を度外視し、突破したからこそ、世界資本主義体制の中枢部分として生産を発展することが可能であったわけである。」(239頁)

大塚史学とは正反対の立場を理解するためには、「世界システム論」という歴史観に立脚した概説書である加藤祐三・川北稔『アジアと欧米経済』(中央公論社)、高校生向けに平易に書かれた川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)などを読むとよい。こうした歴史観の対立についてのより詳しい研究状況を知るためには、馬場哲・小野塚知二編『西洋経済史学』(東京大学出版会)所収の第6章「資本主義的世界体制の成立」を参照するとよいだろう。

http://park.saitama-u.ac.jp/~yanagisawa/het09/topic.html

時代背景のトピック

メディチ家の銀行業

中世のキリスト教の教義において利子をとって金を貸すことは禁じられていた。ルネサンス以降も利子禁止は教会法の中に明記され続けていく。だが、商品経済の発達は金融業を生み出しつつあった。彼らは利子禁止を逃れるために様々な言い逃れや、手法を編み出す必要に迫られていた。事実、メディチ家は銀行ではなく両替商という看板で経営されていたのである。メディチ家が用いていた抜け道作りの手法について、藤沢道郎『メディチ家はなぜ栄えたか』(講談社メチエ)から紹介しておこう。

「仮にフィレンツェの織物業者がメディチ銀行に1000フィオリーニの融資を頼んだとする。メディチ銀行は外貨(例えばフランスとかヴェネツィアの通貨で)1000フィオリーニにあたる金額を記した手形を発行する。業者はその手形を持ってメディチ銀行フィレンツェ支店に行く。銀行は業者に1000フィオリーニ払い出すが、そこから200フィオリーニを両替手数料として差し引く。業者の手には800フィオリーニしか残らないが、負債額は1000フィオリーニであるから、決められた期日には1000フィオリーニ返済しなければならない。20パーセントの利息を前払いで取られたのとまったく同じであるが、名目はあくまで両替手数料だ。利子は一文もとっていないという言い訳が成り立つ。」(112頁)

メディチ家は外国貿易にも従事しており、塩、胡椒、オリーブ油、ワイン、絵画、明礬などを扱っていた。フィレンツェの主要産業であった毛織物業も、その原材料の多くはイギリスなどから輸入されたものであった。上記書物はメディチ家と貿易との関わりも平易に説明してくれている。興味があるものは一読をお薦めする。


大塚史学

大塚久雄(1907-1996)が打ち立てた歴史観は、「大塚史学」としてわが国の歴史学に大きな影響を与えている。大塚久雄『歴史と現代』(朝日選書)は、読みやすい概説書としてお薦めである。ここではその一部を紹介しておく。農村の中に生まれた毛織物を中心とした農村家内工業に近代化の原点を求める大塚史学では、「局地的市場圏(ローカル・マーケット・エリア)」というのがキー概念の一つである。その原初的なものは生産と消費の結合した小規模な市場圏である。

「農村工業地帯ではどこでも、五つか六つの村が一つのグループをなしているらしく、その中心の村には週に一回の市が立つ。しかも、その中心の村には大勢の職人や日雇が住みついている。それも、実にいろんな種類の職人なんですね。....そういう職人や日雇いたちが、農民たちも交えて、週に一度中心の村に立つ市に集まり、その生産物を商品として自由に売ったり買ったりする。その土地で生産されたものがその土地で商品として売られ、消費されていくというのですから、それぞれのグループの村々がいわば独自な経済圏を形作っていた、と言ってもよいわけです。」(67-68頁)

このような局地的市場圏はいくつも重なり合いながら大きな市場圏へと発展していく。大塚によれば、「イングランドでは局地的市場圏が方々にできたおかげで、十五世紀の前半には国内の地域間商業のみでなく、国際間の貿易までもがすっかりだめに」なってしまった。生産と消費の地域内での結合、そしてそれらがバランスをとって発展していくこと。これこそが健全な経済発展の姿であると見なされているのである。16世紀半ばにイングランドには3つの大きな局地的市場圏が成立し、さらに18世紀前半にイングランドは一つの市場圏へと統一されたというのが大塚の見解である。貿易依存型の経済発展ではなく、国内市場主導型の経済発展であったことが、イギリスが近代化に成功した理由とされるのである。それを可能としたのは、名誉革命を契機とした後期重商主義への政策転換ということになる。イギリスは国民国家として経済を発展させた後に、海外へと市場圏を広げていったという。

「国内市場主導の国民経済は、いままで話してきたことと一見矛盾するようですが、たとえば対外的な面では、毛織物工業のようないわゆる国民的産業の製品の輸出とそれに見合う国民的に必須な物質の輸入、そうした貿易関係を通じて他の弱小諸国をの経済を従属させ、いわゆる帝国経済圏を作り上げる傾向を生み出すことにもなるからです。」(87頁)

イギリスと対比されるのがオランダ型経済である。オランダはイギリスに先駆けて毛織物工業を発展させたにもかかわらず、広大な中継貿易を展開させた都市の貿易商人たちは、農村工業の展開を抑えこんでしまった。やがてオランダは純粋な中継貿易国となり、競争力を失い衰退していったとされる。貿易依存型の発展経路をたどりつつあった第二次大戦後の日本経済に対する警鐘として、大塚はオランダの衰退を語ったのである。

大塚の説明はイギリス資本主義の成立を分かりやすく語っている。経済学の発展を説明するのにもそれなりに便利であるので、講義でもその枠組みを利用した。しかし、今日では数多くの批判が大塚史学に向けられている。代表的な批判は、イギリス資本主義は最初から世界体制として成立したというものである。政策転換が図られたとする市民革命の時期に、東インド会社はより近代的な帝国支配の機関として再編されているし、ヨーロッパ諸国の成立を見るならば、局地的市場圏の発展としての国民経済の誕生という牧歌的な説明よりも、植民地獲得をめぐる競争こそが国民国家を誕生させる原動力であったとする方が自然であろう。つまり、バランスのとれた国民経済の発展の延長上にイギリスを中心とする世界経済が成立したのではなく、世界経済への参入・支配がイギリスの国内経済を発展させたという側面が強いのである。大塚史学に批判的なスタンスをとる河野健二『西洋経済史』(岩波全書)では次のように述べられている。

「民族的規模で農工分離を基礎として成立する自立的な再生産=流通圏を『国民経済』と名づけることができるとすれば、イギリスはむしろ初発から『国民経済』の枠組みをみずから外に向かって解放し、他民族、他地域の経済との連関を積極的に作り出すことで、はじめて自立し完結することができたのであり、したがってイギリス一国をとってみれば、あまりにも過小な農業と過大な輸出工業というバランスを失した構成であり、その姿は十九世紀全体を通じて構造的に固定化する。逆にいえば、イギリスは『国民経済』的な条件を度外視し、突破したからこそ、世界資本主義体制の中枢部分として生産を発展することが可能であったわけである。」(239頁)

大塚史学とは正反対の立場を理解するためには、「世界システム論」という歴史観に立脚した概説書である加藤祐三・川北稔『アジアと欧米経済』(中央公論社)、高校生向けに平易に書かれた川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)などを読むとよい。こうした歴史観の対立についてのより詳しい研究状況を知るためには、馬場哲・小野塚知二編『西洋経済史学』(東京大学出版会)所収の第6章「資本主義的世界体制の成立」を参照するとよいだろう。


キャラコ論争とイギリス東インド会社

東インドのスパイスの利権をめぐって、17世紀半ばにオランダとイギリスは3度の海戦を交える。1670年代にこの戦争に最終的に勝利したイギリスは、東インド貿易の主導権を握っていく。戦争終結時にはオランダ、イギリスともに主要な輸入品はスパイスからキャラコ(インド産木綿織物)へと変化しつつあった。当時ヨーロッパで作られていたリンネル(亜麻織物)と比べてもキャラコは格段に安かった。そのうえ吸湿性が高く、洗濯しやすく、また染色も容易であったために、1670年代から80年代にかけて「キャラコ熱」と呼ばれるブームを引き起こした。毛織物製品の輸出を期待されていたイギリス東インド会社は、逆に繊維製品の輸入を拡大させてしまったのである。

17世紀末から1720年代頃にキャラコ論争と呼ばれる論争が引き起こされた。当時のエコノミストたちは、数ページから数10ページのパンフレットを数多く出版し、その論争は議会にまで及んでいった。キャラコ輸入を支持したのは、ジョサイア・チャイルド、ダブナントなどトーリー・フリー・トレーダーたちであった。他方、ジョン・ポレックスフェン、ジョン・ケアリといった人々は輸入に反対した。

輸入賛成派は、低廉な製品の輸入はイギリス製品の価格引下げに寄与し、世界市場での販路と国内雇用の拡大をもたらすと主張した。これに対して輸入反対派は、低廉な商品の輸入は国内製造業を破壊し、織布工の不満の増大や雇用の創出を招くと主張した。また、キャラコは大陸に再輸出されることがほとんどなく、もっぱら国内消費されているために地金を流出させることも反対理由となっていた。

輸入反対派が勢力を増し、1700年に「キャラコ輸入禁止法」が成立する。だが、それでもキャラコの広まりを抑えることはできず、織布工たちの失業や暴動が社会不安を引き起こしていた。やがて、キャラコ着用者が暴徒に襲われるという事件まで頻発するようになる。こうして1720年に「王国の毛・絹織物工業を維持、奨励」するための「キャラコ使用禁止法」が成立する。しかし、麻や毛との混織や藍一色に染めた製品は除外されるなどの抜け穴の多い法律であった。議会に与える東インド会社の影響は、依然として大きかったのである。

やがて東インド会社は単なる貿易会社の枠を越えて、インドを統治する機関へと成長する。イギリス本国よりもはるかに大きな土地と人口、それに税収を確保する機関であった。産業革命にいち早く成功したイギリスは19世紀に自由貿易のメッカとして君臨するが、それは同時に巨大な軍事力とインドに代表される広大な植民地を背景にして初めて成立しえた自由貿易に他ならなかったのである。18世紀末からインドとの自由貿易化が次第にすすめられ、1813年に独占権は廃止される。産業革命の成功によって、キャラコとの競争に打ち勝つ生産力を備えることで、イギリスはようやく対インドとの自由貿易に踏み切ることができたのである。もっとも、対中国貿易については依然として紅茶の輸入を主要因とする貿易赤字を解消できず、アヘンの売り込みという今日の目から見れば非人道的な貿易戦略をとらざるをえなかったのである。東インド会社については浅田實『東インド会社』(講談社現代新書)が読みやすくおもしろい。


重商主義国家とレントシーキング

公共経済学では、レントシーキング(Rent seeking)という概念が使用されている。レントとは他の企業お参入を規制することで、ある企業が得る独占的な利益を意味する。このレントを獲得・維持するために、企業が行う政府等への働きかけの活動をレントシーキングと呼ぶのである。

経済史研究者のエイカランドとトリソンは、レントシーキングを重商主義の本質であるとした。彼らは、重商主義経済をレントシーキング社会として解釈する。すなわち、国王が与える独占権の供給とそれに対する商人たちの需要こそが重商主義の本質であるという。一方で、この時代は徴税システムが未発達なので、独占権の販売による収入獲得が効率的であった。他方で、商人たちは賄賂や裏面工作によって獲得した独占権を行使して、独占的利潤を得ることが孤立的であった。ここにレントの需要者と供給者との利害が一致し、レントシーキング社会としての重商主義が成立したのである。

やがて、政策決定過程が民主化され多数の政府関係者が独占権の決定に関与するようになると、賄賂や裏面工作の対象が広がりその費用が増大していく。レントシーキングの費用増大が独占権の獲得を目指す重商主義のあり方を変質させていく。これがエイカランドたちの見解である。

エイカランドらの対象とする重商主義は、主に本講義の前期重商主義に当たるが、彼らの見解は本講義の立場を支持するものと言えよう。

参考文献:ラース・マグヌソン、熊谷次郎・大倉正雄訳『重商主義』知泉書館、第2章(および訳者注58頁)。


財政軍事国家

税金の徴集なくして近代国家は成立しない。つまり近代国家は「租税国家」でもある。租税の必要性をもたらしたのは、火器や船といった軍事テクノロジーの革新といってよいだろう。言い方を変えれば、近代国家は戦争を遂行するための軍事システムとして誕生したことになる。このような見方をとると、全国規模での租税システムを持たなかった(持つ必要がなかった)江戸時代の日本に近代国家は成立していないことになる。軍事システムの様相をますます強めていったヨーロッパと同時期に軍事テクノロジーを停滞させた(むしろ退行させたかもしれない)日本(「鉄砲を捨てた日本人」)さらにはアジアとの相違がどこに由来するかは興味深い。

さて、歴史学者J.ブリュアは『財政=軍事国家の衝撃』(名古屋大学出版会、原書1989) の中で「財政軍事国家(Fiscal Military State)」という概念を提起し、 18世紀イギリスの特徴をクリアに描き出した。 17世紀末から19世紀初のナポレオン戦争まで、イギリスはフランスとの戦争に勝ち続けた。フランスは人口がイギリスの4倍あり、経済力もだいたい4倍あった。にもかかわらず、戦争に勝てなかったのである。このパラドクスを説明したのが財政軍事国家である。イギリスはフランスとの覇権争いのために軍事費を増大させた。一人あたりの税額はイギリスはフランスの2倍近かったといわれている。ブルーワによれば、それだけの徴税が可能であったから、対仏戦争に勝利できたというのである。かつてのフランスのイメージは、強力な絶対主義が実行された国家で、民主主義の進んだイギリスと比べればはるかに重税を課す国家というものであった。しかし、ブルーワの議論に従えば、イギリスこそ重税国家の典型ということになる。フランスは近代的な官僚制の発展が遅れたために、まともに機能する徴税システムが存在していなかったのである。

ここでブルーワも依拠している、P.オブライエンの議論を紹介しておこう。イングランド政府は重商主義戦争にかかった莫大な費用を短期の一時金として借り入れ、その借金は長期の国債に借り替えていくという手法(「借換制度」)をとった。この借換制度が機能したのは、政府の徴税能力が高かったために国債に信用があったからである。国債の利払いの必要から、名誉革命から18世紀末にかけて、税負担は実に18倍に増加した。ヨーロッパ大陸の専制国家と比較して、国民所得に占める税の割合ははるかに高かった。オブライエンによれば、国民所得の40%が合法・非合法に税金から免れていたと仮定すれば、残りの有効な課税ベースから税徴集される割合は、 1700年の15%から1810年の30%へと上昇したことになる。

経済成長がこのような高い税を可能にしたと考えられるかもしれない。しかし、経済成長に合わせて課税していたとすれば、 1810年時点では実際の税収の2,3割程度しか徴税できなかったことになる。つまり、経済成長は税収増加の主要な要因ではない。課税ベースが拡大していったのが主要な要因である。

名誉革命時点では土地にかけられる税が歳入全体の47%を占めていたが、 18世紀末になるとその割合は21%へと低下していく。この期間に税の大半は商品やサービスにかけられる間接税へと変化していった。税の種類は次第に増加していった。関税対象も含めると、窓、馬車、召使、砂糖、茶、塩、石炭、ロウソク、レンガ、木材、石鹸、ビール、ワイン、煙草、新聞、火災保険、等々へとである。 18世紀末になると、所得税が導入されていく。

参考文献:P.オブライエン『帝国主義と工業化1415-1974』(ミネルヴァ書房)・同書訳者解説(秋田茂)
この項目は「2000年度歴史学H」より再録


HOMEへ    

0 件のコメント:

コメントを投稿