エラム
エラムと呼ばれたのは、メソポタミアの東、現代のフーゼスターンなどを含むイラン高原南西部のザグロス山脈沿いの地域である[1]。エラム人自身は自らをハルタミ (Haltami) と呼び、土地を指す際にはハルタムティ(Haltamti、後に訛ってアタムティAtamti)と呼んだ。シュメール語のエラムはこれの転訛したものである[2]。メソポタミアという古代文明世界の中心地に隣接したために、その文化的影響を強く受けたが、砂漠や湿地帯によって交通が困難であったために、政治的にはイラン高原地帯との関わりが深かった。エラム人は系統不明の言語エラム語を話す人々であり、メソポタミアでウルク古拙文字(楔形文字の元になったと考えられている絵文字)が発明されてから程なく、エラムでも原エラム文字と呼ばれる絵文字が発明された。この原エラム文字で書かれた文章は現在のアフガニスタンに近い地域からも見つかっており、エラム文化はイラン高原各地に影響を与えていたと考えられる。また、ほぼ同時代にエラム語楔形文字も使われているが、それらの関係は全く解明されていない。メソポタミアの王朝はたびたびエラムに侵入して、これを支配下に置いた。一方でエラム人もメソポタミアへの介入を繰り返し、バビロニアの王朝をいくつも滅ぼしている。紀元前2000年紀に入ると、エラム人も楔形文字を使って記録を残すようになり、多くの情報がわかる。エラムの歴史で中心的役割を果たした都市はアンシャン、そしてスサである。スサを中心とした地方はギリシア人たちにはスシアナとよばれた。エラム人の残した文化や政治制度は、メディアやペルシアに大きな影響を及ぼした。
エラム人は、オリエントのほかの地域とは異なる独特の相続制度を持っていた。即ち、王位は親子ではなく、まず兄弟によって相続されていくのである。この相続制度はかなり後の時代にまで継承され、異民族の侵入によっても基本的に変化しなかった。
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