小杉榲邨
小杉 榲邨(こすぎ すぎむら、天保5年12月30日(1835年1月28日) - 明治43年(1910年)3月29日)は、国学者。阿波国(現徳島県)出身。
経歴
徳島藩の陪臣(蜂須賀家中老西尾志摩の家臣[1])小杉明真の子として生まれる。通称は五郎、号は杉園(さんえん)。藩校で漢学経史を学び、古典の研究に専念し、本居内遠の門人である池辺真榛に師事。安政元年(1854年)、江戸に出て、村田春野、小中村清矩と交わった。文久ころ、勤王論を唱えて幽閉された。明治2年(1869年)、藩から地誌の編集、典籍の講義を命じられた。
廃藩ののち、名東県に出任した。明治7年(1874年)、教部省に出仕し、明治10年(1877年)に文部省で修史館掌記として『古事類苑』の編集に従った。
明治15年(1882年)、東京大学古典講習科で国文を講じ、さらに文科大学講師、その間、帝室博物館監査掛評議員として古社寺の建築、国宝の調査に従事した。
明治22年(1889年)、今日では古代史の常識となっている「法隆寺再建論」を提唱した。これに対し、関野貞が「法隆寺金堂塔婆中門非再建論」を唱え、小杉に真正面から挑戦してきたが、小杉の後輩の喜田貞吉が小杉の「再建論」を強力に支持した。 法隆寺再建非再建論の回顧 この論争は、その後、二転三転するも、昭和14年(1939年)に、石田茂作らによって若草伽藍跡の発掘調査が行われた結果、小杉の「法隆寺再建論」が正しかったことが考古学的に実証された。
明治32年(1899年)、東京美術学校教授、御歌所参候を兼ねた。
明治34年(1901年)、文学博士。「徴古雑抄」の著がある。
明治40年(1907年)、『源氏物語』の写本のひとつである大沢本を鑑定した(「鑑定筆記」)。
明治43年(1910年)、食道癌のため死去[2]。
脚注
- 徳島県立文書館「明治期の寺社関係公文書(3)」「家は中老西尾志摩の家臣」
- 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)122頁
関連項目
外部リンク
- 『徳島の百人』(徳島市民双書1) p.157~160に小杉榲邨の略伝あり
- 『阿波国徴古雑抄』(国立国会図書館デジタルコレクション) (欠ページ、乱丁あり)
- 『阿波国徴古雑抄』(慶応義塾大学蔵) - Googleブックス
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