2023年8月27日日曜日

・「中臣氏」の出自 | 好々彦の中臣氏考

・「中臣氏」の出自 | 好々彦の中臣氏考

 「中臣氏」族は「天皇家」とは祖先が異なる「神別氏族」であるため「臣」(おみ)の姓を賜る事はない。では何故太祖の「宇佐津臣命」から子孫代々「臣」の姓が付けられているのか?それは「臣」は姓制度の「臣」(おみ)ではなく「臣」(とみ)である。即ち、「宇佐津登美命」(うさつとみのみこと)である。「中臣氏」は「なかおみうじ」と読まず「なかとみうじ」と読むのが通例である。

 なぜ「登美」が付けられたのか?それは「宇佐津臣命」は「豊国」宇佐津の出身であり、「登美」とは「豊耳」(豊国主)のことで出自を美称化した冠称として付加したのであろう。

「中臣氏」の 「中」は「宇佐津臣命」が居留した宇佐津から中津にかけて延々と続く砂丘地帯を長洲と云い、長洲の「なが」か、もしくは中津の「なか」から採られたと考える。
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「中臣氏」の出自

 「中臣氏」(なかとみし)の始祖・「宇佐津臣命」(うさつとみのみこと)の祖神は母系から見ると「宇佐津彦命」である。父系から見ると「曽於津彦命」であり、父は「天多禰伎命」(あまのたねきのみこと)である。「多禰伎命」の「天」の冠称は子孫が「天照大神」の祭祀に奉仕した氏族として賜ったものである。

 「天多禰伎命」は「神武東征」で一行を「豊国」の日向の津から宇佐津まで舟運帯同した海人族で、「多禰隼人」系「日向隼人」族である。「天多禰伎命」は九州東岸の日向灘の水系を支配し、難所である速吸瀬戸を渡り切る外洋航海技術に長ける隼人族である。

 宇佐津までの舟運の役割を果たした「天多禰伎命」は宇佐津に留まり、当地を治める豪族「宇佐津彦命」の娘「菟狭津姫命」を娶り、「宇佐津臣命」を儲けた。

 「宇佐津臣命」の母方の祖父「宇佐津彦命」は朝鮮半島と九州を往来し、交易や「伽羅国」の工人を九州や本州に斡旋入植させることを生業として、周防灘西岸に宇佐津を拓いた海人「安曇族」で、多くの海人族が瀬戸内を東進する為の基地港とした。

 系譜から見る「中臣氏」の出自

(日向隼人族) (神武東征舟同)
 曽於津彦命ーーー天多禰伎命
          |
          |ーーーーーー①宇佐津臣命ーーーー→⑩阿麻毘佐臣命
          |      (中臣氏の始祖)   (中臣氏賜る)
 宇佐津彦命ーーー菟狭津姫命
(海人安曇族)

 「宇佐津臣命」は「東征」を挙行した「神武大王」が「倭国」磐余の地で即位した二十二年後、「伽羅国」から九州の筑紫に渡来入植した「意富族」(おおぞく)の山師「大田田根子命」(祖神は「大山咋命」)が率いる「伽羅国」の「工人集団」を引き連れて「紀の国」海部郡(現・海草郡)「木之本」邑へ渡来入植した。

 「宇佐津臣命」一行を舟運した隼人族は、「神武東征」の一行を舟運した「安日彦命」(あいひこのみこと)と兄弟の「大日諸命」(おいもろのみこと)であった。「安日彦命」と「大日諸命」は両者ともに瀬戸内海の航海技術に長け、瀬戸内水系を支配した隼人族である。

 因みに、兄弟同一呼称の「あい」に対して「安日」と「大日」に当て字を変える事により同一人物ではない事を表している。よくある事で、例えば「中臣氏」の三代目と九代目の名前は両者ともに「いかつとみのみこと」であり、「伊香津臣命」「烏賊津臣命」と当て字を変える事により別人である事を示している。「大日諸」の「諸」(もろ)は「麿」(まろ)が訛ったものであり、「安日彦」の「彦」は「諸」や「麿」と同意語であり、男性の尊称「男子」とか「男」を意味する。

 「伽羅国」の「工人集団」とは、先端技術を携えて筑紫の基肄(きい)に渡来した造船師(舟大工)、造殿師(宮大工)を率いる「大屋津彦命」や鋳物師、杣師、炭焼師、研磨師などを率いる「天糠戸石凝姥命」(あまのぬかといこりおきのみこと)、「天麻比止都禰命」(あまのまきとちねのみこと)、「天戸間見命」(あまのとまみのみこと)の「鋳鍛冶族」三神や馬を扱う「日下部馬津族」の祖「日下部馬津久流久美命」(くさかべうまずくるくみのみこと)や馬を飼育、繫殖する「額田部馬飼族」の祖「級長津彦命」(しながつひこのみこと)など多彩な工人達である。

 因みに、大工の祖とされる「大屋津彦命」の祖神は「五十建命」(いすたけのみこと)である。又、「額田部」の祖とされる「天糠戸石凝姥命」は鋳鍛冶の神であり、「天麻比止都禰命」は薪炭の神「薪神」(まきしん)であり、「天戸間見命」は研磨の神「砥磨神」(とましん)であり、三神は同族(「額田部」族)で祖神は「天糠戸命」(あまのぬかとのみこと)である。三神合わせて「別雷神」(わけのいかづちのかみ)と云われ「倭朝廷」に取り込まれた「鋳鍛冶族」である。又、馬を扱う部族の祖「日下部馬津久流久美命」と「級長津彦命」は同族で「活目五十呉桃命」(いくめいくるみのみこと)を祖神とする。

 「伽羅国」の先端技術や文化を「大和国」に初めて導入したのが「中臣氏」の始祖「宇佐津臣命」である。

 船の「建造技術」の導入は、丸太舟から準構造船、構造船へと発展をもたらし、建物の「建造技術」の導入は高床式の屯倉や宮殿や社殿などに切妻造りの日本的様式をもたらし寝殿造や大社造の建築様式を生んだ。

 馬を扱う部族の渡来で、「馬飼い族」により牧場を開設し、飼育、繫殖、供給をし、馬力による農耕や重量物(石や土や木など)運搬など労働力の軽減をもたらした。「馬津族」により舟運と陸運をつなぐ馬津(泥濘や萱場などの足場の悪い船着場で荷の取次を容易に行う輸送形態)を開設し、馬による陸運をもたらし、河川の渡渉を容易にし、長距離輸送を可能にした。また馬は要人の足となり、行幸や外交の長距離移動に重要な役割を果たし、後世の駅馬の発展に繋がった。

 「鋳鍛冶技術」の導入は「杣技術」(木こりの技術)や「炭焼技術」、「窯焚き技術」を革新し、新しい「製鉄技術」をもたらした。また石や金属など鉱物の「研磨技術」の革新を伴い、道具や工具を木から鉄へと進化させ、農耕や採鉱や造船、造殿やその他の分野での技術が向上し、効率や精度を飛躍させた。

 この様に「中臣氏」の先祖は「神武東征」で舟運の一端を担い、また初めて大和へ朝鮮半島の新しい技術や文化を運び、「倭朝廷」の屋台骨となって、「大和国家」建設を主導した氏族である。

「中臣氏」の名の由来

 「中臣氏」族の「臣」は「倭朝廷」の姓制度の「臣」ではない。「中臣氏」が初めて中央官庁の役職としての姓を賜ったのは、十一代「垂仁大王」の代に「宇佐津臣命」の十代孫「阿麻毘佐臣命」が「阿麻毘舎連」として「連」の姓を賜り、初めて「中臣氏」を名乗った。それまで「中臣氏」族「中臣部」と云う部民の姓を負い、「卜部」関係の職務(日読み又は日夜見)に就いて「朝廷」に仕える身分であった。「物部氏」も同様に「物部連」の姓を賜るまでは「物部」又は「魂部」(「大王家」先祖代々の魂を鎮める神主を担う)を背負い「食国政申大夫」と云う職務に就いて「朝廷」に仕える身分であった。

 「中臣氏」族は「天皇家」とは祖先が異なる「神別氏族」であるため「臣」(おみ)の姓を賜る事はない。では何故太祖の「宇佐津臣命」から子孫代々「臣」の姓が付けられているのか?それは「臣」は姓制度の「臣」(おみ)ではなく「臣」(とみ)である。即ち、「宇佐津登美命」(うさつとみのみこと)である。「中臣氏」は「なかおみうじ」と読まず「なかとみうじ」と読むのが通例である。

 なぜ「登美」が付けられたのか?それは「宇佐津臣命」は「豊国」宇佐津の出身であり、「登美」とは「豊耳」(豊国主)のことで出自を美称化した冠称として付加したのであろう。

「中臣氏」の 「中」は「宇佐津臣命」が居留した宇佐津から中津にかけて延々と続く砂丘地帯を長洲と云い、長洲の「なが」か、もしくは中津の「なか」から採られたと考える。

 長洲港祭り縮小2_convert_20180217155535 
 瀬戸内東征への起点となった宇佐津の長洲は今では地名として残っているが、開発の波に曝されて
 その面影はない。多くの海人族の拠点として栄えたであろう長洲の原風景として宇佐港祭りの情景
 に替えてイメージングを試みた。(宇佐商工会議所のホームページより画像を拝借しました。) 


 「中臣氏」や「物部氏」の「氏」(うじ)とは何か? 古代社会で同じ祖先から出たとされる血族の集団を「氏族」と云う。「大化改新」つまり「律令制度」が制定される以前は、同じ祖先(「須佐之男命」)から別れたと信じる多くの部族集団がいた。その部族の代表者を「氏上」、一族を「氏人」と云い、下に部民や奴婢を従えて「倭朝廷」に仕えた。そして一族の祖神を「氏神」と云った。

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