2023年8月28日月曜日

司馬遼太郎「この国のかたち」5巻 神道について


古神道というのは
真水のようにすっきりとして平明である。
教義などはなく、ただその一角を
清らかにしておけば、
すでにそこに神が在わす。

この国のかたち(五) (文春文庫) Kindle版 


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<古神道というのは、真水ようすっきりとして平明ある教義などなく「神道」の項目はついに七回におよび、その最後の原稿は九四年三月に書かれて「文藝春秋」九四年六月号に掲載された。その最後の回でも司馬遼太郎は、国家神道と、あまりに宗教 ...



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奈良のえんぎしきむ十世紀初頭の『延喜式』(古代の法典)にすでにこの滝原の宮のおおらてんびようないくうとおのみや古神道というのは、真水ようすっきりとして平明ある教義などなくただその一角「大神(伊勢神宮の内宮)の遥宮」というのだが、 ...



95 神    道(三)   
 古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。
  教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す。
  例として、滝原の宮がいちばんいい。 
 滝原は、あまり人に知られていない。伊勢(三重県)にある。伊勢神宮の西南西、直線にして三十キロほどの山中にあって、老杉の森にかこまれ、伊勢神宮をそっくり小型にしたような境域に鎮まっている。 
 場所はさほど広くない。
  森の中の空閑地一面に、てのひらほどの白い河原石が敷きつめられている。一隅にしゃがむと、無数の白い石の上を、風がさざなみだって吹いてゆき、簡素この上ない。
  十世紀初頭の『延喜式』(古代の法典)にすでにこの滝原の宮のことが出ている。 「大神(伊勢神宮の内宮)の遥宮」というのだが、遥宮の神学的な意味はわからない。神名の記載もない。
  このふしぎな滝原の宮と、それを大型にしたような伊勢神宮との関係についても古記録がない。 
 本居宣長のいう言挙げをしないまますくなくとも十世紀以来、滝原の宮は伊勢神宮によって管理され、祭祀されてきた。神道そのものの態度というほかない。 
 滝原の宮には内宮の社殿を小さくしたような社殿もある。伊勢神宮と同様、この山中で、二十年ごとの式年遷宮もおこなわれている。 
 私が見た滝原における白い河原石が一面に敷かれた場所は、じつは遷宮のおわったあとの敷地なのである。しかし、なまじい社殿があるよりも、以前そこに社殿があり、かついずれは社殿が建てられる無のようなこの空閑地にこそ、古神道の神聖さが感じられる。  さて、伊勢神宮のことである。
  神宮のはじまりは古いが、祭祀の基本である二十年ごとの建てかえ(式年遷宮)が制度として、はじめて実施されたのは、持統天皇の四年(六九〇年)で、以後、こんにちにいたる。  律令時代は、国費でおこなわれた。  伊勢神宮の内宮・外宮が、建物から敷地に敷きつめられた河原石にいたるまで二十年ごとに一新されるというのは、一見、むだなようにみえる。しかしこの遷宮そのものが、無言の思想表現らしいのである。  といって、日本人が、物の考え方の基本として新しさを好むのかということにはならない。  一方においては、日本人は、古さをも好むのである。仏教寺院においては、建物の古びや塗料の剝落などを気にせず、とくに中世末期にはそこに寂びやわびを見出し、むしろ珍重してきた。奈良の大寺なども、天平(八世紀)のころは青や丹でかがやいていたはずだったが、その後ことさらに古びにまかせ、古びのなかに永遠の時間を感じようとするのか、これを佳しとしつづけてきている。  が、一方では、伊勢神道のように、新しいものにいのちが宿るという思想がある。 「お若くおなりになって、おめでとうございます」  というあいさつは、古くは、民衆のあいだで、正月に交わされていた。  正月になれば一つ老いが重なるはずだのに、そこにイデアが設けられて、年があらたまるとともに逆に人も自然も若くなるというのである。  この場合の若い、というのは、年齢のすくなさということではなく、元気という意味にとるほうがわかりやすいかもしれない。  正月元旦の朝にはじめて汲む水のことは若水とされる。また元旦にはじめて汲む海水を若潮と言い、その行事を〝若潮迎え〟ととなえた。 
 若松が正月のめでたさをあらわし、また松の若葉のことをとくに〝若緑〟とよぶのが、年の始めの言祝ぎというものだった。  
 外間守善氏の『沖縄の言語史』(法政大学出版局)によると、〝若くおなりになった〟という正月のあいさつ言葉が、鹿児島や沖縄に残っていたそうである(例・鹿児島市〝ワコオナイヤシツロ〟、沖縄・那覇市〝ウワカクナミソーチ〟)。  唐突だが、紀元前十七世紀末(もしくは紀元前十六世紀初)にはじまったとされる殷は、いかなる大思想とも無縁の時代だった。  殷王朝の創始者の湯王は、洗面盤に「苟日新 日日新 又日新」(マコトニ日ニ新タナリ、日日新タナリ、又日ニ新タナリ)という言葉を彫りつけていたという。  このような〝新〟への願いは、極東古アジアに共通したものであったかもしれない。  伊勢神宮の遷宮の儀は、夜、老杉の森の闇のなかでおこなわれる。

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