補足 本集に、莫囂とあるのを、みすと訓んだのは、 大野郡網磯野の地名傳説に、人の聲がやかましか つたので、天皇が大覚 (謂^二阿那美須^一」)と勅せられ たので、大囂斯[アナミスシ]と言うたのを、訛って網磯野と言ふ 様になった(豐後風土記)と言ふのによつて、莫囂は喧しいのを却ける様だから、大囂と同様、みすと訓じたのである。圓隣をやまとしたのは、圓の音を 三内相通でやと考へ、隣はイ舞の魯魚と見て、イ舞をまに用ゐたと思ふのである。
折口信夫 万葉集辞典
みす-やま【三栖山】 紀伊國西牟婁郡東部の山中に在
る山。田邊から本宮への中邊地[ナカヘチ]を、三里進んだ途中
に、三栖村がある。其辺の山であらう。後世の歌に、
熊野へまゐりけるに、 八上[ヤガミ]の王子[ワウジ]の花おもしろかり
ければ、社に書きつける、「待ち来つる八上の櫻咲
きにけり。あらくな吹きそ。三栖の山風(山家集)、
と言ふのがある。牟婁温泉は、熊野本宮と、鉛山溫
泉と、両方に通じてゐる様であるから、此歌は、本
宮温泉行幸の時のものと思はれる。
補足 本集に、莫○とあるのを、みすと訓んだのは、
大野郡網磯野の地名傳説に、人の聲がやかましか
つたので、天皇が大覚 (謂^二阿那美須^一」)と勅せられ
たので、大獄期と言うたのを、訛って網磯野と言ふ
様になった(豐後風土記)と言ふのによつて、莫○
は喧しいのを却ける様だから、大獄と同様、かずと
訓じたのである。圓隣をやまとしたのは、圓の音を
三内相通でやと考へ、隣は隣の魯魚と見て、僕をま
に用ゐたと思ふのである。
莫囂圓隣之大兄爪湯気わが背子がい立せりけむ厳橿が本 (額田王)
日本最古の和歌集「万葉集」の解説サイトです。分かりやすい口語訳の解説に歌枕や歌碑などの写真なども添えて、初心者の方はもちろん多くの万葉集愛好家の方に楽しんでいただきたく思います。
(解説:黒路よしひろ)
紀の温泉(ゆ)に幸(いでま)しし時に、額田王の作れる歌
莫囂圓隣之大兄爪湯気わが背子がい立せりけむ厳橿(いつかし)が本(もと)
巻一(九)
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莫囂圓隣之大兄爪湯気わたしの愛しい人が立っていただろう神聖な橿の木の下
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この歌は天皇が紀の温泉(現在の和歌山県の湯崎温泉)に行幸された時に同行した額田王(ぬかたのおほきみ)が詠んだ一首。
万葉集の原文は漢字を当て字にした万葉仮名で表記されていて、この歌の上の句「莫囂圓隣之大兄爪湯気」についてははっきりとした訓読みが確定していません。
一応、「夕月の仰ぎて問ひし」(仙覚抄)や「三諸の山見つつゆけ」(古義)、「紀の国の山越えてゆけ」(考)など三十種類以上の読みがあるようなので、参考にはなるかと思いますが…
この天皇の行幸は何時のことか明確ではありませんが、額田王が同行していることを考えると(巻一:七参照)の歌の左記にある斉明天皇の時代の紀の温泉への行幸のことかと思われ、その場合は有間皇子が謀反を企んだとして捕えられ天皇の行幸先の紀の湯に尋問を受けるために移送され絞殺された時と同時期になりますね(巻二:一四一参照)。
上の句の読みが確定していないので歌の意味についても解釈し辛いところがありますが、「愛おしい人(おそらく中大兄皇子)が神聖な橿の木の下に立っていた」ということは、その橿の木の霊力を受けて旅の無事を祈った歌なのでしょう。
万葉集にはこのように土地や樹木に宿った精霊の力を授かって長寿や旅の無事を祈る呪術歌が多く含まれています。
奈良県桜井市初瀬の長谷寺参道途中民家前にあるこの歌の歌碑。
歌碑の解説。
歌碑は近鉄長谷寺駅から国道165号線を渡って長谷寺へ向かう参道の途中の、このような民家前に建っています。
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