都萬神社
都萬神社 | |
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拝殿 | |
所在地 | 宮崎県西都市大字妻1 |
位置 | 北緯32度06分55.01秒 東経131度24分15.23秒座標: 北緯32度06分55.01秒 東経131度24分15.23秒 |
主祭神 | 木花開耶姫命 |
社格等 | 式内社(小) 日向国総社論社 日向国二宮論社 旧県社 |
創建 | 不詳 |
例祭 | 11月19日 |
主な神事 | 更衣祭(7月7日) |
地図 | |
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都萬神社(つまじんじゃ、都万神社)は、宮崎県西都市にある神社。式内社で、日向国総社論社、日向国二宮論社。旧社格は県社。
社名について
「都万」の社名について、「妻万」とする説が古くからある[1]。またその場合、読みを「つま」のほか「さいまん」とする説がある[1]。現在も地元では、「おせんさま」という「さいまん」の転訛による呼称が残っている[1]。
祭神
一説として、祭神は柧津比売命という説もある。
歴史
創建
創建の年代は不詳。当社周辺には、木花開耶姫命と瓊々杵尊が新婚生活を送ったという伝承地が残っている。当社近くには全国屈指の大古墳群である西都原古墳群があるほか、屯倉設置の推定地や日向国府跡もあり、日向の中心地であったことがうかがわれる[1]。
都萬神社の神官家の日下部氏の系図や『妻萬大明神縁起』などによると、瓊瓊杵尊が天下ったころに土から出現した日下部立次が妻萬大明神を祀ったのが由来であるという[3]。
なお本居宣長以来古くから、当地の地名「妻(つま)」を『魏志倭人伝』に見える「投馬国」に比定する説がある(確証はされていない)[1]。
概史
国史の初見は、『続日本後紀』の承和4年(837年)8月1日条の「日向国子湯郡都濃神。妻神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社(都農神社・都萬神社・江田神社・霧島岑神社を官社に預かる)」という記事である。その後、神階は天安2年(858年)に従四位下まで昇進した。
『延喜式』神名帳では日向国児湯郡に「都万神社」と記載され、式内社に列している。日向国府は当社近くに設けられており、また「五社明神」という別称から日向国の有力社を合祀していたと見られる[4]ことから、当社は日向国の総社の機能を担ったとする説がある[5]。また、都農神社(日向国一宮)に次ぐ二宮として崇敬されたとする説もある[5][6]。
日向国衙の在庁職にあった日下部氏は当社の神官も務め大きな影響を持ったが、室町時代以後の当社は伊東氏から庇護された[4]。中世には「妻宮」「妻万宮」「日向総廟五社大明神」などと呼ばれていたという。日向国の式内社4社の中では、実質的に最も有力な神社であった。
明治6年(1873年)に、近代社格制度において県社に列格し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進指定を受けた[7]。
神階
境内
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本殿
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拝殿
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石橋
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一の鳥居
摂末社
- 大山祇神社 - 祭神:大山津見命
- 八坂神社 - 祭神:須佐之男命
- 霧島神社 - 祭神:瓊瓊杵命
- 四所神社 - 祭神:磐長姫命ほか3柱
- 稲荷神社 - 祭神:宇迦之御魂命
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大山祇神社
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八坂神社
祭事
- 歳旦祭 (1月1日)[8]
- 大祓 (6月30日)
- 更衣祭 (7月7日)
- 特殊神事。神像に着付けや化粧を施し、祭神・木花開耶姫命の入内までの様子を再現する[4]。
- 例大祭 (11月19日)
- 鎮火祭 (旧暦11月2日)
- 大祓、除夜祭 (12月31日)
文化財
国の天然記念物
- 妻のクス - 推定樹齢は1,200年で、高さ約40メートル。昭和26年6月9日指定[9]。
現地情報
所在地
交通アクセス
- 宮崎交通バスで「都萬神社前」バス停下車 (下車後徒歩すぐ)
- 西都バスセンターからは徒歩約12分。
周辺
脚注
- ^ a b c d e 『日本の神々』都万神社項。
- 祭神は神社由緒書による。
- 西都市史編纂委員会編『西都の歴史』(西都市、1976年)
- ^ a b c 『宮崎県の地名』都萬神社項。
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, p. 631.
- 江戸時代、高山彦九郎の『筑紫日記』による(『宮崎県の地名』都萬神社項)。
- 境内説明板。
- 祭事は神社由緒書による。
- 妻のクス(西都市の文化財)。
参考文献
- 神社由緒書
- 『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』(平凡社)西都市 都萬神社項
- 中村明蔵「都万神社」(谷川健一『日本の神々 -神社と聖地- 1 九州』(白水社))
- 中世諸国一宮制研究会 編『中世諸国一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年。ISBN 978-4872941708。none
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