豊前国 ぶぜんのくに
現在の福岡県東半部と大分県北部を占める地域の旧国名。『日本書紀』景行(けいこう)天皇紀に「豊前国長峡県(ながおのあがた)」とあるのが史料上の初見であるが、明確なのは702年(大宝2)から。古くは豊国(とよくに)があり、それが7世紀末に豊前・豊後(ぶんご)に分かれたとするが不詳。『延喜式(えんぎしき)』(927成)では西海道(さいかいどう)にあり、上国。郡は、田河、企救(きく)、京都(みやこ)、仲津(なかつ)、築城(ついき)、上毛(かみつみけ)、下毛(しもつみけ)、宇佐の8郡。国府は京都郡説、仲津郡(行橋(ゆくはし)市)説の2説があり、京都から仲津への移転説もある。国分僧寺・尼寺はいずれも京都郡みやこ町にあり、豊前一宮(いちのみや)は宇佐郡の八幡(はちまん)宇佐宮。奈良期の豊前国の総人口は7万3000~7万4000人前後と推定されている。八幡宇佐宮は天平時代から対外関係や軍事上のことで祈請(きしょう)されており、神宮寺(じんぐうじ)(のち弥勒寺(みろくじ)と称す)は東大寺の大仏造立に深くかかわりをもっており、769年(神護景雲3)の道鏡即位の託宣事件で象徴されるように畿内(きない)政権との関係が深い。平安末期以来、当国にも荘園(しょうえん)が数多く成立するが、東部地域には宇佐宮領が集中している。宇佐宮領荘園はその成立要因によって3種に分けられるが、このうち、豊前国には奈良時代の封戸(ふこ)が荘園化した「十箇郷三箇荘」(根本神領)、位田・供田などから発展した「本御(ほんみ)荘十八カ所」の多くが存在し、弥勒寺も国内に多くの荘園を所有していた。 鎌倉期の守護には武藤、金沢(かねさわ)、糸田氏らが補任(ぶにん)され、南北朝期には少弐(しょうに)、大友、今川、渋川(しぶかわ)氏らが交替、室町期には大内氏が歴代守護となっている。戦国期には、大内、大友、城井(きい)、毛利らの諸氏が覇を競い、やがて大友氏が制するが、それも安定せず、1587年(天正15)豊臣(とよとみ)秀吉が九州を統一した。秀吉は、宇佐、下毛(しもげ)、上毛(こうげ)、築城、京都、中津の6郡の領主として黒田孝高(よしたか)(如水(じょすい))を配した。孝高は領内の検地を行い、翌88年正月には城地を下毛郡中津(中津市)に定め、城井氏を中心とする在地土豪勢力の反乱を武力で鎮定し、領国経営を行った。1600年(慶長5)関ヶ原の戦いの功により、黒田氏は筑前(ちくぜん)国福岡(福岡市)へ移封となった。1587年企救郡小倉(こくら)に入った毛利勝信は、企救・田川両郡で受封したが、関ヶ原の戦いにおいて西方にくみしたため除封された。黒田・毛利の後には、細川忠興(ただおき)が豊前一国と豊後2郡(国東(くにさき)・速見(はやみ))で中津に入る。忠興は、領内の検地を行い、1602年(慶長7)末には中津から小倉に移り、中津には嗣子(しし)忠利が入った。そのほか、門司(もじ)、香春岳(かわらだけ)、岩石(がんじゃく)、一戸(ひとつど)、龍王(りゅうおう)と豊後の高田・木付(きつき)の支城に一族・有力家臣を在番として配した。このうち門司以下の7支城は1615年(元和1)の一国一城令によって破却されたが、中津城のみは残置された。忠興は1620年末、家督を忠利に譲り、自らは三斎(さんさい)と号し隠居して、翌21年4月に中津城に移り、忠利が小倉藩主となった。 1632年(寛永9)細川忠利は、肥後熊本へ転封となり、そのあとには、譜代(ふだい)大名である小笠原(おがさわら)一族4家が配された。まず、小倉には小笠原忠真(ただざね)が、豊後の木付には忠真の弟忠知(ただとも)が(のち転封)、中津には忠真の兄忠脩(ただのぶ)の嫡子長次(ながつぐ)が、さらに龍王へは忠真の弟で松平家(能見(のみ))の養子となった松平重直が入部することとなった。小倉に入った忠真の系は、1671年(寛文11)忠雄のとき、弟真方(さねかた)に新田1万石(小倉新田藩と称す。1869年からは千束(ちづか)藩)を分知し、幕末に至るが、1866年(慶応2)の長州戦争小倉口の戦いにおいて大敗北を喫し、小倉城を自焼し、田川郡香春(こうばる)に藩庁を移した。さらに、1869年(明治2)、藩再建を期して、かつての国府所在地京都郡豊津に藩庁を移し、豊津藩と称し、廃藩に至る。中津に入った長次の系は、1698年(元禄11)藩主長胤(ながたね)の不行跡により領知没収、改めて弟長円(ながのぶ)が上毛・下毛・宇佐3郡で半知4万石を受ける。これより先、1694年(元禄7)には長胤の弟長宥(ながやす)に分知されていたが、長胤の領知没収を機に旗本に列せられ、宇佐郡時枝(ときえだ)村(宇佐市)に陣屋を置く時枝領となり幕末に至る。長胤の旧領、5万3000石(宇佐・下毛郡)は幕府領となり、宇佐郡四日市(宇佐市)に代官所が置かれる。減知された中津藩は、長円の嗣長(ながさと)が1716年(享保1)わずか9歳で死亡し、無継嗣(むけいし)を理由に領知没収、ここに小笠原中津藩は終焉(しゅうえん)した。17年、中津には丹後(たんご)国(京都府)宮津城主であった譜代大名奥平昌成(おくだいらまさしげ)が豊前国上毛・下毛・宇佐3郡、ほかに筑前国(福岡県)、備後(びんご)国(広島県)のうち計10万石で入部し、以後幕末に至る。松平重直は、龍王から豊後高田に居館を移すが、その息英親のとき、1645年(正保2)小笠原忠知の後を受けて木付へ転封となる。幕府領となった旧領をそのまま預り地とするが、1669年(寛文9)に至って肥前島原藩の飛び地となる。 中世において多くの荘園を保持していた八幡宇佐宮は、黒田・細川などから若干の寄進を受けていたが、1646年(正保3)徳川家光(いえみつ)より宇佐村のうち1000石を朱印地として認められ宇佐神宮領となる。四日市代官所管下の村々は、奥平中津藩成立の時点で一部中津藩に編入され、残りはのちに豊後日田(ひた)代官所管下に入り、四日市には陣屋が残置される。1870年(明治3)には、対馬厳原(つしまいづはら)藩の飛び地も置かれる。71年7月の廃藩置県で、豊津・千束・中津の3県と厳原・日田・島原県領地が成立したが、同年11月に豊前一国が小倉県となり、76年4月には福岡県に入るが、同年8月下毛・宇佐2郡は大分県へ編入された。 [豊田寛三] [参照項目] | 大分(県) | 福岡(県) 歌川広重『六十余州名所図会 豊前 羅漢…
「豊前国」の意味・わかりやすい解説
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)none日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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