2023年8月26日土曜日

阿波風No.58 小杉榲邨(すぎむら)

阿波風No.58

阿波風No.58

 明治初年,式内社・忌部神社の所在地を特定する論争がわき起こった時,重要な役割を果たしたのが徳島出身の歴史家・小杉榲邨(すぎむら)だった。1834(天保5)年,徳島藩中老である西尾家の家臣,小杉家に生まれ,国学を池辺真榛らに学んだ。
 榲邨は忌部神社論争で,旧木屋平村三ツ木に住む阿波忌部の末裔三木家に伝わる「忌部の契約」文書などを根拠に挙げ,旧山川町山崎の忌部神社と比定考証したことで知られる。
 榲邨は東北から九州までの寺社,旧家などを調査,筆写した古文書集「徴古雑抄(ちょうこざっしょう)」(正編138冊,続編51冊)をまとめた。この中で三木家文書など阿波徳島の古代から近世までの史料を「阿波国徴古雑抄」として別に著した。今でも徳島の郷土史を学ぶ人々のバイブルである。発刊にあたり,「古語拾遺新註」の著者・池辺真榛を庇護した小松島市金磯の多田家が支援したことが,阿波国徴古雑抄の冒頭に記されている。
 発刊が計画された際,榲邨は病床に臥しており,発刊のめどが立ったことを大いに喜んだという。しかし残念ながら榲邨はこの書を見ることはなかった。3年前に亡くなっていた。
 榲邨は1874(明治7)年に東京に移り,文部省や東京大学,東京国立博物館に勤務。正倉院の調査研究でも活躍した。徳島出身の後輩学者の鳥居龍蔵や喜田貞吉とも親交を結び,鳥居夫妻の結婚の媒酌人を務めた。榲邨は忌部に関する史料も多く集めたほか,鳥居の著書「ある老学徒の手記」に記した榲邨自筆の和歌に「忌部宿祢」の印を押しており,阿波忌部を深く意識していたことが分かる。阿波国徴古雑抄は喜田が代表者だった日本歴史地理学会が発刊。榲邨が日本書紀に基づいて提唱した「法隆寺再建論」を継承したのも喜田だった。
 歴史を振り返ると,阿波忌部を通じてつながった大きな輪が見えてくる。

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