2023年8月27日日曜日

【つの版】邪馬台国への旅05:不彌|三宅つの

【つの版】邪馬台国への旅05:不彌|三宅つの

【つの版】邪馬台国への旅05:不彌

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ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

北部九州を東に進み、奴國から不彌國に踏み込みます。繰り返しますが、奴國から先の記述については、伊都國に留められた帯方郡の使節が倭地で伝聞したことに過ぎません。遼東公孫氏に仕えていた人々や韓人にも聞き込みを行った可能性はありますが、中国人には東夷に過ぎない倭人の実態などどうでもよいことで、情報は都合よく捻じ曲げられている可能性があります。

◆水◆

◆行◆

不彌國

東行、至不彌國。百里。官曰多模、副曰卑奴母離。有千餘家。
東行して不彌國に至る。百里である。官は多模、副は卑奴母離という。千余家がある。

名称

不彌の上古音は *pə *m-nə[r] です(不弥は略字)。əはaとeの間のような発音(シュワー)なのでペァムネァとでも読むのでしょうか。倭語では「ふみ(プミ)」と読めます。漢字は当て字で意味はありません。

官は多模(上古音*[t.l]ˤaj *mˤa)といい、倭語の「たま」と読み得ます。トヨタマ、フトタマなどのタマでしょう。副はおなじみの卑奴母離です。

位置と規模

奴國から東に100里(43.4km)、いつものように1/5すれば20里(8.68km)東にあり、1000戸ほどのさほど大きくない國です。場所については古来いくつかの説があります。伊都國から20里で到着した金武から20里東に行っても福岡市南区に出るだけなので、奴國の中心地か勢力圏の端から20里でしょうか。まずは各説を見ていきましょう。

宇美説

新井白石は、神功皇后が応神天皇を出産した「宇美」のことだとしました。福岡市東南には糟屋郡宇美町があり、3世紀中頃の糟屋郡内最大の前方後円墳・光正寺古墳があります。この一帯は宇美川の流域で、御笠川の東岸の小高い場所にあり、福岡平野の中でも少し独立性があると言えます。北の志免町や糟屋町も含むかも知れません。春日市の須玖岡本遺跡からも東…東北ですが、おおよそ20里(8.68km)です。なかなか有力な説と言えます。

次の投馬國へは「南至投馬國、水行二十日」とありますから、不彌國は「水行」の出発地点になるはずです。幸い宇美川があり、これを下るか遡ることになります。上のGoogle Mapsでご確認下さい。光正寺古墳の近くから宇美川を10kmほど北に下れば、多々良川と合流して博多湾に出て、対岸は海の中道と志賀島です。しかしわざわざ内陸へ行かずとも、奴國から海に直接出ればよさそうなものです

では宇美川を南へ遡っていくと、太宰府へ向かうどころか東へ折れ、三郡山地の中へ入って終わります。御笠川や山口川・宝満川と接続して南(筑後)へ向かうとすれば陸地を歩かねばなりませんし、奴国から直接南に向かえばよさそうなものです。伊都國に留まった使者に対し2万戸もある隣の奴國を紹介しておいて、なぜ次に千余戸しかない不彌國を紹介したのでしょうか。

穂波説

次に、奴國が宇美町も含めて福岡平野全体を覆う程度の國だとしましょう。その東の自然な境は、福岡平野と筑豊盆地を分ける三郡山地です。宇美か篠栗か柚須原を通って山を抜ければ、筑豊盆地の飯塚市に出ます。ここは筑前国穂波郡で、遠賀川の西岸にあたり、不彌國であってもおかしくはないかも知れません。

しかし遠賀川は北へ流れており、南へ遡れば英彦山の西で源流に到達し、筑後川とは接続しません。北へ行くにも南へ行くにも内陸過ぎ、わざわざ奴國から向かう必要性を感じません。

豊前説

それでは、奴國がさらに大きく、筑豊盆地をも含むとすればどうでしょう。田川市か香春町から東に山を越えれば、京築地域の行橋市です。

ここは豊前国京都(みやこ)郡に属し(熊襲討伐に来た景行天皇が行宮を構えたことに由来)、豊前海(周防灘)に面しています。南へ水行すれば宇佐、大分、宮崎…となって辻褄が合います。問題は、投馬國5万戸や邪馬臺國7万戸もの人口が面積的に入り切らないことだけですね。これも戸数や日数が誇張だとすれば無事解決します。

御笠説

解決策の一つとして、東南に進めばどうでしょう。奴國中心部の須玖岡本遺跡付近から東南に8.68km進むと、そこは脊振山系と三郡山系に挟まれた筑紫野市です。大野城市・太宰府市を含んで筑前国御笠郡があり、筑前と筑後を結ぶ交通の要衝で、御笠川を遡ると北東に進みますが、宝満川を南に下ることができます。そのまま久留米で筑後川と合流し、有明海に出て熊本市で上陸し、阿蘇や高千穂、人吉などを目指すことができます。熊本や南九州内陸に邪馬臺國があるとすれば、このルートがよいでしょう。そこに5万戸や7万戸が入るかはさておき、とても理にかなっていますね。

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???

……というわけにも行きません。つのは納得できません。3世紀の大分や熊本や宮崎や鹿児島に、北部九州に総督(一大率)を派遣して統治し、魏に使者を送るほど大きな國が存在した形跡はありません。少なくとも、2万戸を有する奴國よりは大きくなければ辻褄が合いません。

それに、同時代に繁栄していた出雲や吉備やヤマトはどうしたのでしょう。九州に邪馬臺國があるならどういう関係にあったのでしょう。各地に分布する銅鏡などは、先進的な九州からおこぼれを貰っていたのでしょうか。それともヤマトは九州とは無関係に発展し、九州でヤマトっぽい名前を名乗っていた邪馬臺國を征服したのでしょうか。

九州がヤマトを征服したのだというのなら、なぜ先進的で交易網を牛耳ることができる九州を離れて、東の辺境のヤマトへ遷都する必要があったのでしょうか。饒速日や神武東征を持ち出されても、つのは納得できません。

さらに先へ

また魏志倭人伝を読み進めると、

「南至投馬國、水行二十日」「南至邪馬臺國、女王之所都、水行十日、陸行一月」「自郡至女王國、萬二千餘里」

とあります。帯方郡から女王國(邪馬臺國)まで1万2000余里あるのに、末盧國までで1万里、末盧國から不彌國までに500+100+100=700里を経ていますから、残りは1300里ほどしかありません(余なのでもう少し長いかも)。さあ、わからなくなってきました。先に邪馬臺國の位置を探しましょう。

熊本か

1300里を今まで通り5倍誇張とすれば、260里=112.84kmです。不彌國がどこだかわかりませんが、とりあえず福岡平野の付近から112.84km南下すれば、熊本県八代市か天草市、あるいは阿蘇山南麓の山都町になります(この地名は2004年に公募で決まったもので、古い地名ではありません。邪馬台国があるといいなぐらいの下心もあったでしょう)。

しかし水行20+10日、陸行1月(30日)、合計60日かけて進むのが112.84kmとすれば、1日に1.88kmしか進めません。日数も誇張と見て5分の1すれば12日、1日9.4kmです。多少マシですが遅すぎます。人間が1時間に歩く距離は4km程度ですが、倭人は1日2時間ほどしか歩けなかったのでしょうか。それとも船の便や道路事情があまりにも酷かったのでしょうか。そんな有様でよく帯方郡まで使者を派遣できたものです。

南九州か

筑後川や有明海を水行したとしても、国東半島を回り込んだとしても、上陸して1ヶ月か6日歩いてたどり着けるような南九州の内陸部に都があるなら、その周囲に7万戸(35万人)も住めるでしょうか(律令時代の豊後国は8郡44郷、肥後国は14郡99郷、日向国は5郡28郷、薩摩国は13郡35郷、大隅国は 8郡37郷で、全部足しても240郷≒24万人=5万戸弱にしかなりません)。沿岸部にあるなら陸行するより船で上陸すれば済みます。それとも全部倭人の嘘で、卑彌呼は伊都國のすぐ南に隠れていたのでしょうか。

奄美大島か

1300里が5倍誇張ではないとすれば564.2kmで、日数が60日だと1日9.4km。12日なら1日47kmとやや現実味を帯びますが、福岡平野の東から564kmも南下すれば奄美大島か鬼界ヶ島で、陸行する地面がありません。3世紀には南西諸島を九州と繋ぐ長大な陸地があったとでもいうのでしょうか。

???

こんな調子では、不彌國から先がどこにあったのかわかりません。それで「伊都國から放射状に各國までの距離が書かれている」「帯方郡からの距離だ」「伊都國に卑弥呼がいた」「一月は一日の間違いだ」「水行なら10日、陸行なら1ヶ月だ」「翰苑に引く廣志には伊都國の南に邪馬臺(嘉)國があると書いてある」などという説が次々と出てきました。これらは投馬國や邪馬臺國を九州島内に(できれば北部九州に)なんとか収めようといういじましい努力ですが、全部ファッキン・ボーシット(糞戯言)です。こんなアホらしい屁理屈にいちいち反論していては時間と人生の無駄です。九州王朝も東遷説も今や成り立ちません。詳しくは下の記事を読んで下さい。

東へ…

九州島内に収まらないとなれば、投馬國の「南」という方角が間違っているとしか考えられません。末盧國から東に進んで来たのですから、西へ戻るわけにもいきません。北には陸地がありません。さらに東、畿内ヤマトを目指します。九州説の人はここで退場です。お疲れ様でした。

先程の1300里を東へ伸ばせばどうでしょう。5分の1して260里=112.84kmとすれば、福岡県東部から伸ばした場合、山口県のどこかに投馬國と邪馬臺國が存在することになり、近すぎます。そのまま1300里=564.2kmとすれば、直線距離だと福井県や岐阜県、愛知県や三重県までが圏内に入ります。空を飛ぶわけではないのでいくらか曲がれば、畿内に邪馬臺國が収まり、投馬國はその間、中国・四国地方のどこかに存在することになります。

なお陸路で北九州市から奈良県桜井市を目指すと602kmです。魏里434mで換算すると1387里ほどで、不彌國までの1万700里と足せば1万2087里です。どうも日数の部分の里数は誇張されていない気がしますね。

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「ここまで5倍誇張しておいてズルい!」「東が南になるわけがない!我田引水!」と言われても、実際の地理などから合理的に解釈して、辻褄合わせのために誇張を解除し、方角を変えただけです。胡乱なナビに従って道に迷うより、自分の目と頭で状況判断した方がマシです。あなたが魏志倭人伝を無謬の聖典だと信じているなら自我科へ行って下さい。

夫余並み人口密度でざっくり計ると、2万戸が7500km2、1万戸が3750km2ですから、5万戸の投馬國は1万8750km2(中国地方が3万1921.87km2)、7万戸の邪馬臺國は2万6250km2(近畿地方が3万3112.42km2)必要です。平野が多い夫余とは異なり高句麗のように山がちな(しかし温暖な)日本列島ですから、もう少し広いかも知れません。まあ国家が領域をべたっと支配しているわけではないのですが。

對馬1000戸、一支3000戸、末盧4000戸、伊都1000戸、不彌1000戸を足せば1万戸で、1+2+5+7=15万戸(75万人)を全部乗せて夫余並み人口密度にすると5万6250km2ですが、九州地方は3万6782.37km2です。壱岐並みの人口密度46.2km2に1000戸入るとすれば14万戸=6468km2で北部九州に詰め込めますが、食糧不足になりそうですし、考古学的にもあり得ません。

方4000里もとい方800里(347.2km、12万km2)の三韓がちょうど15万戸ですから、中四国地方(5万km2)と近畿地方(3.3万km2)を足しても足りません。地図を見れば現韓国(10万km2)ほどなので、北部九州4県(1.78万km2)を足せばそのぐらいにはなります。要するに、熊本・宮崎・鹿児島を除いた西日本全域でなければ15万戸は入りません。

「当時の倭に数万戸の國なんてなかった」と言われても、東夷伝馬韓条には「大國萬餘家、小國数千家」とあり、夫余や高句麗は8万戸や3万戸の王国です。國を都市国家や奴隷制帝国とだけ考えず、諸国(部族)連合隣保同盟の形態を考えて下さい。古代イスラエルは十二部族の同盟から発展し、都市国家ローマは付近の同族とラテン同盟を結んでいました。近くは弁韓や辰韓もそうですし、アメリカ合衆国やヨーロッパ連合という例もあります。

そもそも『隋書』『北史』には「竹斯國から東へ向かい、十数国を経たところに倭國の都・邪靡堆(邪摩堆)がある」とし、「則魏志所謂邪馬臺者也(すなわち魏志にいうところの邪馬臺である)」と明記されています。隋の使者の裴世清が北部九州から瀬戸内海を経て大阪で上陸し、倭國の都に来たことは史実ですから(倭國王の多利思比孤が推古天皇かどうか議論はありますが)、隋唐の人々は竹斯國の遥か東方に倭國の都の邪馬臺があると認識していたわけです。これをも「九州王朝だ!」とか言うなら手の施しようがありません。家族や友人と会話し、自我科を受診して下さい。

では結局、不彌國はどこにあるのでしょう。確定はできませんが、奴國から東で1000戸程度の規模があり、東へ水行可能な場所となると、宗像地方か北九州市、豊前地方が候補にあがります。

豊前から瀬戸内海ルート

豊前から東へ行くと瀬戸内海を進むわけですが、大阪に上陸した場合、陸行1月(5倍誇張として6日)もに進めばヤマトを通り越して紀伊半島の南端になります。また潮流の複雑な瀬戸内海を1ヶ月ならともかく6日で進むのは、当時の技術では不可能です。水行20+10日をそのままに、陸行1月を1日に読み替え南を東とすれば、堺市から桜井市まで直線で33kmほどなので一応可能ですが、なんか納得行きません。瀬戸内海ルートも当然古くからあったとは思いますが、魏志倭人伝に記されるルートは違うようです。

日本海ルート

瀬戸内海がダメなら日本海です。投馬國5万戸を広域の出雲(イズモ)とみなせば、その先へ水行して上陸し、「南に陸行」すればヤマトに着きます。魏志倭人伝に書かれた経路や日数、距離、考古学や地理やその他を考慮するに、つのはこのルートが最も蓋然性があると考えます。別につのの独創ではなく、百年も前に笠井新也氏が唱えておられます

宗像

となると、出発地点は宗像が良さそうです。宗像大社の祭神・宗像三女神は天照大神と素戔嗚命の娘たちで、出雲の大国主神との間に子を儲けたと記紀神話にも書かれています。宗像郡は現在の宗像市と福津市を含み14郷がありました。不彌と宗像で地名は繋がりませんが、福津市に福間(ふくま、中世は福満荘)という地名があります。ただし古代からの地名ではなく、和名抄の郷名にも不彌らしい地名はありません。とりあえず宗像市の神湊までとして、須玖岡本遺跡から北に30kmあまり、金武から43kmあまり(誇張なしの実数100里)東北になります。まあいいでしょう。

遠賀

須玖岡本遺跡から実数100里とすれば、宗像を通り越して遠賀郡です。遠賀は『日本書紀』に「崗水門(をかのみなと)」とあり、遠賀川下流域には湾や潟がありました。郷は埴生・垣前・山鹿・宗像・内浦・木夜の6つです。不彌っぽい地名はありませんが、宗像よりは福岡平野からの独立性は高く、それなりの人口もありそうです。結局宇美や飯塚を経て北上し、直方市や中間市(遠賀郡宗像郷)あたりに着いたということなのかも知れません。

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縄文海進の頃には直方市まで海でした。3世紀は小氷期なのでやや狭まっていたとは思います。宗像や直方は地名に「潟(かた)」を含みます。

ともかく、このあたりを不彌國としましょう。なぜ博多湾から出港して海路で北上しないのかは謎です。どのみち魏の使者が通った道ではなく、伊都國での伝聞に過ぎません。

では、北部九州の諸国について整理しておきましょう。

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對馬國:1000戸・5000人 対馬国
一支國:3000戸・1.5万人 壱岐国
末盧國:4000戸・2万人  肥前国松浦郡(五島列島を除く)
伊都國:1000戸・5000人 筑前国怡土郡+志摩郡(福岡県糸島市)
奴國 :2万戸 ・10万人 筑紫国+豊国(福岡県+大分県)+佐賀平野
不彌國:1000戸・5000人 筑前国遠賀郡か
合計:3万戸・15万人

◆Go East◆

◆Young Man◆

今回は以上です。次は不彌國から投馬國(出雲)を目指します。

【続く】

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