2023年8月31日木曜日

羽衣伝説 Vol.阿波 ③ | コラクのブログ 『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記) 「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」

羽衣伝説 Vol.阿波 ③ | コラクのブログ



羽衣伝説 Vol.阿波 ③


 ②からの続きです。

 …再び話を丹後国に戻しまして、

 福知山元伊勢三社
 元伊勢外宮豊受大神社は京都府福知山市大江町字天田内船岡山に鎮座。

 ◆御祭神 豊受大神

 ちなみに、他の二社は、
 元伊勢内宮皇大神社 ◆御祭神 天照大神

 皇大神社の奥宮とされる

 天岩戸神社 ◆御祭神 櫛御毛奴命 がある。

 そして元伊勢として非常に有名な社が丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ)なのですが、その宮司家が「海部氏」なのです。

 籠神社(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。

 式内社名神大社。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。

 ◆主祭神 彦火明命 (ひこほあかりのみこと) 、「天火明命」、「天照御魂神」、「天照国照彦火明命」、「饒速日命」ともいうとする。社家海部氏の祖神。
 ◆相殿神 豊受大神(とようけのおおかみ)・天照大神(あまてらすおおかみ)・海神(わたつみのかみ)社家海部氏の氏神・天水分神(あめのみくまりのかみ)

 ●創建
 
社伝によれば、現在伊勢神宮外宮に祀られている豊受大神は、神代は「真名井原」の地(現在の奥宮真名井神社)に鎮座したという。
 その地は「匏宮(よさのみや、与佐宮/吉佐宮/与謝宮)」と呼ばれたとし、天照大神が4年間営んだ元伊勢の「吉佐宮」にあたるとしている。
 そして白鳳11年(671年)彦火明命から26代目の海部伍佰道(いほじ)が、祭神が籠に乗って雪の中に現れたという伝承に基づいて社名を「籠宮(このみや)」と改め、彦火火出見尊を祀ったという。
 その後養老3年(719年)、真名井原から現在地に遷座し、27代海部愛志(えし)が主祭神を海部氏祖の彦火明命に改め、豊受・天照両神を相殿に祀り天水分神も合わせ祀ったと伝える。

 奥宮である真名井神社には海神らしく狛犬ならぬ狛龍がいます。

 で、和奈佐彦と豊受大神(天女)らのその後の痕跡なのですが、伊勢神宮のホームページの外宮 - 正宮 - 豊受大神宮の「由緒と沿革」に書かれてありますように、

 ◆伊勢神宮:外宮 豊受大神宮

 豊受大神宮のご鎮座は『止由気宮儀式帳』や『豊受皇太神御鎮座本紀』によると、雄略天皇の御代に、天照大御神が天皇の夢に現れてお告げをされたことによります。その内容は、「一所にのみ坐せば甚苦し」ということと、「大御饌も安く聞食さず坐すが故に、丹波国の比治の真名井に坐す我が御饌都神、等由気大神を、我許もが」と教え諭されたことでした。天皇は夢から目覚められて、等由気大神を丹波国からお呼びになり、度会の山田原に立派な宮殿を建て、祭祀を始められました。これが「御饌殿の創設」、「日別朝夕大御饌祭の創祀」を始めとする御鎮座の由来です。

 最終的に、第21代雄略天皇が等由気大神を丹波国より現在の伊勢神宮へ移したということになります。

 ◆豊受大御神の痕跡経路

 籠神社の社家海部氏に伝わる海部氏系図(あまべしけいず)は、1976年6月に古代の氏族制度や祭祀制度の変遷を研究する上での貴重な文献として、国宝の指定を受けています。

 ◆国宝『籠名神社祝部氏系図』(海部氏本系図-1)

 始 籠名神社祝部氏系図 丹後国与謝郡従四位下籠名神従元于今所斎奉祝部奉仕海部直等之氏

 養老三年(719年)巳未三月廿二日 籠宮天下給

 始祖彦火明命 正哉吾勝也速日天押穂耳尊 第三御子 - 三世孫倭宿弥命 - 孫健振熊宿弥  ■若狭木■■髙向□□海部直姓定賜■ ■■賜國■仕奉■品田天皇■□ - 兒海部直都比 - 兒海部直縣 - …  (■は難読文字、□は不明文字)

 ◆国宝海部氏勘注系図-前書

 ◆国宝海部氏勘注系図-巻首

 …などがあり、系譜を整理しますと、

 勝速日(天忍穂耳尊) - 始祖 彦火明命(饒速日と同神とされる) - 天香語山命 - 天村雲命 - 倭宿弥命(椎根津彦) - 笠水彦命 - 笠津彦命 - 建田勢命…19代目 健振熊宿弥が品田天皇(応神天皇)の時に「海部直」を賜り国造として仕えた旨が記載されています。

 この中で始祖である彦火明命(饒速日)の孫にあたる天村雲命についてなのですが、

 伊勢神宮外宮の祭祀を代々司ってきたのが度会(わたらい)氏で、その度会氏に伝えられてきたのが度会神道、一般的に言われている伊勢神道であり、この根本経典として伝わるのが「神道五部書(しんとうごぶしょ)」です。

 ・『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』(御鎮座次第記)
 ・『伊勢二所皇太神御鎮座伝記』(御鎮座伝記)
 ・『豊受皇太神御鎮座本記』(御鎮座本記)
 ・『造伊勢二所太神宮宝基本記』(宝基本記)
 ・『倭姫命世記』

 この五部書の中の『豊受皇太神御鎮座本記』に、

 ※ぐーたら気延日記(重箱の隅)豊受皇太神御鎮座本記より拝借<(_ _)>

 天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也

 と明記されており、阿波國に座す二社が皇祖皇統の正統なる末裔であり、伊勢大神主の祖であると書かれてあるのです。

 その他にも天村雲命に関するものの記述として、

 『旧事本紀』「国造本紀」に、

 伊勢国造。橿原朝(神武天皇の御世)、天降る天牟久怒命(天牟羅久怒)の孫天日鷲命を勅し賜いて国造に定む、また天日鷲命は伊勢国造。即ち伊賀伊勢国造(いがいせのくにのみやつこ)の祖。

 『神宮雑例集巻』に、

 天牟羅雲命、国常立尊十二世孫、度会遠祖など見ゆ。その孫「天日別命」は神武朝伊勢国造となれり。

 『天神本紀』では、

 度会神主等祖、天牟良雲命。

 『天孫本紀』では、

 尾張氏の祖

 などが確認できます。

 つまり、伊勢外宮の神主である渡会氏は、阿波国に居た天村雲命の後裔であり、国常立尊十二世孫・神皇産霊神六世之孫で、皇孫であるとしています。

 また、孫である天日鷲命が伊賀・伊勢国造(神武朝)になったと記しているのです。

 ※天日鷲命についてはまた別の機会に書く予定です。

 …ここであらためて籠神社の鎮座地周辺を地図で見てみますと、、、

 すぐ近くに日本三景として有名な「天橋立」が御座います。

 三種の神器(みくさのかむだから)のひとつで天村雲命の名を冠する剣が「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」がありますが、この天村雲命の別名が、

 ・天二上命(あめのふたのぼりのみこと)

 ・後小橋命(のちのおばしのみこと)

 ・天五多底命(あめのいだてのみこと)

 式内社天村雲神社が鎮座する、徳島県吉野川市山川町は元、忌部郷と射立郷の二郷からなっており(『和名抄』 にある阿波国麻植郡射立郷(伊多知))現在の山川町にあるの地名「湯立」は「射立郷」からの転訛なのです。

 また、阿波國美馬郡に鎮座する延喜式式内社 天椅立(あめのはしだて)神社(徳島県三好郡東みよし町大字昼間字宮内3266)という神社が御座いますが、神社名の漢字である""という字を"はし"と読んでいます。

 要するに天五多底命(天村雲命)の由来は、式内社 天村雲神社の鎮座地である射立郷からであり、射立(いたち)から転じて椅立(いたて→はしだて)となり、後世これを橋立(はしだて)と更に転訛、現在の天橋立となるに至ったということ。

 思うに、「天橋立」は「天五多底命(天村雲命)」の痕跡を記した遺物であるといえるのではないのでしょうかはてなマーク

 これまでの考察検証から得られる結果として、

 豊受大御神(天女を伴い丹後国に降り立ったのは、阿波の神人集団(天火明命ら率いる海部氏一族)であり、のちの雄略天皇御宇に豊受大御神を伊勢神宮外宮に移し祀っているのが天火明命の孫である天村雲命の後裔渡会氏であること。 

 天孫である天火明命、痕跡地となるのはやはり阿波忌部の根拠地「麻植郡」へと繋がっていきます。

 この件に関しましては、阿波がルーツであると考えてほぼ間違いなさそうです。

 羽衣伝説シリーズは一先ず終了しまして、次項より別題として考察を進めたいと思います。

 ◆静岡県静岡市清水区三保半島(三保の松原の天女像)

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