2023年8月30日水曜日

Resurrection Of Awa:八坂神社 Vol.阿波

Resurrection Of Awa:八坂神社 Vol.阿波
https://x.com/slowslow2772/status/1696552984371466407?s=61



八坂神社 Vol.阿波



Resurrection Of Awa:八坂神社 Vol.阿波
blog.fc2.com

 「日本三大祇園」といえばみなさんご存じ有名どころである、

 祇園祭(京都市八坂神社)
 博多祇園山笠(福岡市櫛田神社)
 会津田島祇園祭(南会津町熊野神社)


 ですが、それとは別に、古くから世に崇敬ある祇園社を「日本三祇園」といいます。

 ではその「日本三祇園」がどこにあるのか知っているという方は少ないと思います。

 答えをいうと、

 京都市 八坂神社(関連神社の総本社)
 広島県福山市鞆の浦 沼名前神社
 徳島県海部郡海陽町宍喰 八坂神社
 
 なのです。

 ⦿ 歴史
 八坂創建以前、八坂郷には八坂造(やさかのみやつこ)と名乗った渡来系の人々が住んでいました。
 八坂神社は斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりのしおみ)の創建といわれています。
 牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するといわれています。
 そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとされています。
 この時に祀ったと思われるのが頗梨采女(はりさいにょ:牛頭天王の后とされる神)です。
 元より、祀っていた龍神と集合した可能性が高く、頗梨采女が神泉苑の善女竜王と同一視されるのはこのことが原因と思われます。
 貞観18年(876年)に僧である円如が播磨国広峯に祀られる牛頭天王を分霊し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称しました。
 この寺が祇園寺と呼ばれるようになったが、これは牛頭天王が祇園精舎の守護神といわれるためである。
 延長4年(926年) ある修行僧が祇園天神堂を建立。この天神堂が現在の八坂神社の原形です。
 のちの承平4年(934年)に、祇園感神院を建立しました。
 創建については諸説ありますが、祭神は古くから牛頭天王(及びそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実です。
 古くからある神社には違いありませんが、延喜式神名帳には記されていません。
 これは神仏習合の色合いが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られます。

 ある方のブログでは、

 牛頭天王は新羅から瀬戸内より備後国、つまり現在の広島県福山市に渡来している。
 現在の福山市の素盞嗚神社こそが日本で最初に牛頭天王を祀ったとされる場所だ。
 因みにこの神社が茅の輪の発祥の地といわれる。
 この後に播摩に勧請。
 その後、播摩の牛頭天王は京都の八坂郷の瓜生山に降臨したとされる。
 
 と記されています。

 ではどこからスサノオは出発したのでしょうか?

 釈日本紀より「備後国風土記逸文」
 備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。
 昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。
 その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。
 ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。
 すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。
 ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。
 蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。
 即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。
 詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。

 要約すると、
 旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながら粟飯等でもてなした。
 後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
 武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。
 とあり、備後国風土記から察するに、備後から見て北の海(出雲)にいた時に、南の海(阿波)に夜這いに出かけた云々とあります。

 当時南海道は四国と紀伊ですので、位置的に符合します。
 また、再び訪れていますので、スサノオが戻ってきていることになります。

 『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、素戔嗚尊が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述があります。
 「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説もあります。

 何かの繋がりがあるかも知れませんが、海部郡のキュウリの生産は徳島県下2位、促成キュウリの生産は県下1位です。
 また、平成の大合併により名称が大変分かりにくくなっていますが、現徳島県海部郡海陽町の前身である下灘三町(海南町・海部町・宍喰町)のうちの海部町は、農村部である川西村と漁村部である鞆奥村(鞆浦と奥浦が合併)が合併した町です。
http://korakusan.blog.fc2.com/blog-entry-27.html

八坂神社 Vol.阿波

         img_1.jpg

 八坂神社、通称祇園さんは、全国に約2300社あるとされております。
 社名としては、元の祭神であった牛頭天王が祇園精舎の守護神であるとされていたことから、元々「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていたものが、慶応4年=明治元年(1868年)の神仏分離令により「八坂神社」と改められました。

         yamakasazu01.jpg

 「日本三大祇園」といえばみなさんご存じ有名どころである、

 祇園祭(京都市八坂神社)
 博多祇園山笠(福岡市櫛田神社)
 会津田島祇園祭(南会津町熊野神社)


 ですが、それとは別に、古くから世に崇敬ある祇園社を「日本三祇園」といいます。

 ではその「日本三祇園」がどこにあるのか知っているという方は少ないと思います。

 答えをいうと、

 京都市 八坂神社(関連神社の総本社)
 広島県福山市鞆の浦 沼名前神社
 徳島県海部郡海陽町宍喰 八坂神社
 
 なのです。

         DSCN0577.jpg

         DSCN0579.jpg

 宍喰 八坂神社(通称、祇園さん)
 御祭神:素戔男尊
 「宍喰八坂神社の祇園祭」は、国選択無形民俗文化財になっています。

         DSCN0615.jpg

         DSCN0616.jpg

 かつて宍喰南北城の北城だった祇園山城跡碑
         DSCN0614.jpg

 由緒は古く、鎌倉時代に手写しの大般若経が奉納されていることでも明らかであり、大永6年(1526)、天文17年(1548)に再建の記録があります。
 以前神社は岡ノ山にあったが、慶長元年(1596)に現社地の久保に鎮座。
 また境内の夫婦楠は、根元の周囲が約20mもある樹齢約500年の大木で町指定天然記念物になっています。

 これが夫婦楠
         DSCN0606.jpg

         DSCN0607.jpg

 二の鳥居
         DSCN0581.jpg

 なぜか"八阪"になっています(´・ω・`)
         DSCN0580.jpg

 狛犬
         DSCN0586.jpg

         DSCN0587.jpg

 拝殿
         DSCN0588.jpg

         DSCN0610.jpg

         DSCN0611.jpg

 本殿
         DSCN0593.jpg

 神紋
         DSCN0589.jpg

 八坂神社の御神紋は「五瓜に唐花(ごかにからはな)」「左三つ巴(ひだりみっつともえ)」
 なぜか2つの神紋があります。

         yasakasinmon01.jpg

 現在もこの紋については謎とされており、明確な答えが出ていない紋の一つとされています。
 そもそも神社が紋を使い始めた時期も不明ですが。
 「洛中洛外図」で現存する最古のものは、『歴博甲本』(1525年頃。室町時代)。
 これを見るとすでに山鉾には五瓜に唐花がついていることから、少なくともこの頃にはすでに八坂神社は五瓜に唐花紋を使用していたとされます。

 この五瓜に唐花紋がキュウリの断面に似ていることから、八坂神社の氏子や祇園祭の山鉾の人々は祇園祭の期間である七月はキュウリを食べないといいます。

         P1130391[1]

 博多の祇園祭りでも、祭神の櫛田神社の神紋がキュウリの断面に似ていることから、祭りの期間中はキュウリを食べないといいます。
 こうした習慣は須佐之男命あるいは京都の八坂神社と関係のある全国各地の神社のある地域で見られます。
 この話から、五瓜に唐花紋は「胡瓜の断面を象った紋」と言われることがあります。

 祇園社が木瓜(もっこう)の神紋であった理由について、1つの伝承がある。
 江戸時代の随筆である『遠碧軒記』には、「祇園の天王の紋は木瓜也。…今知恩院の内に瓜生石と云石あり。此所が根本牛頭天王の降下の地にて 此石の上に瓜のつる出で瓜なる奇瑞ありたりといふ。それによって瓜生石と云」と記されています。

 『伊勢参宮名所図会』(享和二年1802年)の挿絵には、瓜鉾は瓜生石の上に一夜に蔓を伸ばした瓜の形をかたどったものといわれ、その瓜はキュウリではなく、マクワウリのような形をしています。

 また、岩手県の水沢鎮守府八幡宮 加勢蘇民祭に、
 蘇民祭と言われるゆえんは、850年(嘉祥3年)、鎮守府に来た慈覚大師は、管内が疫を患い、民庶死に尽くすと言われるほどの病災に悩んでいることを知り、八幡宮心経会に、大師所持の疫病除けの護符を捧げ、庶民の苦患を八幡大神に祈りました。
 この「そみんぼう」の由来は、大師が嘗って大病を患いしとき、夢に天より薬を送らる。
 形、マクワウリの如くして、それを喰うとその味密のごとく甘味であった。「是は三十三天不死の妙薬なり」と、「飲むこと三度、十日ほどして身健に、眼明らかに、心にわだかまるものなく、病患を絶つことを得た。」 三代実録より
 このマクワ瓜の形に葉と花をそえて薬神の像として版刻し、正月七日夜おこもりして白紙に押し、八日早暁に国家安穏、悪魔退散、諸病消除の祈祷をして氏子の戸口に貼る。この門には疫病、災害が入らないという。
 のちにこの薬神を八坂神社の牛頭天王とし、スサノオノカミとし、蘇民将来の故事によって「そみんぼう」と言うようになった。現在行われている「蘇民祭」はこれである。(岩手の蘇民祭より)

 昔のキュウリは大変不味かったとされ、神紋に使うとは思えず、これはマクワウリではないかという説が御座います。
 記紀にも瓜が登場しますし、万葉集には山上憶良の詠んだ有名な「瓜はめば 子ども思ほふ 栗食めば まして思はゆ 何処より 来りしものぞ 眼交に もとな懸りて 安眠し寝さぬ」の長歌がある。
 この瓜は、マクワウリを指すのが定説とされています。
 更に弥生時代前期の遺跡からマクワウリの種子が発見されています。

         tomo01.jpg

 次に、「三つ巴」に関してですが、その由来には諸説あり、その中の一つに、弓矢のの形から来ているというのがあります。

         tomo02.jpg

 八幡神は源頼朝の信仰が厚く、武芸の神・弓の神として祀られたといいます。
 つまり、「三つ巴」は武芸のシンボルということです。

 ⦿ 歴史
 八坂創建以前、八坂郷には八坂造(やさかのみやつこ)と名乗った渡来系の人々が住んでいました。
 八坂神社は斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりのしおみ)の創建といわれています。
 牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するといわれています。
 そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まるとされています。
 この時に祀ったと思われるのが頗梨采女(はりさいにょ:牛頭天王の后とされる神)です。
 元より、祀っていた龍神と集合した可能性が高く、頗梨采女が神泉苑の善女竜王と同一視されるのはこのことが原因と思われます。
 貞観18年(876年)に僧である円如が播磨国広峯に祀られる牛頭天王を分霊し、その後、藤原基経が精舎を建立して観慶寺(別名 祇園寺)と称しました。
 この寺が祇園寺と呼ばれるようになったが、これは牛頭天王が祇園精舎の守護神といわれるためである。
 延長4年(926年) ある修行僧が祇園天神堂を建立。この天神堂が現在の八坂神社の原形です。
 のちの承平4年(934年)に、祇園感神院を建立しました。
 創建については諸説ありますが、祭神は古くから牛頭天王(及びそれに習合した素戔嗚尊)であったことは確実です。
 古くからある神社には違いありませんが、延喜式神名帳には記されていません。
 これは神仏習合の色合いが濃く延暦寺の支配を受けていたことから、神社ではなく寺とみなされていたためと見られます。

 ある方のブログでは、

 牛頭天王は新羅から瀬戸内より備後国、つまり現在の広島県福山市に渡来している。
 現在の福山市の素盞嗚神社こそが日本で最初に牛頭天王を祀ったとされる場所だ。
 因みにこの神社が茅の輪の発祥の地といわれる。
 この後に播摩に勧請。
 その後、播摩の牛頭天王は京都の八坂郷の瓜生山に降臨したとされる。
 
 と記されています。

 ではどこからスサノオは出発したのでしょうか?

 釈日本紀より「備後国風土記逸文」
 備後の国の風土記にいはく、疫隈(えのくま)の国つ社。
 昔、北の海にいましし武塔(むたふ)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。
 その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。
 ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず、兄の蘇民将来惜し奉りき。
 すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。
 ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。
 蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。
 即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。
 詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民と女子一人を置きて、皆悉にころしほろぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。


 要約すると、
 旅の途中で宿を乞うた武塔神を裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながら粟飯等でもてなした。
 後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。
 武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた。

 とあり、備後国風土記から察するに、備後から見て北の海(出雲)にいた時に、南の海(阿波)に夜這いに出かけた云々とあります。

 当時南海道は四国と紀伊ですので、位置的に符合します。
 また、再び訪れていますので、スサノオが戻ってきていることになります。

 『日本書紀』巻第一神代上第八段一書に、素戔嗚尊が新羅の曽尸茂利/曽尸茂梨(ソシモリ)という地に高天原から追放されて降臨し、「ここにはいたくはない。」と言い残し、すぐに出雲の国に渡ったとの記述があります。
 「ソシモリ」は「ソシマリ」「ソモリ」ともいう朝鮮語で、牛頭または牛首を意味し、朝鮮半島の各地に牛頭山という名の山や牛頭の名の付いた島がある由と関連するという説もあります。

 何かの繋がりがあるかも知れませんが、海部郡のキュウリの生産は徳島県下2位、促成キュウリの生産は県下1位です。
 また、平成の大合併により名称が大変分かりにくくなっていますが、現徳島県海部郡海陽町の前身である下灘三町(海南町・海部町・宍喰町)のうちの海部町は、農村部である川西村と漁村部である鞆奥村(鞆浦と奥浦が合併)が合併した町です。

 宍喰の山鉾
         hoko.jpg

 阿波古事記研究会の見識によると、
 「海原を治めよ」と父の伊邪那岐大神に命じられて須佐之男命が最初にやって来たのがこの「宍喰」であったのではといわれています。
 鞆浦の地である和奈佐湾(現那佐湾)から海神族である海部一族と手を取り、他地へ渡っていったのではないのかと思われるのです。
 その痕跡が鞆、水神、キュウリの神紋、他国の風土記などから繋がりを見せるのです。

 スサノオは、阿波から出雲、新羅へ赴き、帰路に出雲経由で備後から播磨、丹波、そして再び阿波へ…と極めて広範囲に渡って行動していたと推測ができるのです。

 福山市(備後国)の鞆の浦海部郡(阿波国)の鞆浦(南の海)とスサノオとの繋がり。
 2つの家紋の謎。

         DSCN0617.jpg

 スサノオと海部、そして出雲との繋がりがあったことはまず間違いがないでしょう。
 前項にある和奈佐の翁の話にも記したように、古の阿波と出雲は特別に深い関連がありそうです。

0 件のコメント:

コメントを投稿