豊後国風土記(風土記)|日本古典文学全集|ジャパンナレッジ
風土記とは、土地の名前の由来や、その土地に伝わる伝承、神々や天皇のエピソード、特産品など、その国の状況や成り立ちがわかるような報告をするよう中央政府が地方に命じ
地誌。一巻。成立については、732~759年(天平4~天平宝字3)説ほか諸説がある。『日本書紀』によったためか、近似する文章が多い。編集部
の詔によって、おそらく大宰府で、他の九州風土記とともに編述し言上した解文。写本の標題には「豊後国風土記」「風土記豊後国」などとある。編者未詳。編述に藤原宇合が参
ぶんごのくにふどき 豊後風土記 風土記/豊後国 地誌
ぶんごのくにふどきかい 唐橋 君山(からはし くんざん) 地誌 注釈
数ヵ所の古墳群が確認される。古代以来大野郡に属し、「和名抄」記載の同郡大野郷に含まれたと推定される。「豊後国風土記」にみえる土蜘蛛小竹鹿奥・小竹鹿臣のいた網磯野
「和名抄」所載の郷で、「豊後国風土記」の速見郡五郷の一つに該当すると考えられている。現在の別府市域にあたる。別府―島原推定地溝帯の東端に位置し、活発な地殻変動・
と、当郷の本来の郷域は現在の庄内町・挟間町、大分市の賀来・横瀬などに及んだと考えられる。「豊後国風土記」にみえる酒水やその源の発する柏野なども当郷の内である。
南東部は亀石山(九四二・六メートル)・湯ノ見岳(七四〇・五メートル)などの山がそびえる。南部の五馬台地は「豊後国風土記」にみえる五馬山とされ、中世には玖珠川左岸
近時石灰石・セメントなどの産出が多い。『豊後国風土記』『延喜式』『和名類聚抄』などによると律令時代は丹生・佐尉(井)・佐加・穂門の四郷から成り、丹生郷に駅があっ
近時石灰石・セメントなどの産出が多い。『豊後国風土記』『延喜式』『和名類聚抄』などによると律令時代は丹生・佐尉(井)・佐加・穂門の四郷から成り、丹生郷に駅があっ
ものの、五世紀代の隆盛には遠く及ばないようである。〔古代〕「和名抄」では「安万」と訓む。「豊後国風土記」では「郷肆所里一十二駅壱所 烽弐所」とみえ、海部郡・丹生
ほぼ「延喜式」全体にみられる郡の配列と合致する。日田・玖珠両郡に駅家が置かれていたことは「豊後国風土記」の記載からも明らかであるから、荒田・石井の両駅が日田・玖
「和名抄」道円本・高山寺本・東急本ともに海部郡に配しているが、石井郷などと同様日田郡内の郷と考えられる。「豊後国風土記」にみえる日田郡五郷の一つ。「和名抄」には
「豊後国風土記」によれば天武天皇七年(六七八)の地震の際に、五馬山の一峡谷が崩落し、「慍れる湯の泉、処々より出ず。湯気、熾りに熱く、飯を炊くに早く熟す。但し一処
枳波夜郡」(ウキハヤノコホリ)とよんだが、後の人がこれを誤って「生葉郡」となったという。「豊後国風土記」日田郡条に「筑後国生葉行宮」がみえる。「和名抄」諸本とも
「豊後国風土記」や「和名抄」にみえる郷。「豊後国風土記」では郡家の南方に位置したとする。地名の由来は「豊後国風土記」に「昔、この村に土蜘蛛の堡あり。石を用いず、
条にみえる豊後国の駅で、小路にあるため駅馬五疋を配した。日田郡石井郷と駅名が通じるので、「豊後国風土記」にみえる日田郡内の一駅をさすとする。豊後国府と大宰府をつ
や大宮司の地名があり、後述の円通寺にも近く、この辺りには庄園の中枢部があったと思われる。「豊後国風土記」に記す郡家もこの付近にあったという説が有力で、石垣八幡宮
で、臼杵城下からほぼ八里、岡城下からほぼ六里の距離にある。南方で南へと日向道が分岐する。「豊後国風土記」にみえる大野郡二駅の一で、「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条に
豊後国直入県の土蜘蛛に「打猴」があり、その征討譚が載る(『景行紀』十二年十月条)。「打猴」は『豊後国風土記』にも出る(二九二ページ・三〇一ページ)。「頸猴」は肥
本城村の西にあり、五馬・八本木・山口・二杖・川原・八久保などの集落がある。竹田・日田往還が通る。「豊後国風土記」に五馬媛・五馬山とあり、五馬庄の鎮守であったとい
日田庄の内であったとされるが、史料上では広域通称名としてみえることが多く、近世に及ぶ。庄名は「豊後国風土記」にみえる五馬山との関連が指摘される。天瀬町出口の山中
「豊後国風土記」に「五馬山、郡の南にあり。昔、此の山に土蜘蛛あり。名を五馬媛という。因って五馬山という」とみえ、郡(郡家)の南にあった。さらに同書は天武天皇治世
調達を行った海石榴市や、土蜘蛛の血の流れた血田の地名を稲葉川に続けて記述している。しかし「豊後国風土記」では海石榴市・血田や網磯野などの地名を大野郡に立項し、「
)の護念寺末寺であった(小倉領寺院聚録)。国崎八幡神社は菟名手を祭神としている。菟名手は「豊後国風土記」に景行天皇から「豊国直」の姓を与えられたとみえる。古来正
「和名抄」にみえる郷。国東郡の一つ。「豊後国風土記」によると郡家の北に位置した。同書には景行天皇が当地に行幸した折、「此の国は、道路遥かに遠く、山と谷とは阻しく
三隈川左岸に位置する。天保郷帳には古くは上野村・山手村・切畑村・所迫村とある。地内の鏡坂は「豊後国風土記」日田郡条の景行天皇が上った鏡坂とされる。同所には享和二
中世の竈門庄の遺称地で、村の中心には庄の氏神であった八幡竈門神社があり、これを中心に発達した。「豊後国風土記」にみえる竈門山について「豊後国志」は当村にあると記
れたと考えられており、また五体の人骨は三世代にわたる親族とみられることも指摘されている。「豊後国風土記」にみえる土蜘蛛五馬媛と当古墳の関係も注目される。なお平成
まち)を編入、これに伴い北海部(きたあまべ)郡は消滅した。市名は古代以来の郡名によるが、『豊後国風土記(ぶんごのくにふどき)』に碩田(おおきた)とあるほか、史料
豊後(ぶんご)の2国となった。県名は、古代に国府が置かれて以来、豊後国の中心をなしてきた大分郡にちなむ。『豊後国風土記(ふどき)』によると、景行(けいこう)天皇
洲を形成して別府湾に注ぐ。幹川流路約五一キロ、流域面積約六七四平方キロ、県下第二の河川。「豊後国風土記」にすでに「大分河」とみえ、「此の河の源は、直入の郡の朽網
すなわち碩田国(おおきたのくに)の地で、大分国造の居住地であり、大化改新で大分郡となった。『豊後国風土記』に「郷玖所(里二十五) 駅壱所 烽壱所 寺弐所(僧寺尼
いることも興味深い。〔古代〕「和名抄」では「於保伊多」とよみ、国府所在郡としている。また「豊後国風土記」では「郷玖所里廿五 駅壱所 烽壱所 寺弐所 一僧寺、一尼
同二十二年以降の『決議録』『歳入歳出決算書』『会議録』は議会事務局に保管。 県史その他 地誌として古くは『豊後国風土記』、岡藩唐橋世済の編纂になる『豊後国志』
「和名抄」所載の郷で、「豊後国風土記」の速見郡五郷の一つに該当すると考えられている。「和名抄」高山寺本には大野とみえるが、道円本・東急本では大神とある。現在の日
略式化したものとして普及した横穴墓は、竜ヶ鼻横穴墓群・十六横穴墓群(三重町)など各地に分布している。「豊後国風土記」によれば、大野郡はすべて原野であることが郡名
遺跡、政所遺跡からは早期の貝殻文尖底土器が出土した。古代の柏原郷の一部であったと思われ、「豊後国風土記」に柏原郷の記述がある。その後当地を含む直入郡は郡名のまま
馬として「小野十疋、荒田、石井、直入、三重、丹生、高坂、長湯、由布各五疋」九駅がみえる。「豊後国風土記」では大野郡の駅が二ヵ所となっていること、また各駅の記載順
「豊後国風土記」日田郡条に「郡の西にあり。昔、纏向日代宮御宇天皇、この坂の上に登り、国形を御覧して、即ち勅したまひて曰く。この国の地形は鏡の面に似たるかもと。因
[現]挟間町向原 柏野 鬼瀬村の北東にある。当地を流れる黒川は柏野川ともよばれ(豊後国志)、「豊後国風土記」に酒水として「出郡西柏野之磐中」とみえる。松富名中分
「豊後国風土記」にみえる郷。同風土記は「郡の南にあり。昔者、此の郷に柏樹多く生える。因って柏原郷と曰う」との地名起源を載せる。しかし「和名抄」には記載がない。訓
位置する。中央部を橘木川が東流し、比較的平地が多く水田が展開するが、東西には山林が多い。「豊後国風土記」にみえる直入郡柏原郷、中世直入郷柏原名(村)の遺称地。天
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